やまけん

演劇研究・批評。1983年生まれ。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartsca…

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演劇研究・批評。1983年生まれ。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeで短評連載中。 http://artscape.jp/report/review/author/10141637_1838.html

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          11月1日(月) 起きてテレビをつけたら比例で自民が議席を増やしていて衝撃を受ける。天気も悪く気分が塞ぐ。月曜なのに芝居を2本観る予定になっている。雨が降るかもとのことで折りたたみ傘をカバンに入れてまずはBUoYへ。ほろびて『ポロポロ、に』(作・演出:細川洋平)。受付でMくんと遭遇。案内された席はSさんの隣だった。斜め後ろにUさん。陰惨でほとんど救いがなく、しかも明らかにこの国の未来を映した作品は今日という日に見るにはあまりに重い。現状から目を背け続けるうちに気がつけば貧困の

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        観劇日記(11月第4週)

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          観劇日記(2021年10月第5週)

          10月27日(水) 憩室炎で一日寝ていた。4ヶ月ぶり今年3度目。前回は城崎国際アートセンターでの滞在制作に向かう当日の朝に発症して出発を1日遅らせたのだった。昨晩は痛みでほとんど寝られずNetflixで『イカゲーム』をコンプリート。主人公の最後の選択はどうかと思う。artscapeの原稿を書かねばなのだが痛くて起きていられない。昼は合間合間でウトウトしながら『文藝』の聞き書き特集や田中功起『リフレクティヴ・ノート(選集)』を読む。小説や現代美術における「当事者」と舞台芸術にお

          観劇日記(2021年10月第5週)

          オンライン演劇覚書3

          今日たまたまそういう場面を目撃したのだが、『未開の議場』のようにオンライン会議の画面をそのまま見せるのではなく、オンライン会議の参加者の様子をその室内に設置されたまた別のカメラから捉えた映像を使うと多少なりとも「演劇らしさ」が増して感じられるのではないだろうか。 おそらくそれは「オンライン会議に参加する」という行為を引いて捉える=その行為の全体を「やって見せる」形になるからだろう。現実と嘘の二層構造というのはつまり「メタ」であり、「引いて見る」ことが成立すると「演劇らしい」

          オンライン演劇覚書3

          オンライン演劇覚書2

          ところで、私が思う「演劇らしさ」、私が演劇に期待するもの、私が何かを演劇であると感じるときの判断基準になっているものは何かというと「嘘」である。正確に言えば、「嘘を嘘と知りながら真に受けることを前提とした奇妙な形式」ということになるだろうか。もちろんあらゆるフィクションは多少なりともこのような側面を持つのだが、演劇の多くは生身の俳優が別人を演じるというかたちを取るのでその「あからさまな嘘」が意識されやすい。私にとって演劇が「生」であることの意味の大部分はそこ、つまり、嘘の下地

          オンライン演劇覚書2

          オンライン演劇覚書1

          昨日、「『未開の議場』-オンライン版-」を観た。脚本・演出はカムヰヤッセンの北川大輔。もともとカムヰヤッセンで上演した戯曲をリメイクして「「商店街のお祭りの実行委員会が、オンラインで会議をする」という設定の、生放送の会話劇」に仕立てたらしい。「俳優は稽古から本番まですべてを、Zoomというオンライン会議アプリで行」い、観客は「会議の様子を、YouTubeLiveで配信」しているものを観る。北川は「お芝居を作ります。オンラインで」と言っているのでこれは演劇として作られたものだと

          オンライン演劇覚書1

          村川拓也『ムーンライト』@京都市西文化会館ウエスティ ホール(2018.12.16.)

          村川拓也『ムーンライト』はピアノの発表会を題材にした演劇作品だ。なぜピアノの発表会か。この作品はロームシアター京都×京都市文化会館 5 館連携事業「地域の課題を考えるプラットフォームCIRCULATION KYOTO – 劇場編」の一環として上演された。公式ホームページによれば同事業は「京都市の中心部を囲むように点在する5つの文化会館を線でつなぎ、芸術文化の視点から京都という都市を見つめ直すプロジェクト」であり、「新進気鋭の5組のアーティストが各文化会館の位置する地域を出発点

          村川拓也『ムーンライト』@京都市西文化会館ウエスティ ホール(2018.12.16.)

