同じ大地の上に立つ——マレビトの会『福島を上演する』の倫理

フェスティバル/トーキョー18における上演で3年にわたるプロジェクトにひとつの区切りをつけたマレビトの会『福島を上演する』。同プロジェクトはそのタイトルとは裏腹に、主にその形式の面で注目を浴びてきた。何もない舞台空間と大雑把なマイム。ほとんど普段着のままの俳優たちの発する言葉には「リアルな」感情はのせられておらず(少なくともそのように見え)、多くの場合は棒読みのようにすら聞こえる。特異なのは演技の形式だけでない。プロジェクト全体、あるいは公演全体としても極めて特異な形式が採用されている。プロジェクトは『福島を上演する』単体で見ても3年間、前作『長崎を上演する』とすでに予告されている『広島を上演する』と合わせればおよそ10年にわたる長期プロジェクトになる予定だ。福島に取材した複数の作家がそれぞれに戯曲を書き、それらが日替わりで組み合わされて上演される。上演はそれぞれ一度きり。2018年は1日に4本ずつで4日間、8人の劇作家による16本の戯曲が上演された。

マレビトの会・主宰の松田正隆は2017年の『福島を上演する』に先がけて「演劇論」と題したテキストを発表し、自らの取り組みを言語化している。「出来事の演劇」と名指されたそれが目指すのは「演劇の上演が、現実の出来事の模倣にとどまることなく、新たな意味の⽣成となる」ものであり、「「⾔葉と⾒えるもの」の結びつき」を「改変」するものなのだという。

「新しい意味の生成」はたとえば松田正隆「見知らぬ人」(2016)冒頭の場面に見られるだろう。何もない演技空間に女性が2人、男性が1人いる。やや離れたところに1人で立っている女性はどうやら料理をしているようだ。もう一方の女性は床に座り、書き物をしている様子。すぐそばに正座の男性。言葉は交わされず、しばしの間。夕飯前の家族の情景? だが、そんな私の推測は、発せられる最初の台詞によって覆されることになる。「お母さん、なんか知らない人がいるんだけど」。ここだけを取り出してみれば他愛ない、しかし優れて演劇的な場面である。演劇は素材たる現実をフィクションで加工することによって成立している。『福島を上演する』はその原理を剥き出しにし、現実とフィクションとの往還を観客に要請する。その遊戯的往還こそが演劇の力なのだと言わんばかりに。

さて、『福島を上演する』が主に形式の面から語られてきたのは、単にその形式のラディカルさが際立っていたからではない。「新たな意味の生成」はある瞬間にふと訪れるものであり、たとえそれが何らかの積み重ねの結果であったとしても、それ自体は一瞬の「出来事」である。つまるところそれは物語=持続する時間と相性が悪いのだ。実際、過去2年間に上演された戯曲群の中でも、物語的側面(単にドラマと言ってもよい)が強く打ち出された戯曲は、上演としては必ずしも成功していないように思えた。物語を受容するには、その意味を切断してしまうような「新たな意味の生成」は邪魔になる。『福島を上演する』を構成する戯曲の多くが短編・中編であることもこの推測を裏打ちしている。『福島を上演する』に「日常」のスケッチのような作品が多いのは(「特別」でない福島を描くというねらいもあろうが)、「日常」こそが「新たな意味の生成」のための場として適当だったからだろう。

ところが、2018年の『福島を上演する』は劇的な長編の上演で幕を開ける。4日間の上演の初日冒頭に置かれた松田正隆による戯曲「父の死と夜ノ森」では、ひとりの男が人を殺す、その前後の時間が描かれる。上演の様子はリアルからかけ離れているとはいえ、作中には殺人の場面そのものも描かれており、戯曲自体が極めて「劇的」な作品であるということができるだろう。最終年度の冒頭に、松田自身の手による「劇的」な戯曲が置かれたことの意味は大きい。

