between to be and not to be/存在と非在の間で——ゲッコーパレード『ハムレット』評
演劇は観客が存在してはじめて成立する。世界的な演出家であるピーター・ブルックが「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある。」(ピーター・ブルック『何もない空間』)と言ったように、誰かが何かをしているのをまた他の誰かが見るとき、そこに演劇というのは立ち上がるのだ。あるいはそこから行為する「誰か」を取り除くことさえ可能かもしれない。たとえば劇作家・演出家の平田オリザがロボット工学者の石黒浩とともに取り組んでいる「ロボット演劇」「アンドロイド演劇」シリーズはその可能性を示唆する。もはや俳優は人間に限定されない。
だが、(少なくとも今のところは)演劇において観察する主体は人間でなければならない。虚構を虚構と知りながら信じることは人間にしかできないからだ。観察する主体によって初めて演劇というフィクションは成り立つ。その意味において、演劇は常にすでに「読まれる」ことによって起動するプログラム=「パラフィクション」(佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』)であるということもできるだろう。
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ゲッコーパレードは二〇一五年に結成された舞台表現のための集団。埼玉県蕨市にある木造家屋「旧加藤家住宅」を拠点に活動している。二〇一五年十二月に旗揚げ公演として『鳥の本』を新宿眼科画廊で上演し、以降は旧加藤家住宅を舞台に「戯曲の棲む家」と銘打ったシリーズを展開している。二〇一六年四月にvol.1としてソフォクレス『アンティゴネー』を上演して以降、六月にvol.2として竹内銃一郎『戸惑いの午后の惨事』を、八月にvol.3としてシェイクスピア『ハムレット』を、十月にvol.4として宮沢賢治『飢餓陣営』と三島由紀夫『道成寺』を二本立てで上演し、十二月にはvol.5としてベルトルト・ブレヒト『リンドバーグたちの飛行』の上演が予定されている。
「戯曲の棲む家」シリーズの特徴はそのタイトルが示す通り、上演がごく普通の木造家屋で行なわれる点にある。劇場は演劇というフィクションを乗せるために用意されたフラットな空間であり、多くの場合、観客にとって劇場は演劇のフィクションを邪魔しない、いわば透明なメディアとして機能することになる。演劇を劇場以外の空間で上演する場合、この前提条件が変わってくる。そこに確固として存在している「現実」をどのように扱うか、という点がまずは問題になってくるのだ。
ここでは、「戯曲の棲む家」シリーズのうちvol.3『ハムレット』を取り上げ、そこで現実とフィクションとがどのような関係を結んでいたのかを具体的に見ていく。
まずは『ハムレット』のあらすじを確認しておこう。
王子ハムレットは父王を毒殺された。犯人である叔父は、現在王位につき、殺人を共謀した母は、その妻におさまった。ハムレットは父の亡霊に導かれ、復讐をとげるため、気の触れたふりをしてその時をうかがうが…。(新潮文庫版『ハムレット』あらすじより)
三時間を超える上演も珍しくないこの作品をゲッコーパレードはたったの六〇分で上演した。台詞やエピソードをカットして上演するのではなく、エピソードの断片を並べるコラージュ的な手法を用いての上演だった。エピソードの並びは物語の進行に沿ったものではなく、『ハムレット』を知らない観客がその筋を把握するのは困難だったかもしれない。ゲッコーパレードが選択したのは、上演を通じて『ハムレット』という作品の「核」を浮かび上がらせることだった。そしてそれは「戯曲の棲む家」という試みとも通底している。
ゲッコーパレード版『ハムレット』は旧加藤家住宅の主に台所で上演され、観客はそれを畳敷きの隣室から「覗き見」る。冒頭はこうだ。照明が消えた暗い台所に一人の男が入ってきて、何事かつぶやきながら冷蔵庫の中身を漁りはじめる。男がつぶやいているのはどうやら『ハムレット』の一節らしい。『ハムレット』が父の亡霊に取り憑かれた男の物語だったように、ゲッコーパレード版は『ハムレット』に取り憑かれた男の物語として幕を開ける。あるいは取り憑くのはオフィーリアの狂気だろうか。男は台所のテーブルでゆで卵をむさぼり、あるいは台所用品を『ハムレット』の登場人物に見立て、人形劇に興じたりもする。
男の家族と思しき女性二人も登場するのだが彼女たちの立ち位置は微妙だ。男に付き合うように『ハムレット』の台詞を口にしたかと思えば『ハムレット』の文庫本を手にその台詞を読み上げる。そしてときに『ハムレット』の登場人物そのものであるかのようにさえ振るまう。一貫しない彼女たちのモードに一応の説明をつけることも可能だろう。彼女たちは男の狂気が悪化しないよう、ひとまず男に合わせている。朗読はその練習だ。完全に『ハムレット』の登場人物と化した彼女たちの姿は男の見る幻覚、あるいは、彼女たちもまた、男の狂気に飲み込まれてしまったのかもしれない。
