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人間の眼は、誰かと眼を合わせるためだけのものではない(『庭の話』#1-3)

前月から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは3万字ある初回の後編です。いま、購読をはじめると先月末に更新した初回と少し前に更新した中編も読めるように設定し直しておいたのでこれを機会に、購読をよろしくお願いします。

7.「関係の絶対性」とその外部

『共同幻想論』と情報社会

 かつて吉本隆明は、人間が社会を認識する上で機能する三つの幻想を提唱した。それは自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人などに対する1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、互いに反発する(逆立する)とされる。そして、今日の情報社会を観察したときその中核に存在する代表的なSNSーーFacebook、Twitter、Instagramなどーーは、この三幻想に対応した機能の組み合わせでできている。プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。自己幻想に拘泥するナルシストは不必要にFacebookのプロフィールの写真を凝り、少ない制限文字数に全力で抗ってたいして面白くもないジョークを盛り込もうとする。対幻想に依存する人は、家族や恋人からのLINEの返信や、既読マークの付くタイミングを相手との関係性の確認に用いて一喜一憂しながら暮らしている。そして、共同幻想に取り込まれたゾンビたちは考える力を失い、タイムラインの潮目を読み、問題の解決でも新たな問題の設定でもなく、他のプレイヤーからのより多くの承認だけを獲得を目的に投稿するようになる。
 当然のことだがシリコンバレーの人々が吉本を参照したなどということがあるはずもなく、彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そしてそこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。その結果として、いま僕たちは情報技術によって吉本隆明の述べる三幻想の内部に閉じ込められているのだ。吉本の掲げたこの三幻想の源流にあるのが、「関係の絶対性」という概念だ。人間は他の人間との関係性から自由に思考することができない。したがって、ある関係(の絶対性)に対しては別の関係(の絶対性を)用いることでしか相対化することはできない。ある幻想からは、別の幻想を用いることでしか自立することはできないというのが吉本の理解だった。
 吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠することで共同幻想から自立するという処方箋を提示した。その処方箋を提示された患者たちーー全共闘の若き活動家たちーーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想からは自立した。しかし、彼らの新しい依存先となった家庭という場の多くが家長が専業主婦と子供を支配する性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止して職場となる企業や団体のネジや歯車として思考停止していったことは記憶に新しい。妻を殴ることで職場での鬱憤を晴らすことや、家族の生活を守るために会社の命令に従い不正に手を染めるといったありふれた卑しさに、吉本の唱導した自立は耐えられなかった。吉本が処方した薬物は乱用され、その結果生じた卑しさこそが、今日も根強く残るこの国の戦後社会に支配的な精神性の基盤となったのだ。

「ゲームの複数化」は答えではない

 こうして吉本のある幻想(関係の絶対性に支えられている)を別の幻想で相対化するというプロジェクトは、あえなく失敗した。それどころか、むしろある幻想に支えられて「自立」することのもたらす安心が、別の幻想に埋没する卑しさを正当化し、促すことを証明したのだ。かつて吉本は三幻想は「逆立」すると述べた。三幻想は独立して存在し、そして反発し合う。そのために、ある幻想に依拠することが別の幻想に依拠することに対しての抵抗になる。しかし、ここで吉本は誤っていた。三幻想は「逆立」しているのではなく、単に独立して存在している。まるで、現代を生きる私たちが、プラットフォーム上の複数のアカウントを使い分けるように。そのため逆に、ある幻想に依拠することを用いて、別の幻想への依拠をも強化することが可能になる。そして情報技術が、この三幻想の結託を大きく支援している。たとえば、現代を生きる人々は、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(アカウント)の強化を最大の娯楽の一つとして定着させている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているのだ。
 言い換えれば、SNSのプラットフォームとは情報技術を用いて人間間の社会関係「のみ」を抽出する装置だと考えてよい。人間間の関係のみを肥大させた結果としてプラットフォームの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのためにそれ(特に承認の交換)以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。こうして、情報技術は人間を関係の絶対性の檻に閉じ込めたのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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