「父の死と夜ノ森」は次のようにはじまる。『福島を上演する』の戯曲はすべてマレビトの会のホームページで公開されているが、戯曲と上演とでは情報開示の順序が異なる。観客たる私の視点から改めて記述すると以下のようになるだろう。1組の男女(「宇津木」と「みな子」)がいるところに、さらに何人かの男女がやって来る。どうやらそこは病院であり、彼らは倒れた老父を見舞いに訪れているらしい。言葉を交わすうち、次々と現れる家族たち。宇津木はその度に席を詰めるが、実は彼は家族の一員ではなかったことが彼の知人の登場によって明らかになる。宇津木はその後、街で見かけた女子高生を追いかけた末に車で撥ね、そのまま自宅へと拉致、最終的に「どうすればいいかわからず、バットで殴打」して彼女を殺してしまい、自らの住む宿舎に火を放つ。

予兆なく起きる拉致・殺人も衝撃的だが、その後に明らかにされる、宇津木が廃炉作業員であるという事実に私は大きな衝撃を受けた。だが、宇津木が廃炉作業員であることが、なぜそれほどの衝撃となるのだろうか。おそらく、私にとって廃炉作業員という仕事は、殺人よりもよほど遠いところにあったのだ。その事実が私に再び、より大きな衝撃をもたらす。宇津木ははじめから殺人犯の廃炉作業員として現れたわけではない。私にとっての宇津木はまずは老人の見舞いに訪れた家族の一員として、次いで彼らに席を譲る青年として現れ、そして殺人犯となり、廃炉作業員となった。身内を心配する家族も、親切な青年も、殺人犯も、廃炉作業員も、私にとっての宇津木の姿は、すべて地続きにある。だから、宇津木の同僚である轟の「おれ、マスコミとかに、なんか聞かれたら、なんて言おうかな」「おれは、いい人だったって言いますよ。だって、いい人でしたから。……無口で普通の人だったって」という、ベタといえばあまりにベタな言葉はしかし、私にとっても切実なものとして響く。

ここで生じた感覚は、続く他の戯曲の上演においてさらに増幅されることになる。他の俳優と同じく、宇津木を演じた三間旭浩もまた、まったく同じ姿のまま、宇津木とは異なる人物として他の作品に登場するからだ。
たとえば、直後に上演される高橋知由「漂着地にて」で、三間は偶然にも(?)「作業員2」という役を演じている。こちらは廃炉作業員ではなく、砂浜に打ち上げられた鯨の調査をする作業員なのだが、観客には「宇津木」と「作業員2」の二つの役を同一人物でないと判断するための明確な基準は与えられない。『福島を上演する』の上演においては、途中で休憩を挟む場合を除き、一つの戯曲と次の戯曲との間で明確な境目が示されることはなく、観客は前後の文脈から事後的に次の戯曲の上演がはじまっていたことを知るほかないのだ。

ゆえに観客は「父の死と夜ノ森」の印象を引きずったまま、「漂着地にて」の世界を眺めることになる。「父の死と夜ノ森」の戯曲の最後にト書きとして書き込まれた物語が、上演においてはカットされていたことも大きい。戯曲では、駅で警官に取り囲まれていることに気づいた宇津木が、女を人質に取って逃走するところまでが描かれている。だが上演は、宇津木と女が「あ」と何かに気づくところで、決定的な結末は描かれないままに閉じられていた。「作業員2」が「宇津木」のその後の(あるいは過去の?)姿である可能性は完全には排除されない。

ここで重要なのは、両者が同一人物であるかどうかではない。両者を三間という一人の俳優が演じていることで、観客がそこに共通する何かを見てしまうということこそが重要なのだ。俳優という器に観客の記憶は堆積する。たとえそれが観客たる私の誤認であったとしても、家族の一員のようにしてそこにいた宇津木の姿をなかったことはできない。殺人犯としての、廃炉作業員としての宇津木の向こうに、家族の一員としての宇津木が重なって見える。いや、それらはそもそもどれか一つに収斂するような類のものではない。

宿舎に火を放った宇津木は、ある家に転がり込み、放火犯であることを知られながらもその家の住人と寝食をともにする。それどころか、様々な言い訳で親戚の葬式に出ることを拒否しようとするその家の老夫に対し「おい、出てやれよ。な、出てやれよ」と働きかけさえするのだ。だが宇津木は、その老夫もまたあっさりと殺してしまう。その殺人自体は、寝たきりの夫の我儘に振り回される老妻を解放するための殺人、行き場のない自分を助けてくれた人物へのある種の恩返しのように見えなくもないのだが、そんな私の推測は、直後に妻もまた殺されてしまうことで宙に浮く形になる。

