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「暇」と「退屈」と情報社会(「庭の話」 #7)

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第7回目です。3万字ある初回と2回目はいま購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。

本当は『シン・仮面ライダー』について書くつもりだったのだけれど、そtれは週末の更新に先送りします(ごめんなさい)。


1.第三の欲望

 これまで議論してきたのは、「家」という私的な領域の中に存在し、公的な領域に対する蝶番として機能していた「庭」を(世界中の家屋から「庭」が消失しつつある今日において)むしろ公的な領域に移植して、再生する試みだ。それが「プラットフォームから、庭へ」というキャッチ・フレーズに込められた意図だ。そして、前回までの議論であたらしい「庭」の条件を私たちは手に入れた。私たちが獲得すべき「庭」は、事物が(「ときには」情報技術に支援されることで)人間を襲撃するようにアプローチする場所でなくてはならない。これが新しく追加された「庭」の条件だ。

 これまで述べてきたように、今日の情報環境下においてはたとえどのような事物が存在したとしても、それが最適化されてリコメンドされるために人間の心を侵さない。東京新聞の愛読者に山本太郎の本が勧められたとしても、その作品の力に関わらずその人は何者にも変化させられない。そのために、その事物と出会う場としての「プラットフォームから庭へ」の変化が必要になる。プラットフォームにおいて、人間は他の人間としかコミュニケーションを取らない。しかし、「庭」は異なる。そこは事物と直接的に出会う場所になる。事物と直接的に出会うとき、最適化は働かなくなる。既に他者の欲望を欲望するようになってしまった自己を、横側や斜め上から事物が襲うことがはじめて可能になる。その事物が作用したときにーー情報技術の支援はあっても、なくてもよいーー人間ははじめてほんとうに「変身」するのだ。

 まるで虫に刺されるように、花の香りに惑わされるように、事物ーー自然物、商品、サービス、出来事などーーの側からの能動的なアプローチに人間の側が翻弄されること。これが、人間の内発的な欲望を、ときには新たに開発していく。ここで私が提案している「庭」とは、広告と呼ばれる人間と事物との関係を最適化する装置の真逆のアプローチが取られている場所のことだ。AmazonやNetflixのリコメンドがそうであるように、「広告」という制度は既にある程度自覚された欲望に、あるいは無自覚にネットワークに吐き出され、可視化された欲望を拡張する。しかし、「庭」の事物はそうであってはならない。それらの大半はそこを訪れた人間に気にもとめられなくてもよい。100回に1回でも、1000回に1回でも、10000回に一回でもその心身を変化させられればよいし、その変化は微細なものでもよい。既に自覚された欲望でもなければ、無自覚に可視化された欲望でもない第三の欲望を刺激し、微細でも人間を「変身」させることができればよい。

 そして私的な領域を、もはや自分以上に自分に詳しい人工知能の選択した「広告」的なものから守る方法は(政治的なアプローチ以外は)存在しない。だからこそ、公的な領域においては、「広告」的目的を持たないがその場にいる人間たちに対して能動的にアプローチする事物が必要なのだ。それが大衆に対して「広く告げる」ものなのか、個人に対して耳元でささやくものなのかは、それほど大きな問題ではない。そこで問われるのは、そこで提示されるものが偶然に選択され、その人に最適化されていないものであることなのだ。このような「庭」をその暮らしの中で得たときに、はじめて井庭の述べる創造社会ーーは、大仰にすぎるのなら、さしずめ制作社会といったところだろうーーの可能性は大きく開けることになる。人間同士の相互評価のゲームにおける承認の交換の持つ強い支配力を、ある程度でも緩和できる裂け目のような回路として、人間と事物の間のコミュニケーションが強い求心力を持つことが、制作/創作社会の条件なのだ。

 では、そこに存在すべき強い力を持つ物事とは何か。必ずしもそれを望んでいない人間の前に現れて、そして強い力で人間に能動的にアプローチし、そして変化させる力を持つ事物の条件とは何か。それを今回は考えてみたい。

