『神話論理』 ”外側が空っぽの木”の神話と空海『吽字義』の四つの字相 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(45_『神話論理2 蜜から灰へ』-19)
今宵の月は「十三夜」ということで、近所のシャトレーゼで購入した団子の13個セットを食べながら、以下13×10^3文字ほどでお届けします。
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クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第45回目です。
これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えている。
則ち、神話的思考(野生の思考)とは、図1に示すΔ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。
弘法大師空海が曼荼羅でモデル化したことと、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』に集められた神話の構造とが、同じような姿をしているのではないか。ということを考えているわけですが、ここでもう一人の「構造主義者」ジャック・ラカンのことも思い出さないわけにいかない。
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言葉を言葉へ、言葉へと、つないでいくこと。
ジャック・ラカンの『精神分析の四基本概念』を読みつつ、ふと思うことは、「主体」は、あるいは「私は〜」と語る”私”は、これもまた、上の図1におけるΔ項のひとつなのかもしれない、ということである。
このΔ項”私”は、神話がそうであるのと同様に、まずは経験的で感覚的な二項対立のうちの一方の極として始まっている。すなわち、”私”と”私以外”の区別が、まず始まっている。
主体 / 対象
”私” / ”私以外”
”私”は、物心ついた時から、この体の「内」から「外」の世界を眺めている。この「内」が私で、「外」に私以外のあれこれがある、という感じがする。
”私”と”私以外”の区別はどこに由来するのか。この問いに対して、例えば”私”/”私以外”の区別は「生命が生と死を区別することに由来するのだ」と言うことができる。
ここで行われていることは、”私”/”私以外”の区別を、生命/非生命の区別や、生/死の区別や、その他の別の二項対立関係にそのまま置き換えることである。
しかし、”私”の謎の核心は「/」にある。
/、主体と対象を両端に析出する「眼差し」のようなこと。
●
二項対立を複数どう重ねるか?
という問いを立てることができるためには、二項が対立していなければならない。
二項関係ということが、あるとかないとか、有/無の二項対立からさえも遠く離れたところで、対立しているということ、二項が対置されていること。このこと自体を私たちの思考は、言葉でもって、つまり慣習的に相当程度固まった二項対立の重ね合わせ方のパターンとしての言葉でもって、シミュレーションしようとする(あるいは象徴化することによってのみ、”対立・対置-すること”それ自体に接近しようとする)。
”私”は、そうした慣習的に固まった二項対立たちのうちの一項である。
それと同時に、”私”は、他でもない”/=対立・対置-すること”それ自体が区切り出す、もっとも切実な最初の何か(項)でもある。
そこから始めざるを得ない、所与の、他者たちの声の残響。
遠い過去から、死者たちの口から耳へ口から耳へと連綿と伝えられてき=憑依してきた”ことば”のひとつとしてはじまる”私”。
その”私”を主語の位置において口を開き語りはじめること(”私”と”私”以外のありとあらゆる項たちからなる二項対立関係を重ねつつ、そこからΔ項の線形配列を生成していく)。
この言い換えを、Δ項だけで、Δ項間の言い換えだけで、一生涯生成し続けることができるなら、それはある意味で幸福なことかもしれない。
しかし、そうも行かないのが人間である。
人は、人の心は、たとえ”Δ私”が知ることがないとしても、β脈動を生きている。いや、生かされている。
あらゆるΔ項は、”Δ私”を含めて、β脈動の影、残響、効果である。β脈動とはすなわち、対立する二極をひとつの振動の両極として振り分ける動きである、とでも仮にいっておこうか。
循環的な滑走!
