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Web2.0はどこで間違えたのか?ーー〈グレート・ゲーム〉の「速度」に抗う(『庭の話』#1-2)

前月から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは3万字ある初回の中編だ。いま、購読をはじめると先月末に更新した初回も読めるように設定し直しておいたので、これを機会に、購読をよろしくお願いします。

4.21世紀の〈グレート・ゲーム〉

『全体主義の起源』再び

ハンナ・アレントは1951年に出版した『全体主義の起源』で、19世紀における英露の植民地争奪戦〈グレート・ゲーム〉について考察している。一般的には、ナショナリズムと植民地からの搾取を前提とした経済構造の結託が帝国主義の拡大をもたらしたと考えられている。しかしアレントはここで、むしろ帝国主義の拡大の原動力として、植民地に移住したヨーロッパ人たちの精神に注目する。このときアレントがその精神を代表するものとして取り上げるのが、ラドヤード・キップリングの記した帝国主義の時代の植民地(インド)を舞台にした冒険活劇(『少年キム』)だ。
『少年キム』に登場するスパイたちはイギリス人もインド人もなく、ただ匿名の存在として活動にコミットし、敵国が己に賭けた賞金の額を誇りにするようになる。イギリス人のスパイとインド人のスパイが人種を超えた兄弟として共に戦うのだ。そこには、ナショナリズムもなければ人種差別もない。

『少年キム』と植民地の精神

 彼らの目的は金銭でも地位でも、ましてや国家の繁栄でもない。彼らの目的は、敵国によって自身に賭けられた賞金の金額というゲームのスコアだ。このスコアは何ものにもーー金銭にも地位にもーー換えることはできない。そして彼らは一様に「名をもたず、その代りに番号と記号だけをもつ」ことを幸福とする。それは、自分の物語を見つけて自己実現を果たすことによる解放ではなく、むしろ個人であることからの解放である。〈グレート・ゲーム〉に参加することで、彼らは匿名の存在となり純粋にスコアという報酬を目指してプレイすることになる。このとき〈グレート・ゲーム〉は、俗世間の価値から人間を解放し、生そのものを肯定してくれる装置として機能する。そして、このゲームのためのゲームには「終わり」がない。彼らの目的はゲームをプレイし、スコアを上げること、それ自体だからだ。キムの物語が体現する〈グレート・ゲーム〉は現実的な利害を超えた価値をもつ装置なのだ。

匿名性とスコアの世界

 このゲームそれ自体への没入こそが、帝国主義の拡大の原動力であったとアレントは考える。19世紀後半には既に、帝国主義とは拡大そのものが自己目的化したシステムとして存在していた。アレントは述べる。『少年キム』の冒険活劇で描かれた精神は、キップリングの独創ではなく、当時の帝国主義下の植民地を運営するヨーロッパ人たちのあいだで支配的な精神を反映したものだ。植民地のヨーロッパ人たちの多くは(特に、その運営を支える官僚機構において)まるでキップリングの冒険活劇に登場したスパイたちのように、ゲームのプレイそのものが自己目的化しており、このゲーム「への」欲望こそが、帝国主義の拡大することそのものの目的化を促したのだ。
 その存在が世界に確実な影響を与える大規模なゲームに、匿名のプレイヤーとして参加したとき、人間はゲームの攻略が、高いスコア(賞金)を上げることが手段ではなく、目的となる。そのために、そもそもこのゲームが何を目的に運営されているかには関心を払わなくなる。自分たちが依存する国家や、その背景にあるイデオロギー、加担しているシステムなどゲームの外部には関心を払わなくなる。アレントの考えでは、人々のゲームのプレイを通じた、生の実感への欲望の追求こそが、帝国主義の拡大の原動力に他ならないのだ。

「ゲームのためにゲームを愛する」こと

 アレントはこのキム少年の冒険が読者を惹きつけたのは、彼が「ゲームのためにゲームを愛した」からだと述べる。近代社会において、人間はその人生に意味を求める。しかし、インターネット(特にWeb2.0)の夢が、たとえ発信する能力が与えられても発信するに値するものを持っている人間は一握りしかいないことを明らかにしてしまったように、人間一人ひとりの生に意味を求めることは、逆に人々を追い詰める。人間の大半はネジや歯車のような、匿名の部品に過ぎない。その生に意味を求めてしまうからこそ、近代人は自己が入れ替え可能な存在であることに苦しむ。そしてこの皮肉な現実を理解し「醒めた意識」をもつ人間こそが、その生に意味ではなく「情熱的な生の充実感」を求めるようになる。そしてあえて匿名のプレイヤーとしてゲームに参加し、ゲームを攻略した報酬ではなく攻略する快楽そのものを求めるようになるのだ。

グレート・ゲームの再臨

 そして帝国主義の時代の末期から、100年を経た今日において起きているのは、より矮小で、そしてより酷薄な現象だ。今日のプラットフォーム上のゲームを、個人としてプレイする人々の多くが、おそらくアレントの指摘した〈グレート・ゲーム〉に埋没した植民地下のヨーロッパ人たちと同じ状態にある。ゲームに没入し、そのスコアを競った結果として、外部を見失っている。閉じた相互評価のゲームに埋没し、即時的な承認の交換のもたらす充足の中毒に陥っている。
 
 Somewhereな人々の大半は、ネジや歯車のような生に耐えるため、承認の交換を求めて相互評価のゲームをプレイする。そしてその低コストな承認の交換のもつ中毒性で考える意志と力を失い、タイムラインの潮目を読むだけの存在と化す。その結果として彼らはAnywhereな人々に動員され、換金されていく。
 そしてこのようにSomewhereな人々を中毒にして換金するプラットフォームの運営者たち=Anywhereな人々もまた、皮肉にも同じ構造の罠に陥っている。なぜならばアレントの指摘した19世紀の帝国主義の推進力となった拡張すること自体を自己目的化した構造は、Anywhereな人々のプレイする金融資本主義のゲームにもまた備わっているからだ。有名な話だが1980年代初頭では、金と株(グローバル化株式のインデックス)との価値はほぼ同じだったが、年々株の価値の上昇速度が圧倒的に速くなり今日においてはその価値に10倍以上の開きがある。この事実は、現代の金融資本主義のゲームは、未来においてその規模が拡大する可能性にこそもっとも大きな価値が与えられることを示している。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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