2.岡山の醤油蔵にて

 気づいたときはすでに、手遅れだった。その日、あるプロジェクトの視察で岡山市に宿泊していた私は新幹線に乗り遅れ、次の予定に大きく遅刻することになった。本当は午前中のうちに、次の予定地である兵庫県の西粟倉村に移動しておかなくてはいけなかったのだが、これで数時間の遅刻が確定してしまった。新幹線を1本逃したことが、数時間の遅延につながる地方の鉄道事情に、打ちのめされた。しかし、悪いのはどう考えても私だった。私が新幹線に乗り遅れた理由は、当時放送されていたNHKの朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』のロケ地を巡っていたからだった。当時はまだ放送中だったので、最終週に安子ことアニー・ヒラカワが走って逃げるのをひなたが追いかけたあの商店街のアーケードは素通りして、岡山後楽園の周辺を熱心に探し回った。お目当ては若き日の安子が、稔に自転車に乗る練習をしていた旭川の土手だった。概ねこの辺りだろう、というのは目星をつけていたのだが実際に撮影が行われていた場所を特定するのに時間がかかり、新幹線に遅れてしまったのだ。発車時刻が近づいていたので、タクシーを拾って駅に戻ろうと、急いで後楽園口に戻ったのだが、そこで私は間違えた。見覚えのある建物があり、足を止めたのだ。そうか、これはここにあったのかと少し嬉しくなった。それは、古い醤油蔵を改装したアートギャラリーで、その半年ほど前に僕が友人に連れられて訪れた場所だった。当時は駅からタクシーで直接乗り付けたので、岡山という街のどこの、どういう場所にあるのかなんてさっぱり考えなかった。しかし、このときは違った。朝から、新幹線に乗りそびれるリスクを侵してロケ地巡りのために市内を歩き回った私は、そして半年近く岡山を舞台にした朝ドラを観続けた私は、ここがどういう場所かそれなりに理解していた。岡山の駅前は、ありがちな地方都市の顔をしている。大きく開けたバスのロータリーがあり、そして路面電車の通る四車線の広い道路の背後にユニクロや無印良品やビッグカメラの入った商業ビルが並ぶ。しかし、路面電車に乗って東に進み岡山城が見えてくるとだんだんと、古い街の顔が見えてくる。かつての空襲で、市街地のほとんどが消失した岡山だけれど、後楽園の手前のエリアは奇跡的に焼け残り、時折り時間の止まったような建物が顔を出す。それはレトロモダンな商店だったり、木造の古民家だったりするのだけれど、それは明治の時代からそこに建っている醤油蔵だった建物だ。僕をこのもと醤油蔵に連れてきた友人は猪子寿之ーーデジタルアート小テクティブ「チームラボ」の代表だ。その半年前に猪子は、この醤油蔵の地下に面白いものを作ったから僕に見に来いと誘ってきた。ちょうど猪子が現地に入る日程で、関西に出張の予定があったので、そのついでに足を伸ばすことにしたのだ。

 そこーー福岡醤油ギャラリーーーは、明治時代に建てられた主屋と昭和初期に建てられた
離れからなり、以前は醤油製造蔵や市民銀行の窓口として使われていた建物を、アートギャラリーにリノベーションしたものだ。猪子に案内されて、地下1階に降りた。最低限の照明だけが設けられた、まるでダンジョンのような暗く、狭い通路を一列になって進むと、少し広めの学校の教室くらいの広さの空間に出た。かつては実際に醤油の樽が並んでいたというそこでは、暗闇の中に赤いランプたちが無数に点滅していたしていた。よく見ると、ランプたちは黒い液体の入った水槽に浮かんでいるのが分かった。黒い液体は醤油をイメージしたのだと猪子から説明を受けた。しかし口には出さなかったが、洞窟の奥で赤いスライムの大群に遭遇したようだと私は思った。本当に浮かんでいるのか確かめてみたくて、手近なランプを、そっと手で押してみた。すると、私の手に反応してそのランプの点灯のリズムが変わった。それまで、すべてのランプが同じリズムで点滅を繰り返していたのだが、私がそのランプに触れたことで、1つだけ異なるリズムに「ずれて」しまったのだ。そして、1つのランプの点滅のリズムがずれると、その近くの別のランプの点滅のリズムも変化し、全体からずれていった。最初は1つ、次に3か4つ、そしてもっとたくさんーーーまるで、ウイルスの感染が広がるようにその効果は広がっていった。私が何気なく1つのランプに触れたことで、完全なハーモニーを奏でていたランプたちは、瞬く間にその全体が不協和音に包まれていった。それは、ケーキの上に精密に築き上げられた生クリームの建築物に、甘いものを前にした子供がフォークを突き刺して一瞬で崩壊させてしまったような光景だった。
 しかしーーしばらくじっとそのカタストロフを眺めていると、ランプたちは平衡を取り戻していった。どこに中心があるのか分からない(猪子の説明によれば「ない」らしい)が、ランプたちはまるで互いに引き寄せ合うように、側のランプと同調し始めていった。近くのランプと、だんだんと点滅のリズムは近づいていき、さっきとは逆にその同調の効果はじわじわと広がり、そして、数分がたつとまた、私が立ち入る前と同じように全体が同じリズムで点滅を繰り返すようになった。猪子の説明によれば、このランプたちには、実は1つ1つ固有のリズムが設定されている。しかし、同時にこのランプは周囲のランプと互いに引き込み合うようにプログラムされている。互いに、側にあるランプと点滅のリズムを合わせ合っていくのだ。そのために、最初は1つ1つがまったくバラバラのリズムで点滅していたものが、互いに引き込み合ううちにいつの間にか、全体が同じリズムで点滅するようになるのだ。人間がこの地下室に現れ、ランプに触れることで、そのランプは一瞬だけ、独自のリズムを取り戻す。1つのランプが独自のリズムを取り戻すと、この引き込み合うプログラムによって、近くのランプの点滅も全体のリズムからずれていき、その効果は全体に広がっていく。最終的にはすべてのランプがばらばらのリズムで点滅するようになるのだが、やがて時間が経つと、この「引き込み合う」プログラムによってやがて再び全体のリズムは統一されていくようになる。
 こうして、この場のランプたちはばらばらになることと、全体が一致することをそこに誰かが訪れるたびに反復していくことになる。それはまるで、今日の情報社会における私たち人間の姿そのものだと、私は思った。もはや世界は情報技術によって、同期している(されたれている)。誰もが同じタイミングで、同じ話題に言及し、そして周囲の反応を伺って同調し合うことによって、全体の、統一されたリズムが決定されていく。私たちは、自分が個別の存在であることを確認するために、ゲームのスコア=他のプレイヤーからの承認を求めそこで発言する。そしてこの相互評価のゲームを効率的に攻略する=最適化するとは、タイムラインの潮目を読むことと同義だ。今日のプラットフォームが人間から考える力を奪うのは、そこで展開する相互評価のゲームの定石が人間が全体の一部であることを実感することで得られる快楽を利用すること、だからだ。ここには皮肉にも、自分が個であることを確認するために、全体の一部となり思考を失っていく罠がある。もはや私たちは、暗い地下室の中で水槽に浮かび、点滅を繰り返すランプのような主体なのかもしれなかった。