”私”を、二つのシニフィアンの対立関係のうちの一方の極として語り、どこかの言い換え先のΔで沈黙するのか。
それとも”私”を二つのシニフィアンに”挟まれた”β項のようなこととして試行的に繰り返し繰り返し語り続けるのか。
”私”は、いわば”私”自身の起源神話を語ることでしか、「”私”である」ということを根本的には語り得ないのだとしたら、”私”は神話の論理、野生の思考においてこそ生息し続けることができる稀少な変異種ということになろうか。
いずれ『神話論理』の精読と並行して、ラカンも詳しく読んでみたいところである。
内/外の分離のはじまり 二つの楽器
経験的感覚的な二項対立をあらかじめ与えられたものとして始めるのではなく、二項対立の発生の瞬間に立ち会おうとする。
しかもその立ち会う為の方法は、言語として固まった後の二項対立を用いることによってである。
すでに出来上がった世界の内から、世界の外を観測しようとする。
内の中に外を建立する。いや、内と外を区別する脈動を再現する。
言語は、二項対立関係の関係の中で互いに他ではないものとして区切り出されている限りでその輪郭を束の間浮かび上がらせる「項」たちを、ばらばらにひとつひとつ拾い上げては一本の線上に、一列に、線形に、配列していく口の開き方、視線の走らせ方の技法である。
今、その言語の内から言語の外を眺めるためには、言語を言語発生の瞬間へ、言語の内/外のどちらでもあってどちらでもない状態へと、励起させる必要がある。
言葉を高振動状態に励起するのは、”両義的媒介項”が次から次へと置き換わり、変身していくような、言語的語りにおいてである。
* *
今回読む神話は、この内/外の二項対立の起源を分節言語でもって語ろうとする、とてつもないものである。
中空←/β/→中身が詰まっていること
レヴィ=ストロース氏の『神話論理2 蜜から灰へ』の445ページに掲載された神話M317をみてみよう。
猿の死骸の膨らんだ腹を叩くとか、オナラの音をおもしろがるとか、なかなか滑稽な神話であるが、その下品(分節の前に下品も上品もないのだが)で滑稽な表層のイメージの向こうに、神話の論理が動いた美しい曼荼羅状の痕跡を捉えることもできる。
*
この神話、まず猟師の男が、人間の村を遠く離れて、悪魔が跋扈するような非-人間界に迷いこむ。
人間界 / 非-人間界
この通常ならはっきりと分離し隔てられているはずの二極が、ここでは短絡、結合している。
そこで、二種類の音の対立がはじまる。
悪魔の立てる、中身の詰まった木をバンバン叩く音
人間の立てる、太鼓のようなホエザルの腹を叩くボンボンという音
ボンボン / バンバン
||
太鼓 / 木の幹
||
中空 / 中身が詰まっている
||
人間のもの / 悪魔のもの
ボンボンとバンバン、二種類の音の対立が、人間と悪魔、人間と非-人間の対立に重なる。
悪魔が立てる音は、中身が詰まった木の幹を叩くバシバシという音である。
人間が立てる音は、中空の柔らかいものを叩くボンボンという音である。
この演奏対決のあと、悪魔たちの方が、人間の「ボンボン」の音を欲しがる。人間の音を欲しがる悪魔、つまり、悪魔が人間と過度に結合しようとする。
ところが、この結合の試みは失敗に終わる。
悪魔は、太鼓を叩くボンボンという音を立てることができないまま、猟師に騙されて、木で串刺しにされる。
木で串刺しにされた悪魔。
つまり、悪魔の「中」(内)に、木が存在する状態になる。
太鼓が「中に木がない」ものであるのに対し、「中に木がある」悪魔の体が、真逆に対立する。
こうして悪魔と人間は、
悪魔 / 人間
バンバン / ボンボン
中身が詰まったものの立てる音 / 中身が中空のものが立てる音
この二極へとはっきり分離される。
悪魔は、人間から遠く離れた、どこかへ去っていくのである。
ただ、去ったといっても、自分の仇を打つように仲間の悪魔に願っている。
悪魔は去って、人間と魔界は分離したが、それでもときどき、ごく稀に、仇討ちの悪魔が人間を苛むことがあったりなかったりする。
人間と悪魔は、はっきりと分離しているが、対立関係をなしている。
悪魔たちの世界から分離された領域であること、それが現にある人間の世界である。
中間的な楽器
半分中空で半分詰まっているものが立てる音
さて、神話には
中身が詰まったものの立てる音 / 中身が中空のものが立てる音
この二つの音の中間とも言える「半分中空で半分詰まっているものが立てる音」も登場する。
「半分中空で半分詰まっているもの」?!
