新聞家『保清』レビュー

他者としてのテクストと対峙することを通して人と人とが向き合う場と営為を創出してきた演劇カンパニー・新聞家。主宰の村社祐太朗はこれまでも、多くの作品で毎回の上演後に観客を交えての意見会を設けるなど、上演前後の時間も含めた「場」の構築に取り組んできた。今回の『保清』において村社は9日間出入り自由のオープンスタジオを用意することで、そこに生じる多様な関わりのありようを浮かび上がらせてみせた。

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5200円の参加登録料にはいくつかの割引が設定されている。割引は長年の新聞家ファン[patron]、友人・家族[nicefriends]、慧眼の批評家[nicecritic]、過去に新聞家の作品制作 or WSに参加[nationalteam]、味見(今作限りで金輪際新聞家の作品は観ないということが条件/参加後不足分を支払うことで撤回可能)[EE]、ディレクター・キュレーター[power]の6種類。peatixでの支払い時に括弧内のコードを入力することで割引料金が適用されるシステムだ。ご丁寧に「申告した肩書と実態が不適合だった場合は当日受付にて不足分をご請求いたします」との注意書きもある。割引の多様さは単なるサービスではなく、観客に自身がどのような立場でスタジオに足を運んでいるのかを、そしてほかにどのような立場があり得るのかを改めて自覚させるものだ。
「観客」が一様ではないのと同じように、観客としての私もまた常にひとつの単語に置き換えられるような存在ではない。「慧眼の批評家」(!)として参加登録をした(ちなみに1200円の割引が受けられる)私がオープンスタジオを訪れたのは会期の4日目。16:15にオープンした受付では厚めの紙に『保清』のタイムスケジュールとスタンプラリーの(夏休みのラジオ体操のそれのようにスタジオへの出席をカウントするための)表、『保清』と題されたごく短いテキストと2つのワーク(「以下の森下スタジオの図面に自分の座席を書き入れる」「『保清』のテキスト(p4)から間取り」を描き起こす」)が印刷されたものと「催し『保清』のステイトメント」(こちらはごく普通の紙)が手渡される。受付にいた村社は私にチョコレートとレモン白湯を勧めつつ、「稽古に参加しますか」と問う。事前に告知はされていなかったが、16:30から18:00頃まで行なわれる稽古には1日3人まで参加することができるらしい。そして私は「稽古参加者」になる。

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行なわれた稽古は『保清』の短いテキストを精読し、各々が読み取った意味を摺り合わせ検討するという、これまでにも折にふれ耳にしてきた「村社式」をなぞる(少なくとも私にはそのように思われる)ものだった。休憩を挟んで予定の18:30を過ぎると5分ほどの上演が行なわれた。スケジュールによればオープンスタジオは21:15まで続いたはずだが、次の予定があった私はそこでスタジオを去った。

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ところで、状況を設定したのは村社だが、今回の上演において演出は土田高太朗に、美術は高須賀あき乃に、出演は川端康太に任されていた。上演後に設けられた意見会の時間に村社が発言することはあったようだが、上演自体は村社の手を半ば離れている。にもかかわらず村社が演出を担当した作品に通じる「村社式」が(私から見れば無批判に)継承されていた点に私は強い不満を覚えた。3人のテキストの読みは、私のように90分という短い時間しか稽古に参加せず、それまで3日間オープンしていたスタジオでの経験の蓄積がない者にとってすら精度に欠ける徹底されないものであるように思われたのでなおさらである。
私の感じたこのような不満は村社が参加登録ページに寄せた【企画ノート】の「清潔さはときに暴力と見紛うこともあります。気づかないうちに論拠が消え、ただ「清潔そうな」方法が無批判に選ばれてしまうような状況が全員を取り囲むのです」という言葉とも対応するだろう。
多少なりとも私の関心を引いたのは、稽古開始前に美術を担当する高須賀を中心に実施されたスタジオのツアーだった。スタジオには様々なテープやシール、糸によって装飾ともマーキングともつかないものが施され、そのいくつかはその都度の上演を見た高須賀が想像した「間取り」を記録したものなのだという。だがそこで想定される「間取り」とは一体なんだろうか。おそらくは参加者に手渡された「テキストから「間取り」を描き起こす」ワークとも対応するのだと思われるが、ここで「間取り」が何を意味しているのかは極めて曖昧である。『保清』のテキストに具体的な建築物の描写は乏しく、そもそも登場する場所も一ヶ所ではない。取り組む者は「間取り」という言葉が何を意味するのかを検討するところからはじめなければならない。

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その日、高須賀が解説したところによれば、前日の上演から彼女が受け取ったイメージは、語られる祖母たちのいる場所と、それを語る出演者である川端が(演じる役が?)いる(と想定される)場所とが半ば溶け合ったような空間だったらしい。それ以前は語られる場所の「間取り」のみを受け取り記録していたということで、ならばそれはテキストから「間取り」を描き起こすのとほとんど変わらないのではないだろうか。そう考えると私が説明を受けた「間取り」には多少なりとも妥当性があるようにも思える。

