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プラットフォームから「戦場」へ(庭の話 #16-1)

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第16回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので2分割します。後半は今月の後半にでも載せます。)


1.続・コモンズであってはいけない?

 最初に以前取り上げたエレノア・オストロムの議論を思い出してもらいたい。オストロムは共有地が「コモンズの悲劇」を回避する唯一の解が、少なくとも歴史的には共同体による「自治」であることを証明した。オストロムの議論はこれに加え、共同体の自治が機能するための諸条件ーー国家との距離感、「自治」の規模などーーを考察しているところにこそその価値がある。そのためオストロムの議論は「自治」を機能させるために必要な国家の適切な介入について、具体的にはルール変更の法制度について割かれている。オストロムにとって「自治」はあくまで、共的資源の持続的な活用のための手段でしかなく、目的ではなかった。
 しかし今日のコモンズをめぐる議論はグローバル資本主義に対する防波堤として左右双方のロマンチックな言説のバックボーンとして利用されている。右派はグローバリゼーションのアレルギー反応として浮上する素朴なパトリオティズムに基づいて、あるいはドナルド・トランプ的に相対的に没落する前世紀の先進国の労働者たちを糾合するためにそれぞれの土地とそこに紐づいた共同体の価値を主張する。対して左派においては令和のマリー・アントワネットと化した人々がビニールハウスとしての大学やマスメディアに守られながら貧困や孤独の害を訴えてセルフブランディングを試みるときに格好の素材としてこれを(資本主義への「抵抗」の拠点のイメージとして)利用する。
 嫌味を書いてしまったが、私たちが(今日のグローバル/情報化を前提とする社会に生きりうからこそ)日々の暮らしの場所との関係を再構築し、アイデンティティの置き場とするべきだという考えは、ごく自然な反応だ。そしてこうした可能性の探求の中には上記のの浅薄なパフォーマンスにとどまらない良心的なものも多数存在する。たとえば経済学者の松村圭一郎は近著で以下のように述べている。

〈私の住む岡山市内に、女性店主がひとりで経営する小さな本屋さんがあります。ある時、店主が体調を崩して、SNSで休業のおわびを投稿しました。すると、常連の女性たちが食べものの差し入れをしたり、郵便物を代わりに投函してくれたり、店の玄関口を掃除したりと、みんな誰に言われるでもなく、そうした手助けを買って出たのです。
 この記述からも読み取れるように、Uさんの古着屋に来るのは、服を買うためだけではありません。むしろ店主や常連たちが待っていてくれる場所に若者たちが集まって来るのです。店主は客の七割の名前と顔が一致するといいますし、お客さん同士のつながりもあります。こうした顔の見える関係では、店をまわしていくために、自分のできることを自分たちでやっていく、ささやかな「自治」の実践が自然となされているのです。
 学生たちの報告は、この古着屋の事例だけにとどまりません。単なる商品交換を超えた店で育まれる人間関係の報告は数多くあります。地元に根づいた商店街の楽器店が、吹奏楽部の生徒たちにとって楽器選びや演奏の上達のことだけでなく、進路や就職といった人生相談の場にもなっている。古本屋で定期的に飲み会や交流会が開かれていて、年齢や性別を超えたあらたなつながりが生まれている。そんな「店」の可能性が垣間見える数々の調査から、私も学んできました。〉

斎藤幸平 、松本卓也編『コモンの「自治」論』、集英社、2023年

 この記述からも読み取れるように、Uさんの古着屋に来るのは、服を買うためだけではありません。むしろ店主や常連たちが待っていてくれる場所に若者たちが集まって来るのです。店主は客の七割の名前と顔が一致するといいますし、お客さん同士のつながりもあります。こうした顔の見える関係では、店をまわしていくために、自分のできることを自分たちでやっていく、ささやかな「自治」の実践が自然となされているのです。
 学生たちの報告は、この古着屋の事例だけにとどまりません。単なる商品交換を超えた店で育まれる人間関係の報告は数多くあります。地元に根づいた商店街の楽器店が、吹奏楽部の生徒たちにとって楽器選びや演奏の上達のことだけでなく、進路や就職といった人生相談の場にもなっている。古本屋で定期的に飲み会や交流会が開かれていて、年齢や性別を超えたあらたなつながりが生まれている。そんな「店」の可能性が垣間見える数々の調査から、私も学んできました。〉

斎藤幸平 、松本卓也編『コモンの「自治」論』、集英社、2023年

 前提として私は松村の示す個人商店を基盤にした街づくりというビジョンそのものは、強く支持したい。単純に考えて、この種の個人事業はデイヴィッド・グッドハートのいうSomewhereな人々の集団のネジや歯車として「仕事」に携わり、世界に関与する手触りを共同体への依存や性急な政治参加によって埋め合わせる現実とも、のないAnywhereな人々のグローバルな資本主義のゲームのプレイヤーとして世界に関与する手触の獲得とも「異なる」アプローチではある。言い換えればしれは、Somewhereにしか生きられない人々が「個」を失わないままに、世界に素手で触れる方法のひとつだろう。
 しかしここには条件を加える必要がある。松村はここで商店主と客、あるいは客同士の育む共同体にその価値の中心を置くのだが、本連載の立場からここに同意するのは難しい。端的に言ってしまえば、ここでは面倒見のいい店主が気に入った客の少年の面倒を見るといった類のハートフルではあるがほとんど一般化の期待できない例がその有効性の証明として紹介されている。しかしこれではハートフルなエピソードの紹介によって、根拠と論理の不在を表面的に補っていると言わざるを得ない。

 まずごく単純に、これはそこに「たまたま」面倒見のいい店主と気のいい常連客が集った、といったケースを一般化して、個人経営の商店が連なる商店街の類に既存の資本主義の「外部」とや「抵抗の拠点」を見出すのは完全に論理が飛躍している。ここで共同体の性質を決定しているのは店主のパーソナリティであり、個人商店の集合としての商店街という形式ではない。
 たしかに郊外型の大型ショッピングモールの店員(ある程度の会社組織の従業員であるケースが多い)を中心にこのようなケースが発生しにくい。しかし、この個人商店ならではの距離の近さは、そしてこの近さの生む対話の可能性はたとえば同時にハラスメントの可能性でもある。店主が常連客の少年の面倒を観る可能性は、同時に性加害の可能性である。私はこのような悪意を持って「このような可能性があることを排除できないはずだ」と否定的な仮定を重ねる行為は不毛だと考える。しかしこの究極的にはすべての事例に当てはまるような可能性を根拠にした批判ーーつまり実質的には無内容な批判ーーと同レベルの論拠しか、この論考では提示されていないことが問題なのだ。重要なのはたとえば建設的な対話を増し、ハラスメントを減じるための具体的な知恵なのだが、松村はハートフルな物語の記述に紙幅を割き、このような肝要な部分は記していない。重要な提言であると思えるだけに、非常に残念だ。
 そしてこれがさらに重要なのだが、あたらしい公共の場としての「自治」や「コモンズ」について考えるとき、行きつけの商店の店主と親しくなるようなコミュニカティブな性格の人間のモデルを考えることにほとんど意味はない。実際に少年期の私も近い感性を抱いていたと思うのだが、いま孤独に苦しむ人々の多くがこの例を聞かされて強く他人事だと感じるだろう。常連になった商店やカフェで店主や他の客と仲良くなれるようなコミュニケーションスキルがないからこそ、彼ら彼女らは孤独なのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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