その具体例として、レヴィ=ストロース氏が注目するのは、「打ち合わせて鳴らす楽器」と「リズムを打つ棒」である。
「打ち合わせて鳴らす楽器」/「リズムを打つ棒」
1)打ち合わせて鳴らす楽器
「打ち合わせて鳴らす楽器」とは、たとえば次のようなものである。
「打ち合わせて鳴らす楽器」とは、自然のままで中空、空洞がある木の幹である。まるでホエザルの膨れた腹のようにである。さきほどのホエザルの神話では、悪魔が叩く木は、中空のものではない、中身が詰まった木である。
この中空の木の両端のうち、一方の端に割れ目を切って、二つの部分が間隙を挟んで隣り合うようにする。一方は一で他方は二、二と一がひとつになっている「打ち合わせて鳴らす楽器」は、地面に放り出されることで、その分離した二つの部分が接触し、音を立てる。
この一般的には大概詰まっているはずの「木」でありながら空洞があり、一でありながら二に分かれている木の棒は、人間と悪魔という、経験的には分離されているはずの二項がなにかの弾みで過度に接近し結合してしまったところを、改めて分離するよう作用する。
この「打ち合わせて鳴らす楽器」は、通常は詰まっているはずの中身が空洞になったものであり、ホエザルの膨れた腹のような太鼓と、悪魔が叩く木、その両方の性格を合わせもちつつ、両極のどちらでもないという、ちょうど中間の姿をしている。
2)リズムを打つ棒
このリズムを打つ棒とは逆の作用をする、別の種類のリズムを打つ楽器がある。それが「リズムを打つ棒」である。
こちらの「リズムを打つ棒」も、これまた「自然のまま空洞」がある木であるが、こちらは放り投げるのではなく手に持ったまま使い、斜めにではなく垂直に地面を叩く。
この楽器の音は、人間と悪魔という通常は分離されている二極の間を結合するよう作用する。
*
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ここで、「リズムを打つ棒」と「打ち合わせて鳴らす楽器」は真逆に対立するものでありながら、どちらも「自然のままで空洞」がある。しかし、”手から放さない”ことで音を立てるか、”手から放り出す”ことで音をたてるか、という点では真逆に対立する。また、地面を「垂直」に叩くか、「斜めに」にたたくか、という点でも逆になっている。
垂直に地面を叩く / 斜めに地面を叩く
手を放さない / 手を放す
なんと微細な対立だろう。
「リズムを打つ棒」と「打ち合わせて鳴らす楽器」は、中空の木であるという点で、どちらも「中空であること」と「中身が詰まっていること」の中間に位置しているが、その音の出し方は真逆に対立している。「リズムを打つ棒」と「打ち合わせて鳴らす楽器」は、同じようでもあるし異なるようでもある、異なるが同じ、同じだが異なる。差異と同一性の対立のあいだで曖昧になっている。
つまり、下記のように交差する二つの二項対立関係があることになる。
太鼓は中空であり、叩き棒は中身が詰まっている。
太鼓と叩き棒の対立は、中空のものと中身がつまっているものの対立である。この「中空」のものと「中身が詰まっている」ものを両極とする経験的で感覚的なΔ二項対立の中間に「打ち合わせて鳴らす楽器」と「リズムを打つ棒」の”異なるが同じ”二項(β項)のペアが挟まれている。
* * *
異なるが同じ/同じだが異なるβ二項
「リズムを打つ棒」と”異なるが同じ/同じだが異なるもの”として対立する「打ち合わせて鳴らす楽器」。両者の様々な点で真逆に対立するよう、いろいろな神話で語られている。例えば次のような具合である。
リズムを打つ棒 / 打ち合わせて鳴らす楽器
||
全長にわたって空洞がある / 外部から横に割れ目が切られる
棒の全長にわたる / 棒の一部だけ
太い / 細い
短い / 長い
受動的 / 能動的
このような経験的で感覚的な対立関係が、神話においては次から次へと語られる。神話の語りは、対立しているということ、対立関係があるということを、ひたすら教え伝えようとしているようにも見える。
そして、いくつもの対立関係を順番に一列にリニア(線形)な言葉の上に置いた後で、不意にグルグルと、この一直線の列を巻き上げていく。
