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ウフィッッイ美術館 その1

ひときわ輝きを放つ ウフィッッイ美術館 フィレンツェ イタリア

 さて、今日からあなたと歩くのは『フィレンツェ』に数ある美術館の中でも、ひときわ輝きを放つ『ウフイッツィ美術館』

 『ルネサンス』時代の美術品が所狭しと展示されています、そしてそれだけではなく、建物自体の美しさもまた格別なものがあります。

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 画像は『ウフイッツィ美術館』のエントランスの風景です。

 『ウフイッツィ美術館』の行き方は大聖堂から『カリマラ通り』を南に下っていくと『ベッキオ橋』に突き当たります、そこを橋を渡らずに左に曲がって少し歩くとすぐにつきます。

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画像はエントランスをさらに入ったあたりです。

 『ウフイッツィ美術館』の創建は1560年といわれています、時の実力者メディチ家の『コジモ1世』の要請により宮殿を設計しました。

 そして最初は、ここに行政機関を入れました、今でいうと合同庁舎といったところでしょうか。

 そしてこれがまた奇想天外な話なのですが。問題です。

 『ベッキオ橋』は『ウフイッツィ美術館』側が建物になっていて

二階建てです。

 では、どうしてこうなったのでしょう。

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画像は『ベッキオ橋』を『ウフイッツィ美術館』側から見たところです。

 答えは、『コジモ1世』が橋を渡ったところにある「ピッティ宮」に住んでいたからだったのです。

 『コジモ1世』は『ピッティ宮』から「ウフィッツイ」(ウフィッツイとはオフィスの意味)まで『ベッキオ橋』の二階を通り毎日出勤していました。

 こうすれば雨が降ってもカンカン照りでも快適ですよね。

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画像は、第二回廊

『ベッキオ橋』二階の回廊ではありませんがこんな感じだったのでは。

 しかし、『コジモ1世』も建築家の『ヴァザリー』も1574年に亡くなります、その後をトスカーナ大公で、メディチファミリーの『フランチェスコ1世』と建築家の『ベルナルド・ブオンタレンティ』が後を引き継ぎ完成させます。

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画像は、トリブーナです。

 『フランチェスコ1世』は1579年から81年にかけて、3階の廊下の天井に『グロテスク』模様の装飾を施し、このころから『メディチ家』の持ち古代彫刻などの美術品を収容、展示するようになりました。公開されたのは1591年からです。

 次に、あなたにご紹介するのは、『ウフイッツィ美術館』の第8室に展示されている作品です。

 作者は『ピエロ・デ・フランチェスカ』1439年頃フィレンツェ近郊のアレッツオで生まれています。

 この作品は『ウルビーノ侯爵夫妻の肖像』で、1467年から1472年ごろに描かれていいます。

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 この真横を向いた肖像画はこのころのイタリアではよく書かれていた形式でした。

 ディプテイク(二連画)は古代から引き継がれる形式だそうで、二枚がこの様に額縁に入っているわけではなく、留め金でつなぎ合わされていて本のように開いたり閉じたりすることができたようです。

 それにしても見てください、ウルビーノ侯爵の(フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ)の鼻、これはこのころ大流行していた騎士合戦で、負傷したものだそうです。

 それにしても、このころは、絵を発注する側はすべての面にわたって注文を付けていたはずだし、気にらなければ修正させたはずなので、これは侯爵からの指示であった可能性がありますね、ということは、騎士合戦での名誉の負傷ということだったのでしょうか。真偽は分かりません。

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 この絵は表裏一体となっています、そしてこの裏面は表面よりも後年になって書かれています。

 この裏面が描かれたいきさつには悲しい出来事が隠されているのです。

 この夫婦に待望の子どもができました、たぶん二人とも妊娠には大いに喜んだに違いありません。

 しかし、この出産は悲劇に終わりました、世継ぎは誕生したのですが、妻の『バッティスタ・スフォルツァ』は亡くなってしまいました。

 そして、『バッティスタ』の死後『ピエロ』が彼女を追悼する意味で、この裏面を書いたのではないかといわれています。

 このころの出産は大きな危険を含んでいて、出産で命を落とす女性がかなりいたということです。

 次の絵を見てみましょう

 『この 子 に 羊 の 番 を 命じ た。 すると ジョット は 羊 の 群 を ある 時 は ある 場所 へ、 他 の 時 は 他 の 場所 へ 連れ て 行き、 生まれつき デッサン が 好き で あっ た から、 石 や 土 や 砂 の 上 に、 なにか 目 に 見える 物 や 空想 に 浮かん だ 物 を 年中 描い て い た ので ある。 』 