          Counting Sheep@Vault Festival 2019 in London

          2019年3月にロンドンでCounting Sheepという作品を観た。 Vault Festivalというフェスティバルの参加作品で、ロンドン滞在中に観たもののなかでこれが一番面白かった。お国柄か、ロンドンで観た作品のほとんどがストレートプレイで、質は高くても(10本ほど観て面白くないと思ったのはダンスの1本だけ)物足りなさを感じていたということもあったかもしれないが、それでも私が2019年に観た作品のなかでも1、2を争う。 イマーシヴ・シアター(没入型演劇)ということで、

          Counting Sheep@Vault Festival 2019 in London

          新聞家『保清』レビュー

          他者としてのテクストと対峙することを通して人と人とが向き合う場と営為を創出してきた演劇カンパニー・新聞家。主宰の村社祐太朗はこれまでも、多くの作品で毎回の上演後に観客を交えての意見会を設けるなど、上演前後の時間も含めた「場」の構築に取り組んできた。今回の『保清』において村社は9日間出入り自由のオープンスタジオを用意することで、そこに生じる多様な関わりのありようを浮かび上がらせてみせた。 5200円の参加登録料にはいくつかの割引が設定されている。割引は長年の新聞家ファン[

          新聞家『保清』レビュー

          between to be and not to be/存在と非在の間で——ゲッコーパレード『ハムレット』評

          演劇は観客が存在してはじめて成立する。世界的な演出家であるピーター・ブルックが「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある。」(ピーター・ブルック『何もない空間』)と言ったように、誰かが何かをしているのをまた他の誰かが見るとき、そこに演劇というのは立ち上がるのだ。あるいはそこから行為する「誰か」を取り除くことさえ可能かもしれない。たとえば劇作家・演出家の平田オリザがロボット工学者の石黒浩とともに取り組んでいる「ロボット演劇」「ア

          between to be and not to be/存在と非在の間で——ゲッコーパレード『ハムレット』評

          閉じると開く——亜人間都市『東京ノート』

          亜人間都市『東京ノート』の批評を書くためには、まずは私自身のスタンスを明らかにしなければならない。同作は様々な意味において「異なる声の集う場所」としてあったからだ。私の声はいかなる立場から発せられるものか(しかしもちろんそんなことに興味はないという立場もありえるだろう。読み飛ばしても構わない)。 *** 演劇批評家としての私が書く文章のほとんどは、ある個別具体的な作品に対する批評としてある。いくつかの作品を並べて論じることで作家論を構成することもあるが、多くはある一つの作

          閉じると開く——亜人間都市『東京ノート』

          サミュエル・ベケット『わたしじゃない』における観客の知覚の変容について

          はじめに  1972年にニューヨークのリンカーンセンターで初演された『わたしじゃない』はベケットの演劇作品の中でもいくつかの点で非常に謎めいた作品である、とひとまずは言うことができるだろう。舞台上には身体の他の部分から切り離され宙に浮かぶ「口」と黒いジェラバに身を包んだ正体不明の「聴き手」の姿。両者は通常の人間では考えられない高さに位置している。さらに、上演の間中「口」が発し続ける言葉は非常な高速かつその語る内容は断片的であるため、観客が「口」の語りの意味内容を完全に理解す

          サミュエル・ベケット『わたしじゃない』における観客の知覚の変容について

          ロンドン*断片 1

          劇評マガジンはもともと「書けなく」なった自分のためのリハビリのための場所として用意したのだった。 「ちゃんとした」劇評はありがたいことにいくつかの場所に書かせてもらえていて、しかしそれは裏返せば書かなければならないということでもあり、これはあとで原稿にしようとか考えるとTwitterも何も「書けなく」なる(「書けなく」なった理由は他にもあるのだが、それはまあここではいい)。それで「ラフに」書くための(しかし書くためのモチベーションがゆるやかに与えられるような)場所としてここは

          ロンドン*断片 1

          同じ大地の上に立つ——マレビトの会『福島を上演する』の倫理

          フェスティバル/トーキョー18における上演で3年にわたるプロジェクトにひとつの区切りをつけたマレビトの会『福島を上演する』。同プロジェクトはそのタイトルとは裏腹に、主にその形式の面で注目を浴びてきた。何もない舞台空間と大雑把なマイム。ほとんど普段着のままの俳優たちの発する言葉には「リアルな」感情はのせられておらず(少なくともそのように見え)、多くの場合は棒読みのようにすら聞こえる。特異なのは演技の形式だけでない。プロジェクト全体、あるいは公演全体としても極めて特異な形式が採用

          同じ大地の上に立つ——マレビトの会『福島を上演する』の倫理