Δ1→β1→Δ3→β2→Δ2
という姿をしていたものを、ぐるぐると渦を描くように巻き取っていくと、線形の順序とは別のパターンで、Δ項たちが結合していく。例えば、キツく巻き取れば、Δ1とΔ3が重なり合って結合したり、もう少しゆるく巻き取れば、Δ1とΔ4が重なり合って結合したりする。そこにまた、Δ7だったり、Δ8だったりが、巻き取られ、重なり合って結合していく。
この巻き取りが、ゆるすぎず、きつすぎず、うまく八項関係を切り結ぶことができるようになるとちょうどよい。
対立関係どうしは重なり合いながら、
二極を分離しつつ結合し結合しつつ分離する
一列に並ぶ項たちを”巻き取って”八項関係を切り結ぶには、次のような手順がふまれる。
まずΔ線形配列の中の、ひとつの二項対立関係に注目する。
次に、同じΔ線形配列の中の、他の二項対立に注目する。
そして次にこの二つの二項対立を重ね合わせる。
樹皮を剥がれた木
ここで『神話論理2 蜜から灰へ』の449ページに掲載されたM318「樹皮の仮面の起源」という神話である。この神話には、中空の木とも、中身が詰まった木とも異なる「樹皮を剥がれた木」という新たな項が登場する。
この樹皮が剥がれた木は、八項関係の循環を構成する上で、どのような位置を占めるのだろうか?
この神話から順番に二項対立関係を抽出してみよう。まず、人間と悪魔である。
人間 / 悪魔
人間と悪魔の対立関係は、神話の最初と最後で「逆」になる。
神話の最初、人間は次のような二極の左側に配置される。それが神話の展開に従って、右側の極の側へと移っていく。
燻製にされたもの(煙に燻されたもの) / 燻製を作る者
洞窟の中にある / 洞窟の外にある
獲物 / 狩猟者
水平移動(引きずられる) / 垂直移動
||
悪魔に喰われる人間 →/→ 悪魔に打ち勝つ人間
||
悪魔と過度に結合した人間 / 悪魔から分離した人間
神話の冒頭、悪魔の獲物にされていた人間たちが、後には悪魔を(悪魔の子供であるパカを)狩猟し食べる側に逆転する。
最初は引きずられて水平移動していた人間たちが、後には樹皮を剥ぎながら木に登る、という垂直移動をするように逆転する。ここに樹皮を剥がれた木が登場する。
最初は洞窟の中(内)に運び込まれてしまった人間たちが、後には洞窟の外に留まる。居場所が逆になる。
さらに、最初は煙に燻された燻製肉と一緒くたにされていた人間たちが、後には煙で燻す側に逆転する。
この神話は全体として、以下の二つの二項対立関係をはっきりと分離する方向に向かおうとする。
悪魔 / 人間
結合していること / 分離していること
これを図1の八項関係に仮に置いておこう
Δ1悪魔 / Δ2人間
Δ3結合していること / Δ4分離していること
このΔ四項を含む八項関係の循環を作り出すために、あと最少四つの項が必要になる。しかもそれは、経験的感覚的にはっきりと区別された二項対立の二極のどちらかにすっきりとおさまるような項ではなく、振幅を描きながら最大の極と最少の極のあいだを行ったり来たりするように動き回るβ項である。
では、この神話の四つのβ項はどれか。
四つの超-言葉
ディス・コミュニケーション
この神話のβ項は、四つの超-言葉である。
齧歯類のパカが何かを齧る音
パカが齧る音は「言葉ではない音」であるが、
獲物が存在するという「メッセージの伝達に成功する」言葉としては聞かれるのに伝わらない(言うことを聞かれない)言葉
悪魔からの伝言がこれである。悪魔の言葉は、人間の通常の言葉とは異なるが、いわば「超-言葉ではある」が、「メッセージの伝達に失敗する」鳴り響いているのに聞かれない悪魔たちのラッパと叫び
誰も聞いていない悪魔のラッパと叫びは「言葉ではない音」であり
かつ「メッセージの伝達に失敗する」喋る口ではなく噛みつく口によって伝えられる意図
夫を起こすために口で、歯で、噛みつくことはいかにもβ項らしい曖昧さが際立つ。噛み付くことで「起きろ」というメッセージは、極めて明確に伝わる。メッセージの伝達に成功するのである。