オープンスタジオの8日目、私にとって2回目の(そして結果として最後となる)参加のため、1回目とほぼ同じ時間にスタジオを訪れた。初回に実施された参加のための説明は2回目の参加だからか省略され、稽古への参加の意思のみを確認された。今回は外側から稽古を見ようと思った私は参加しないことを伝え、稽古がはじまるとその近くに陣取る。
しかし、稽古に「参加する(しない)」とはいったいどのような意味だろうか。私は2回目にして今さらそのようなことを考える。そこで行なわれる稽古では役を演じることはおろか、テキストを声に出して読むことすらなされない。テキストの意味を検討する稽古参加者のすぐ近くに座る私は稽古に「参加していない」と言えるのだろうか。稽古への参加を申告した(と思しき)者は稽古中に意見を求められる場面があったので、場を用意したものとしてはそこに一線を引いていたのだろう。だが、もし私が積極的に発言したならば、おそらくそれも無下にはされなかったのではないかとも思う。あるいは、他の参加者から見れば私もまた稽古に参加しているように見えたのではないだろうか。「参加」の定義は委ねられ、自身のふるまいと立場が再び問われる。私は自らに発言しないというルールを課し、そこに一線を引くことで稽古に「参加しない」ことを選択した。
省略された説明は受付時のものだけではなかった。私が稽古に参加した際には実施されたスタジオのツアーもその日は行なわれず、時間になるとそのまま稽古がはじまった。稽古参加者はその日が初めてというわけではなかったようで、あるいはそれが理由で省略されたのかもしれない。いずれにせよ、私にはなぜそれがそのようであるかはわからなかった。
稽古の見学に飽きた私は(なぜならそれは私が参加したときの稽古とほとんど変わらないように感じられたからなのだが)、スタジオの中を見て回る。おそらくは高須賀によって施されたマーキングは増えていて、しかしあからさまに「間取り」とは無関係だと思われるものも散見される。他の参加者が受付で告げられている言葉がふと耳に入る。「斜線になっているところは立ち入り禁止です」。たしかに床面には長方形に斜線が引かれた箇所があるが私にとっては寝耳に水である。村社に確認すると、たしかにそのようなルールがあり、何日か前に追加されたそれを私には告げ忘れたのだという。
斜線を踏みつけてまでそこを通る者はそういないだろうが、しかしルールはルールであり、それを伝え忘れるとは大雑把なものだとそのときは思った。

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ものはついでと他のいくつかの「マーキング」について尋ねると、たとえば床に貼られた小さな丸のカラーシールは何かモノが置かれていた/いる場所を記録するものだという。たしかにマットレスの角に合わせて黄色のそれが貼られており、モノによって色分けされているのではないかとのこと。つまり村社もその全貌は把握していない。

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床面には他にも銀の地に赤のラインが入ったタイルがいくつか置かれていた。屋外で地面に埋め込まれているのをときおり見かけるそれは、調べてみると「境界標」という名称らしい。スタジオ内での役割は判然としなかったが、通常は土地の境界をはっきりさせるための標識として用いる。その意味でそれは高須賀のマーキングと似たような役割を持つ。
私はこれまでにもたとえば路上で「境界標」をたびたび見かけてはいたのだが、それの持つ意味や効果を知ることはなかった。世界には私の知らないルールが無数にあり、その徴もまた無数に溢れている。私には理解できない人々のふるまいはそれらに基づいているのかもしれず、私はわけもわからず周囲のふるまいに合わせてみたりする。それは十分な読み取りが許されていない世界で生きるための術だ。

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村社はおそらく「清潔さ」という言葉にいくぶんか否定的な意味合いをも込めている。「それぞれが、いま手元で扱おうとしている諸事象が自らの責任の範疇に収まっているかを気にする限り、そうやって細々した調整に立ち会うなかで汗をかくことができるのではないか。そしてその限りで清潔さは、そう呼ばれるようなものではなくなるのではないか」。
「保清」という言葉は「清潔さを保つ処置という意味」の看護の言葉だが、それは「清潔さ」が保たれているかの確認とセットになっているはずだ。村社の謂に従い「リテラルな意味に加えて、もう少し比喩的な扱い」をするならば、一見したところ「清潔」なコミュニケーションを成立させ続けるためには、その前提を確認し続ける泥臭さが必要なのだ。
出入り自由のオープンスタジオでは、多くの客席において意識されづらい、個々の観客の体験の異なりが強調されることになる。スタジオに到着した時間によって、それまでに何度スタジオを訪れたかによって、稽古に参加したかどうかによって、どこに居場所を定めたかによって観客のふるまいや作品の受け取り方は異なり、つくり手の不徹底な説明はその異なりを埋めようとしない。観客はスタジオに配置された徴と他の観客の様子から想定される規範に基づき自らのふるまいを決定し、そこに確定された正解はない。

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他人の残した痕跡という意味ではテキストもまたある種の徴であり、スタジオで自らのふるまいを定める観客の営為はテキストを精読する稽古参加者のそれと通じている。新聞家/村社はテキストと世界とのあいだにスタジオという具体的な時空間を開くことによって、自分たちの営みがその上演の表れとは裏腹に静的に閉じたものではなく、人々のコミュニケーションとふるまいに関わるものであることを可視化してみせた。形骸化された清潔さを疑うこと。観客たる私は新聞家の取り組みを通じて自らの足下を問い直す。

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