ジョルジョ・ヴァザーリ. 芸術家列伝1 

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荘厳の聖母(オニサンティの聖母)1306-10年頃

 『荒野で羊飼いの弟子をしていた少年は絵を描くことが楽しくてしかたなかった、何の知識もなく、だれに絵を教えてもらうわけでもなく、少年の先生は自然だった、彼は自然を一生懸命に写し取った。』

 そしてそれがルネサンスの扉を開く画家となった。

その名前は『ジョット・ディ・ボンドーネ』

ウフィッツ美術館 第8室 

まずはこの絵を見てください。とても綺麗な絵ですね。

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『フィリッポ・リッピ』(1406-1469)  『聖母子と二天使』 1465

 これを描いた『フィリッポ・リッピ』は修道院の修道士です。

 こんなきれいな絵を描く人だからきっと「宗教心の強い、品行方正な人だろう。」と思ってしまうのですがそれがおお間違え。

 彼はかなりの破戒僧で、この絵の聖母のモデルとなったのは修道女の『ルクレツィア・ブーティー』、彼女を祭りの人ごみに紛れて修道院から誘拐して自分の妻にしてしまうのです。

 当然、修道院は彼を告発して、出入り禁止とします、当然ですよね。でも、当時の最高権力者であり『リッピ』のパトロンであった『メディチ家』の『老コジモ』のとりなしで、修道院に復帰しました。

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 トリミングしてみました、本当にきれいに聖母が描かれています、自分が恋焦がれていた『ルクレツィア』に対する思い切りの賛美があふれ出しているような気がします。

 整った小顔に、すっと通った鼻すじ、伏し目がちなまなざし、素晴らしいですよね、頭の髪飾りは細部までよく描かれ、うなじにかかる薄いファブリックを通して肌の質感が伝わってきて思わず「ゾクッ」としてしまいました。

 それに比べて、イエスや二人の天使はあまり可愛いとは言えませんね。

 さて、この絵を見ると窓枠のような枠の内側に聖母子と二天使がいます、そしてその窓枠の外には、小高い丘や松が見え、その先には海が見えます、このころの特徴的な描き方ですが、すでに、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の「空気遠近法」のようなタッチで自然が描かれています。

 このように、窓枠や窓、支柱の前に対象物があり、その先に自然が広がっている手法はこの時代たくさん見られます、『モナリザ』もその例にもれません。

 私は『フィリッポ・リッピ』の絵が大好きです、特にこの絵は、好きですね、『ボッティ・チェルリ』の絵を見ていると彼の影響を強く感じます。

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 この作品は『海の聖母』1475-1480年頃

この作品には『?』がついています、『ボッティチェリ』なのか

『リッピ』なのかまだ一致した見解が見られないそうです。

確かにマドンナの感じがかなり違います。面白いですね。

『アカデミア美術館』所蔵

ウフイッツイ美術館 第9室  アントニオ ポツライウオーロ

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 『貴婦人の肖像』1475年頃

 『アントニオ・ポツライウオーロ』1429年頃ー1498年 

イタリアフィレンツェ出身の画家

 この絵は背景の青がなんとも印象的です。この青は「ラビラズリ」という宝石を砕いて作る顔料です。

 『ピエロ・デ・フランチェスコ』のところでも触れましたが、この時代イタリアでは肖像画はこのように真横を向いて描かれることが多かったのです。とても高貴な感じがよく出ていますね。

 注目すべきは、髪の毛で、その一本一本が描かれ、細くてふんわりとした貴婦人の髪の毛の質感がよく伝わってきます。

 また、このヘアースタイルは1400年頃のフィレンツェ特有の髪型だそうです。耳は薄いヴェールで覆われています。

 肩のあたりは、タトゥかと思われるような薄いファブリックでできたシャツですが、なかなかおしゃれですね。 

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また、『フランチェスコ』は、打って変わってこんな絵も描いています。

 『ヘラクレスとアンタイオス』 『ヘラクレスとヒュドラ』 1775年頃

 この二枚の絵は三部作であったといわれていますが、一枚は消息不明です。

 『老コジモかピエロ』の注文で制作されたようです、ヘラクレスはギリシャ神話に出てくるキャラクターですが、また秩序と、正義を守るフィレンツェの神話的シンボルでもありました。

 アンタイオスは凶暴な巨人で、息が絶えても足が地面につくと復活してしまいます、ヘラクレスはアンタイオスを抱き抱えたまま絞め殺します。
 その時の筋肉の引き締まり方や体の動きは見事なものがあります。一説には彼は弟とと一緒に人体解剖をしたといわれています。

 この時代、戦闘シーンを描いたものはたくさんありますが、こんなにリアルに、描かれたものは珍しいと思います。

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