では、噛み付く歯と口は「言葉であるか?」と問われれば「言葉ではない」と答えたくなるところであるが、歯と口を使ったメッセージの発信という意味では言葉に似ていなくもない。その点ではこれも、通常の言葉とは異なるが、上の2の悪魔の言葉と同じような「超-言葉である」といえようか。
ここには
メッセージの伝達に成功する / メッセージの伝達に失敗する
という第一の二項対立と、
言葉ではない音 / 人間の通常の言葉とは異なる超-言葉
という第二の二項対立が交差している。この二つの二項対立の組み合わせの向きを逆にすることで、たがいによく似ていながら異なる四つの項を作り出している。このよく似て区別がつきにくいがはっきりと異なる四項のセットは、図1でいうβ項、脈動するβ四項である。
* *
ちなみにこの夫。噛まれる前に起きて欲しいと思うところだが、
妻)「起きろ」
夫)「はい」
とやってしまったのでは、ただの普通の人間の言語によるコミュニケーションになってしまい、超-言葉ではなくなってしまう。そこで「噛む」という通常の発声発語とは異なった口と歯の使い方をして、明確なメッセージを発し、その伝達に成功するのである。
野生の思考は、八項からなる円環を描く
さて、ここでこの神話の四つのΔ項と、四つのβ項が揃ったように見える。
この合わせて八つの項をよく見ると、見事に
Δ1→β1→Δ3→β2→Δ2→β3→Δ4→β4→Δ1へ戻る
という循環ができていることがわかる。
これはちょっと、説明すればするほどこんがらがってしまうのだが、いまさらどうにもならないので書いておく。
まず、Δ1悪魔→((悪魔の子、パカが何かを齧る音=β1言葉ではない音がメッセージの伝達に成功する))→Δ3結合していること→((悪魔の忠告を聞かない=β2超-言葉がメッセージの伝達に失敗する))→Δ2人間、という半弧では、人間と悪魔が「食べる・食べられる」という形で二でありながらひとつになる。
次に、Δ2人間→((悪魔たちの叫び声とラッパ=β3言葉ではない音がメッセージの伝達に失敗する))→Δ4分離していること→((噛みついて夫を起こし、木の上に避難する=β4超-言葉がメッセージの伝達に成功する))→Δ1悪魔、という半弧では、悪魔に「たべられない」人間が出てくる。つまり、悪魔と人間のあいだに分離しているという関係が切られる。
こうしてΔ四項とβ四項からなるふたつの四項関係が重なり合って、ぐるりと環を描く八項関係をなす。
* * *
超-言葉が両義的で矛盾したβ言語を分節する
ちなみに『神話論理2』では、こういう言葉のようで言葉でない超言葉とコミュニケーションの失敗/成功がβ四項をなす神話を他にもみることができる。下記の記事で詳しく解説しているので、参考にどうぞ。
八項関係をぐるりと巡らせようという神話において、超-言葉がβ脈動を引き起こすのは理由のないことではない。
つまり超-言葉は、
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
という姿をした、通常の、Δ項だけを線形にひとつずつ順番に配置することで矛盾なく理路整然とした論理を展開する言葉という幻想を解体しようとしているのであろう。
Δたちを一筋の鎖から解き放ち、バラバラにして、言葉の生成の最初のステップにまで引き戻すために、「何かであって何かでない」曖昧で両義的で矛盾したβ項たちが、Δ項とΔ項の間に挟まれ、Δ項同士の凝固した結合を切り、自在に柔らかく、過度に接近したり、過度に分離したりできる振動状態にする。
言葉が意味するということは、二項の関係である。
意味するものXと、意味されることAとの関係である。
ところがこのXは所与の実体ではなく、非Xと区別される限りでXである。
Aもまた、所与の実体ではなく、非Aと区別される限りでAである。
つまり意味するということの二項関係は、実は四項関係のうちの二項だけが見えているということになる。
この四項関係、Aと非A・Xと非Xが分離しつつAとX、非Aと非Xが結合することができているのはなぜかといえば、Aと非A、Xと非X、AとX、非Aと非Xの間に挟まって、分離しつつ結合し、結合しつつ分離する力が働いているからである。
