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モネの家la maison de Monet
モネの家 ジベルニー フランス
クロード・モネ(Claude Monet,1840年ー1926年 )
フランス人 画家 作庭家
1883年から死ぬまでジベルニーに住みました。
画像はそのモネの家です。
シンプルに薄い水色の壁に、灰色ががった水色の線で装飾が施されています。とてもシンプルであって、かつ十分な装飾性が感じさせる部屋になっています。
ソファーは同系色の枠に、ベージュを基調にした植物
時の魔術 モネの庭園 睡蓮の池
クロード・モネ(Claude Monet,1840年ー1926年 )
彼はジベルニーの地で、精力的に制作活動を行いました。
それ以外の大半に時間を庭造りに注ぎ込んでいたといわれます。
それが見事に実り、こうして今も『モネの庭園』として私たちの目を楽しませてくれています。
私が訪れた2022年10月はちょうど紅葉の時期でした、紅葉した木々と、まだ盛んに咲き誇っている様々な種類の花が、すばらしく
パリは街中が美術館だ!
ティノ・ロシ庭園 野外彫刻美術館
このティノ・ロシ庭園のティノ・ロシ(1907-1983)についてです。
彼はコルシカ生まれの歌手、俳優です。彼の甘いマスクと、ヴェルベットのような歌声は、フランス人の魂を激しく揺さぶりました。
ロシは2000曲余りを録音しなんと2億枚のレコードセールスを記録したといいます。(この時代のレコードセールス2億万枚はヤバイ)
私の父親が時々ティノ・ロシをレコードで
ルーブル美術館のボッティチェリ
「三美神を伴うヴィーナスから贈り物を授かる若い婦人」
(1483-1485フレスコ)
フィレンツェの近くのヴィラレンミに1階に描かれていた作品と表示されています。
私はボッティチェリの描く女性の姿が好きです、とても優美で、ちょっとしたしぐさや動きに繊細さを感じます。
三美神とヴィーナス、その手には象徴的なものは何も持っていませんが、キューピットは若い婦人のそばに伏し目がちに控えています。
ウーフィッッイ美術館 その5
ウフィッッイ美術館 35室 レオナルド 東方三博士の礼拝
本作『東方三博士の礼拝』は『レオナルド・ダ・ヴィンチ』が29歳の時に、「サン・ドナート修道院」からの注文で、着手したもので、この時代、彼の父親がこの修道院の顧問をしていた関係で、父親が口を聞いたのではないかといわれています。
納品期限は3年、制作料の代わりに土地が代価として支払われるという契約だったようです。
この作品は結局未
ウーフィッッイ美術館 その4
★ボッティチェリ 聖母戴冠 ウフィッッイ美術館 フィレンツェ
聖母戴冠 1488-1490
1488年頃に金細工師組合から、『サン・マルコ教会』内の組合の守護聖人『エリギウス』の祭壇の為に発注されました。
『ボッティチェリ』40代前半『豪華王ロレンツオ』健在、ウマニストたちの活動も活発で、まさに『ルネサンス』も『ボッティチェリ』も脂の乗り切った時代で、『ルネサンス』を代表する作品です。
ウフィッッイ美術館 その5
★悲鳴が聞こえてきそうな アカデミア美術館 コロッソ広場
『ジャンボローニャ』『サビーニの女の掠奪』『コロッソの大広間』
最初私はこの彫刻を見たときに古代ローマの彫刻家の作だと思いました。
しかしこの作品は、『ジャンボローニャ』の作品でした。
『ジャンボローニャ』は1529年に生まれ、1608年に亡くなった、フィレンツェのマニエリズㇺの彫刻家です。
この作品のタイトルは『サビーニの女
ウーフィッッイ美術館 その4
★フランチェスコの特別の部屋 トリブーナ ウフィッッイ美術
第18室 トリブーナ
『なんて美しい部屋なんだろう。』これがこの部屋を見たときに私の印象でした。
『トリブーナ』(特別展示室の意味)はトスカーナ大公『フランチェスコ1世・デ・メディチ』が自分のギャラリーとして作った部屋です。『フランチェスコ1世』は、『老コジモとレオノーラ』の子どもです。
当時の『トリブーナ』には現在とは違
ウーフィッッイ美術館 その3
★西から風が吹いてきたら 春 ボッティチェリ ウフィッッイ美術館
『春』 1482年
この作品はあまり絵画に興味のない人でもたぶん目にしたことがあると思います、美術の教科書にもこの作品は紹介されていると思います、ルネサンスの代表的な画家『ボッティチェリ』の数ある作品の中でも代表的なものです。
この作品は『ロレンツオ・デ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ』のために描かれたものといわれ
ウフィッッイ美術館 その2
★サンドロ・ボッティチェリ ウフイッツイ美術館 フィレンツェ
今日から何日かかけて、『ルネサンス』の巨匠に数えられる『サンドロ・ボッティチェリ』とその作品についてお話ししたいと思います。
彼は、1445年にフィレンツェに生まれています。兄の『アントニーオ』が金細工の工房に弟子入りしていたので、『サンドロ・ボッティチェリ』も、この工房にかかわっていたと推測されています。
1464年ごろか