「プラットフォーム化する社会への対抗策はコミュニティではない」という話(庭の話 #17-1)
昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第17回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので3分割しました。これが最初の1/3です。今月の購読すると全部読めます。)
1.プラットフォームと共同体の共犯関係
プラットフォームから「庭」へーー社会を一つの巨大な村落(グローバル・ヴィレッジ)の文脈に回収する承認の交換のゲームが機能しない場所=「庭」の条件を考えてきたこの連載も、終わりが近づいている。
このグローバル・ヴィレッジは、プラットフォーム上に乱立する無数の共同体が究極的には一つの文脈に回収することによって成立している。コロナ・ショックしかり、ロシア・ウクライナ戦争しかり、これらの共同体はタイムラインのひとつの潮流に対する大喜利的なコミュニケーションに参加することで外部に対しては効率的に集客し、内部に対しては共同体の構成員の士気を上げているのだ。
ここではまず、「贈与」というマジックワードに依存することを断念するところからはじめたい。多くの人々が誤解しているが、今日のグローバル資本主義はむしろ社会=都市的な交換よりも、共同体=村落への回帰、贈与的なものが優位になりつつある。エシカル消費が代表するように、アテンション・エコノミーと結託した評価経済は、贈与的な行為がセルフ・ブランディングとして定着していることは疑いようがなく、またスタートアップのエコシステムが簡単に村落的な贈与のネットワークと化してしまうことは珍しくない。少なくとも国内においては一見、オープンで公正な自由参加のゲームに見えるそれが、投資家と(連続)起業家のボーイズクラブ的な共同体に過ぎないことは、少しでもかかわった人間ならばよく知っていることだ。また、逆に左派がときにロマンチックな語り口で資本主義の外部として提示するスローフード志向の地域コミュニティやコモンズの自治における贈与のネットワーク(アソシエーション)だが、その実体はプラットフォームが効率よく再編成するテーマコミュニティ内での村落的な人間関係の肥大以上のものではない。これらのケースではハートフルなエピソードによる誤魔化しに使えそうなエピソードをマスメディアや大学といった安全圏から探しに出かける(言葉の最悪の意味での)観光客たちがマッチポンプ的に「発見」した「豊かな関係」がその実例として挙るのだれけども、そういった類の話はなるべく深い溝に流すとして、ここではこの表面的にハートフルなイメージを持つこの「贈与」という単語を使わないところから考えたい。「贈与」のネットワークへの回帰こそがプラットフォーム化する社会の、もっと言えば資本主義の奴隷になる道なのだ。
プラットフォームは一般的には、共同体を解体し個人の孤立化を促進すると考えられている。しかし、実際に進行している現実は逆だ。これまで確認したようにプラットフォームは、地域コミュニティからテーマコミュニティへの移行というかたちで、むしろ共同体の氾濫をもたらしている。私たちが目にしている「社会の分断」とは、より正確には共同体の濫立なのだ。
共同体は内部と外部を隔てることで成立する。より、具体的には前回取り上げた「江戸しぐさ」を掲げるカルト的な団体がそうであったように、共同体が存続し得るために、その成員や掲げるイデオロギーを変化させながら、常に線を引き直しつづける。それは共同体という存在が常に新しい「敵」を必要としていることを意味する。
かつての「内ゲバ」を反復し自滅していった新左翼から、21世紀の今日もまだ強固に存在している昭和的な職場の「飲みニケーション」まで、共同体は常に新しい敵を設定し、それを排除することで持続している。それは決して柔軟さの証明ではない。むしろ逆だ。連合赤軍が最後まで新しい生贄を、排除すべき敵を求め続けたように、共同体はその持続のために「敵」を更新し続ける。新左翼はその「敵」の設定に失敗した結果として、タコがその足を食べるように自滅し、昭和的な職場では社会そのものの後進性に支援されて今夜もオーナーや管理職だけが楽しい「飲み」が反復されている。
この国の文壇や論壇の、それもインターネットを主戦場とする新しい言論を自称する人々の間でも、常に「敵」を設定し、その「敵」をボスの前で取り巻きが中傷し続けることで共同体が維持されるーーといった醜悪極まりない現象が、こうしている今も反復されている。しかし、これは驚くべきことではなく、共同体の継続を優先したときに、新しい「敵」を設定し続けることは極めて効率的な選択なのだ。もちろん、私は軽蔑しか感じないが(私たちは今後、このような共同体を評価し肯定的にコミットするときにまず、その団体の体質を確認すべきだろう)。
