弱者の鎮痛剤
障害の社会モデルという話がある。そこには、仮に今のような社会でなければ、今とは別の人(今までは障害者とみなされていた人)が競争有利になって「健常者」になり、一方、別の人は競争不利になって「障害者」とみなされるようになるといった話が含まれる。だから、現実に今障害者とみなされている人は今の社会が今のようにあるから障害者なのであって、社会が別のあり方をしていれば、彼らは健常者(非障害者)とみなされていたはずである、というのである。
上記の記述は雑なものだから、ひょっとしたら専門家の方がもっと精緻な理論を組み立てておられるのかもしれない。ただ、これぐらいの把握で私の感想を申し述べておくと、「仮に今のようでなければ」という仮定はあまり都合よく使うべきでない、ということである。なぜならば、今の社会か、別のもう一つの社会か、という選択肢の提示は誘導的だからである。
例えば一つの部屋にひきこもって作業に何ヶ月も打ち込める人はレアキャラであり、それなりの才能があるが、それしか取り柄がなくて他の社会的スキルが足切りに引っかかっていれば、障害者や一種の病人とみなされるだろう。ところが、感染病で外出規制がかかったり、完全在宅ワークが数多く提供される社会ではその人にも生計を立てたり活躍して人気者になれるかもしれない。しかし、可能性としての社会は無数にあるわけであり、例えばその社会のあり得るバリエーションが仮に1,000あるとしたら、やはり900に適応して生存できる人と、その中でたった1つにしか適応できない人には絶対的な差があるのである。また、そもそも社会はどんな形態であれ人間集団なのだから、どんな人間集団の中にも共通する特徴によって疎外されやすい人は残念ながら存在するだろう。だから、それら無数の可能性としての社会の中から現実社会と特定の1社会をつまみ上げて比較する cherry-picking のは恣意的(しいてき)であり、偏(かたよ)っている。
しかし、そのような偏った見方であっても、現に社会の中で自分の持ち味を活かせず、勝負できず、勝負できても敗北し続けてしまった人にとっては、負けた痛みをわずかな時間であっても忘れることができたり、自分が負けることも必要なことなんだと敗北する自分を自己正当化(自己憐憫)する使い道はある。なぜならば、もう一つの社会の可能性のなかで自分の才能を伸ばす模索をしてみたり、違う社会に移動できれば今まで負けてしまった相手にも優位を得られるだろうといった空想にふけることができるからである。それは、今ここで感じている痛みに対する手当の一種であり、鎮痛剤である。
しばらくそれで自己憐憫に浸り、グチを述べる時間も人によっては必要かもしれない。そのあいだに充電や休息、治癒や回復を遂げる人もいて、新たな社会の可能性をもうひとつ、またひとつと想像していくことによって、自分の可能性を広げたり、他者に対する想像ができて、気の利いたコミュニケーションができるようになるかもしれない。だから、それらのパッと見は空回り空振りにみえる時間も、完全にゼロにはならないだろう。
あるいは、タラレバの話をしてこのように鎮痛剤を作り出すのは、勝者や強者が理論武装してアタックしてくるのに対抗する場合にも必要になるかもしれない。一方、ただ自分の弱さや足りなさを慰めるために鎮痛剤をつくり出してしまうのは、切実ではあるが、むしろ遠目にはもっとみじめにすら見えてしまう。もちろん「遠目に見れば」もタラレバのひとつだろう!と相対化することもできるかもしれない。ただ、私もタラレバは語るものの、あらゆるタラレバにおいても、現実においても、勝者でありたいし、タラレバか現実かどちらかで勝つなら現実で勝ったり優位をキープする手立てを考えていきたいものである。元々みじめなのにますますみじめになりたくないからだ。
(1,598字、2024.04.02)
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