しかしおそらく、彼女たちの態度の変化の理由はそれほど重要ではない。重要なのは、劇中に複数の演技のモードが存在しているということだ。たとえば文庫本を手にして台詞の朗読をする俳優は、『ハムレット』の登場人物というよりはむしろ男の家族(家の住人?)として存在している。男に付き合って台詞を発する(ように見える)彼女たちはそれより少しだけ『ハムレット』の登場人物に近い。男がいなくても『ハムレット』の登場人物として振る舞う彼女たちはほぼ百パーセント『ハムレット』の世界に生きていると言えるだろう。
そもそも、冒頭部の演出から観客(の多く)はゲッコーパレード版をなんとなく「『ハムレット』に取り憑かれた男の物語」として見はじめることになる(と思われる)のだが、「男」も「ハムレット」もフィクションの登場人物であるという点では同等の存在である。ゆえに、俳優が完全に『ハムレット』の登場人物としてふるまうとき、「男と家族」の世界はそこに存在していないと言うこともできる。というより、もちろんそんなものはそもそも存在していないのだ。『ハムレット』の背後に「男と家族」の物語が見えるとすれば、それは観客の見る幻でしかない。
観客に「男と家族」が見えるのは、冒頭でそのように導入されているから、ということはもちろんあるのだが、それ以上に、舞台となっているのが民家であったからに他ならない。「男と家族」というフィクションのレイヤーは、旧加藤家住宅という現実によって支えられている。だからこそ、より「たしからしい」フィクションとして観客に知覚されるのだ。
さらに劇中には、客席後方で音響・照明の操作をしていた演出の黒田が突如として立ち上がり、ずかずかと台所へと入っていく場面がある。それどころか、皿に盛ったシリアルに冷蔵庫から取り出した牛乳をかけて食べ、かと思えば客席(といっても畳の上に座布団が並べてあるだけなのだが)の中央に入り込んで観客の頭上のひもを引き電灯を点ける。言うまでもなく、フィクションとしての「男と家族が住む家」は、観客が訪れる旧加藤家住宅という現実と隣接している。黒田の行動は、観客を「男と家族が住む家」から一気に「現実の」旧加藤家住宅へと引き戻すだろう。
旧加藤家住宅という現実、「男と家族」というフィクションとしての「現実」、そして『ハムレット』というフィクション。ゲッコーパレード版『ハムレット』はこの三つのレイヤーに対する観客の認知を巧みに操り、ダイナミックに変化させていく。それが極まるのが三人が食卓を囲む場面だ。
男の狂気もやや落ち着きを見せ(?)、片付けられた台所のテーブルでは三人の食事がはじまる。女性の一人が言ったことに対し男が反発、もう一人の女性はそれをとりなそうとする。いつまでも家に閉じこもっているわけにはいかない、とでも言ったのだろうか。しかし観客はそこで「現実に」交わされた会話の内容を知ることはできない。聞こえてくるのはハムレットと母・ガートルード、そして叔父にして義父たるクローディアスの会話だからだ。視覚情報として観客が認識するのは完全に日本の家族の食卓であるにも関わらず、そこからは『ハムレット』の台詞が聞こえてくる。ここにきて、ハムレットの、男の狂気は観客にまで感染する。実際には家族の会話が交わされているのであって、『ハムレット』の言葉はもしかして私だけに聞こえているのではないか——?
そしてフィクションと現実の境界は決壊し、台所は『ハムレット』というフィクションあるいは狂気に呑み込まれる。そこには「男と家族」というたしからしいフィクションはもはや存在しない。横倒しにされたテーブルの天板の裏には謎めいたオブジェが見え、どぎつい色の照明に照らされた台所で三人は踊る。あからさまなまでに虚構の世界。台所を呑み込んだフィクション=狂気は隣室の観客をも脅かすだろう。
ここには鮮やかなまでに演劇的なるものがある。そこには(い)ないものを見ること。虚構による現実の上書き。ハムレットの狂気は装われたものだったが、一方で彼には「真実」が、それを告げた父王の亡霊のように取り憑いていた。彼以外の人物が見ている世界はハムレットにとっては装われた偽物でしかない。ここで正気と狂気は反転している。だから、ハムレットは問題設定を間違えたのだ。彼はそれが現実か否か(to be or not to be)ではなく、認識の齟齬をこそ問うべきだった。ゲッコーパレード版『ハムレット』は観客の世界認識を転覆させることでそれを鮮やかに示してみせた。存在と非在の間に立ち上がるもの。「戯曲の棲む家」はこれ以上ないほどに演劇的な空間としてその姿を現した。
*『クライテリア1』初出
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