この間に挟まって分離しつつ結合する力というのが、β項の働きである。β項が四つセットになって、互いに区別できないほど過度に結合したかと思えば、遠く分離するという振動のおかげで、Δ四項からなる通常の意味分節、何かが何かを意味するということが可能になる。
言語が意味するということを可能にしているβ四項の純粋な振動・脈動を明るみにだすために、神話は、この純粋な振動の影を、一次元の直線としての口から発せられ文字に記された言葉の線上へと写像する。
β四項とΔ四項からなる八項の”純粋な振動状態(回転状態)の影を写像させるための一次元の直線こそが、野生の思考の語り、神話なのではなかろうか。
* *
ところで、上の神話で最後に悪魔に打ち勝った人間は、悪魔を食べてしまうのではなく、その姿を模した仮面をつくるようになる。食べてしまうとまた過度に結合してしまうので、食べるわけにはいかない。悪魔と人間を分離しなければならない。
ところが、この仮面をつけて儀礼を執り行うことで、人間は、いわば「悪魔になる」(変身する)ことができるようになる。
仮面をつけることで人間と悪魔という対立する二極は二つのまま一つになる。しかし、食べる=食べられる関係とは異なり、仮面は取り外すことができ、悪魔と人間を束の間結合したかとおもっても、すぐに分離することができる。
仮面は、あくまでも二であるところを、仮に一にする。
食べる=食べられることは、二を、二度と分けられないまでに一にする。
食べる=食べられるが過度な結合であるのに対し、仮面をつけることは、分離することも結合することも自在な「調停された」二者関係を安定させる。
外そうと思えば外せるのが「仮面」
仮面は人間と悪魔的存在という、通常は完全に別々で交わることのない鋭く対立する二極を媒介し結合する項である。このような仮面という項が占める位置は、さきほどの八項関係でいえば、
結合していること / 分離していること
この対立である。
食べることが「一」へと結合することであり、仮面は「二」に分離していることを強調する。
ここで、Δ3食べーΔ4食べられることと仮面をつけることの対立を、次のように抽象化してみよう。
Δ3分離が結合へと向かう/Δ4結合しているが分離できる
この対立は、
分節から無分節へ向かうことと、無分節から分節へ向かうことの対立であるとい言い換えることもできる。
分節から無分節へ向かうこと / 無分節から分節へ向かうこと
この「分節から無分節へ向かうこと」と「無分節から分節へ向かうこと」は空海の『吽字義』における「賀」字の字相と「阿」字の字相に、それぞれ対応していると言えるのではないだろうか?
また、有/無、内/外、この二つの二項対立を組み合わせて「他ではない何かとしてはっきりと存在すること」と「他ではない何かとしてはっきり存在しないこと」の対立を組むこともできる。これは麽字の字相「増益」と、汗字の字相「損減」の対立に対応していると言えそうである。
分節/無分節
有/無
内/外
この基本的な二項対立の間で、
分節から無分節へ(あるいは無分節から分節へ)
有から無へ(あるいは無から有へ)
内から外へ(あるいは外から内へ)
といった方向性を持った動きをつくることで、二極の間で動く両義的媒介項も作ることができる。
* *
レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
「きちんとしたかたち」で展開されるもの。それを本記事のシリーズでこれまで考えてきた図式でいえば、二重の四項関係、八項関係としても表現できるのではないだろうか。
樹皮を剥がされた木
さて、長くなってきたが、忘れてはいけない。
「樹皮を剥がされた木」の分析が残っている!
しかしここまでですでに一万数千字。
さすがに長すぎるので、今日はこのあたりでおしまいにしましょう。
次回、「中空の木」と「樹皮を剥がれた木」の対立について考えます。
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