 猪子は続けて言った。このランプたちの全体のリズムは、一度かき乱され、回復するたびに変化する。二度と同じリズムには戻れない、不可逆な変化なのだ、と。私は考えた。もしその変化が、しっかりとした手触りを伴って感じられたらどうだろうか。このとき人間は、他のプレイヤーと承認を交換することなく、自分のコミットで世界が変えられること、いや、否応なく変わってしまうことを実感することになる。そこにはゲームは成立しない。人間はこの場所においては、存在しているだけで、世界の不可逆な変化に加担する。原理的に考えれば、あらゆる人間は存在しているだけで世界に不可逆な変化をーーごくごく微細にだがーー与えている。しかし、その変化を認知することは難しく、そのために持てるものはグローバルな経済の、持たざるものは政治のゲームで他のプレイヤーたちと承認を交換する。しかしこの二つのゲームは、どちらかといえば人類を不幸にしているーーそんな話を、かつて猪子としたことを私は思い出した。

「こっちに座ってーー」水槽の水面と同じ高さにカウンターのようなものがあって、私は猪子にその席の一つに腰を下ろすように促された。ギャラリーのスタッフが、私の眼の前のグラスに、冷たい緑茶を注いでくれた。すると、グラスが青白く発光した。他のチームラボの施設で、何度も体験したギミックだったが、やはり心が踊った。そしてこのグラスの発光もまた、近くのランプに影響を与え、そのハーモニーをかき乱していく。茶を飲み終わると、発酵が終わり、ハーモニーが回復する。その場に腰を下ろして休憩し、茶を啜るという何気ない行為が、意図せず世界に圧倒的な影響を与える。人間はあるレベルでは全体の一部であることから、逃れられない。しかし、その一方で全体に回収されない個として存在しようとしない限り、考える力を失う。しかしここでは個別であることと、全体の一部であることが矛盾せずに共存している。正確には、人間が通常は認識できない両者が矛盾せずに共存している領域を情報技術で可視化しているのだ。

3.能動的な事物「からの」コミュニケーション

 私の「遅いインターネット」構想への建設的な批判として井庭がパターン・ランゲージに支援された創造社会を提唱するのは、人間と人間とのかかわり(相互評価のゲーム)が情報技術の支援で肥大し、民主主義すらも機能停止に追い込みつつあるという現状に対して、「遅いインターネット」(メディア的な介入)とは異なる形で介入するためだ。そしてここで私はこの井庭の創造社会論に対して(その意図に全面的に賛成する立場から)建設的な批判を加えたいと思う。創造社会論の泣き所はほとんどの人間は、ある条件下に置かれない限りは創作はおろか、制作することすら欲望することが困難であることだ。仮に井庭の述べるパターン・ランゲージを応用した制作の簡易化(つまり、Web2.0が情報発信を大衆化したように主にサイバースペースにおいて事物の制作を大衆化すること)が実現したとしても、人間はこの制作/創作相互評価のゲームによる承認の快楽を、相対化することは難しいだろう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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