劇場のサイズに引っかかる〜新国立劇場『オレステイア』

4月から数ヶ月、目の回るような忙しさの中で日々を送っていたら、いつの間にかnoteに書いていない芝居の感想がたまりにたまっていた。毎年こうなるのである。
オックスフォード出版局のブログ記事に舞台批評の書き方がポストされていたが、それにならって一週間以内に一時間でポストするといった縛りをもうけた方がわたしには合っているのかもしれない...と感じている。

さて、厳密には一週間すぎてしまったのだが、まだ「先週」の範囲内と自分に言い聞かせて2019年6月22日に新国立劇場で見た『オレステイア』の感想を書きたい。
本作は、アイスキュロスの『オレステイア三部作』を下敷きにしたロバート・アイクの翻案脚本を使用している。日本版の翻訳は平川大作で、演出は上村聡史である。

この『オレステイア』、わたしが感想や批評を見られた範囲内ではまあまあ賛否両論で、賛の焦点は俳優に、否の焦点はテキスト・レジや演出が焦点となっていることが多いように見えた。
わたしの印象としては、あちらが立てばこちらが立たず、あちらを面白いと思えばこちらは機能せず...みたいな、中途半端さが拭えなかった。

アイク版『オレステイア』は、アトレウス家唯一の生き残りオレステスがなぜ母殺しに至ったか、一連の流れの源まで遡り、記憶を辿り直し、物証を検討し、穴だらけの事件をひとつのストーリーに仕立て、裁判にかけるといういわば謎解き法廷モノとなっている。(舞台上で示される言動が法廷での検証の一貫だったことが明確に示されるのは、第2幕終盤以降なのだが)
オレステスに織り込まれ抱え込まれ集積した記憶の開陳から始まり、審判可能なストーリーへの編み直しへと、吟味の俎上にあげられる出来事のスケール感が劇の進行に伴って変容していく。
この変容を描き切るには、新国立劇場の中劇場では大きすぎるように見た当初は感じられた。終盤の裁判場面では中劇場のサイズ感で申し分なかったのだが、逆に暑さのこもる家を舞台にコンフィデンシャルなものとして進行するイピゲネイア殺しの顛末は、舞台空間が妙に冷ややかでがらんどうでスカスカしているように思われた。しかし今となっては、イピゲネイア殺しの時点でオレステイアは幼児で姉の死の内実や背景を直接的には知らないという実感としての遠さが空間の寒々しさとして表現されていたのではないかと考えている。
では、新国立劇場の中劇場でバッチリ良かったかといったらそんなことはない。劇が進行して事件の輪郭が明確に描き出されていくにつれて俳優の演技スタイルも変化していくという仕掛け自体はよかったのだが(第一幕のいかにも「仲良し家族」と言いたげな大げさな演技は好きである)、変化するにしても常に中劇場対応サイズだったのがなんだか惜しいなと感じられた。


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