大雑把なマイムによって舞台上にリアライズされる殺人は、それゆえより一層生々しくもあり、しかしその軽さは際立っている。殺人は特別ではない。宇津木の動機が語られることはない。「どうすればいいかわからず」女子高生を殴りつけてしまった宇津木の行為に殺意と言えるほどの重さが伴っていたかも定かではない。隣人を思いやる気持ちからほんの一歩のところに、人を殺してしまう何かがある。

1日目の記憶は2日目へと引き継がれる。草野なつか「峠の我が家」で三間が演じるのは、出張のついでにかつての恋人・陽香に会いに来ている本宮という男だ。本宮には陽香とヨリを戻したさそうな様子が見えるが、陽香にその気はないようだ。本宮がかつて見せた、陽香の妹・まひるへの態度がわだかまりの一因らしい。本宮は知的障害を持つまひるに「どう接すればいいのかいまいち解らなくて」「困ってた」のだという。陽香と別れた本宮はその夜、陽香と共通の友人である芹那に電話をかけ、「おれ、なんか悪いことしたかな」「なんで一人なのかな」「考えてもわかんないんだよなあ」と胸のうちを吐露する。芹那はそれを「あんたのそういうとこだよ」と一蹴してしまうが、果たして、ここにある不器用な寂しさは本宮だけのものだろうか。本宮と名前の与えられたその男はもちろん宇津木ではないのだが、本当にそう割り切れるのか。

休憩を挟んで続くアイダミツル「みれんの滝」で、三間は青年登山家になっている。七千メートルの地点から「今まで、応援や叱責の、たくさんのお声がけ、ありがとうございました。僕の、おこなっていることには、賛否両論があることと、承知で、それでも意味のあることだと思って、これからも、頑張っていこうと思います」と言葉を発したその男は、単独でのエベレスト登頂に臨み、そして命を落としたのだという。青年登山家の孤独は、三間という俳優を通して、宇津木や本宮のそれと響き合う。

かつて一度だけ会った男を青年登山家に重ね「若い登山家の訃報に胸が痛むのか、彼の安否を想って胸が苦しいのかわからなくなります」という山岳モデルの女の言葉は、青年登山家に宇津木や本宮を重ねて見る私の心情とも通じるものだ。「漂着地にて」の作業員の一人が言うように、人は「二つの場所で死」ぬことはできない。だが、『福島を上演する』の手法は、複数の役の向こうに、一人の俳優という「共通項」を露わにする。それは「彼らは本当に他人なのか」という問いとして私に突きつけられる。

そういえば、冒頭で取り上げた松田の戯曲は「見知らぬ人」というタイトルだった。「見知らぬ人」たる男が去ったあと、母娘のあいだで次のような会話が交わされる。

母「あ、そうか、……思い出したわ。いまの人、お父さんの若い頃に似てたんだ」
娘「へー。そう。私、お父さんの若い頃知らない」
母「あなたはまだ生まれてなかったから」
娘「……なに、え、顔が似てるの?」
母「そうね、顔かな。……雰囲気っていうか」
娘「この前、剣道で友達できたんだけど、その子がとても、アヤちゃんそっくりなの。顔とか、仕草とか。……でね、私、なんか、その子としゃべってたらアヤちゃんと一緒にいるような、そんな感じがしたの。その子にもアヤちゃんと一緒の中身があるっていうか。……でも、びっくりした、そのうちアヤちゃんじゃないってことがわかったから。似てても、全然違うって」
母「そう」
娘「突然わかった」
母「どうして、わかったの?」
娘「……どうしてかな。急に、ぱって、あ、違うって。……そんなの、あたりまえなんだけど」

再び問おう。「彼らは本当に他人なのか」。もちろん、彼らは他人であり、私が彼らになることはできない。それでも私は、他人同士の彼らの間に、何か通じるものを見出してしまう。ここに平田オリザの言う「コンテクスト」の概念を接続することもできるだろう。平田は個人が使う言語や身振りの範囲のことを「コンテクスト」と呼び、「演ずるということは、つまるところ、自分のコンテクストと、演じるべき対象のコンテクストを縒り合わせることなのだ」(『演劇入門』)と言った。ここで言われているのは他者になることの不可能性を弁えながら、それでも他者に「なる」ための方法ではなかったか。演劇的原理の探求は、そこで倫理へとつながっている。

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