多くの人々はプラットフォームに共同体で対抗するべきだと考える。しかし、それは大きな間違いだ。プラットフォームはむしろ共同体と親和的なのだ。誰もが敵を名指しして、共同体を形成しそして新しい敵を設定し直し続けることで、そのコミュニティは持続し続ける。そのためのコミュニケーションの基盤をプラットフォームは提供しているのだ。それはたとえばQアノンを始めとする、陰謀論的な共同体とYouTubeやTwitter(X)といった、プラットフォームとの関係を考えれば一目瞭然だ。人間同士のつながりを、承認の交換への欲望を滞在時間に、そして広告収入に変換するプラットフォームというシステムは、むしろ個人ではなく共同体のための場所なのだ。「敵」を更新し続ける共同体と、人間の滞在時間を換金するプラットフォームは共犯関係にあるのだ。そしてプラットフォームに留まっている人は、そこからどこにも移動できないのだ。
したがって、プラットフォームに対抗するための場所は国「家」や「家」族といった「家」ではない。むしろ「家庭」という言葉のもう半分を形成する「庭」なのだ。「家」とは共同体の最小単位であり、人間同士のネットワークだ。対して「庭」は家族の、共同体の外側に半分開かれた場所だ。そして同時にそこは、人間が人間とではなく事物とコミュニケーションを取ることが許された場所だ。この「庭」こそが共同体の支配する村落に(プラットフォームによって)飲み込まれたこの世界に、独立した個人の交通の場としての都市を回復するための手段なのだ。
私は人と触れ合うことを、否定したいとはまったく考えていない。ただ、それだけでは足りないのだ。いま不足しているのは触れ合うことではない。むしろ過剰に私たちは接触している。他の人間と触れるためにしか、外に出ることができなくなっていたことが問題なのだ。
ばらばらものを一つにまとめる共同体から、ばらばらのものたちがばらばらのままつながる社会を回復するために、巨大な村落の中に例外的に都市を回復するために、この連載は「庭」的な場所を提唱する。
「庭」は共同体を前提としない。個人で訪れても、共同体の集う場としても機能する。個人「でも」いられることが重要だ。いまさら、人間は強い個として生きていくことを主張しない。弱い個が、弱いまま生きていけること。それが社会の脆弱性を補うことなのだ。
ここで誤解してはいけない。まず、ここでは共同体の存在そのものは、決して否定されていない。共同体は不可避に発生するもので、私たちはそこから逃れることはできない。しかし、私たちは共同体の文脈に思考停止することで、数えきれないほど多くの、そして決定的なものを失う。関東大震災後の福田村の虐殺事件に加担した村民たちは相手が朝鮮人であれば殺しても構わないと考えていたのだし、「飲み会」でボスの敵を中傷してそのご機嫌をとる取り巻きはむしろ自分たちの「正しさ」を確認することで安心している。そしてこの卑しさは、今日においてはプラットフォームによって直接的に金銭と票に変換されてしまう。私たちは、私たちの社会の最低限の信頼性ーーたとえば民主主義というものが保持していたものーーを守るために、今、グローバル・ヴィレッジからの待避所としての都市的な場所が、「庭」が必要なのだ。
次に、家族や国家といった村落的な共同体は弱者を包摂し、都市的な個人を単位とする交通空間は強者であることを人間に要求すると誤解されるが、これも間違いだ。父親だけが楽しい家族の観光旅行や、オーナーや管理職だけが楽しい職場の飲み会は、その共同体の中心にいる主役たちに、周辺に配置された脇役や端役たちが「奉仕」することで成立していることを、人々は共同体を擁護するときに都合よく忘れている。運や才能に恵まれない人間は、共同体に加入することは難しく、そして加入したとしての周辺に配置される。むしろ共同体は周辺的な存在を、脇役を、端役を、そして悪役を設定することで成立する。私はこの種の共同体の論理に、軽蔑しか感じない。なぜならば、彼らは要するに孤独を避けるために自分たちが主役の物語の端役を担えと要求しているに過ぎないからだ。
弱い人々のためにこそ、共同体ではなくあくまで個人として、その尊厳を保ちながら生きていける社会が必要だ。少しでも弱い人の立場に立つのなら共同体ではなく、個人と社会の組み合わせこそを擁護する他ない。社会とは、共同体に祝福されない人間のために存在するのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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