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「動いている庭」から「多自然ガーデニング」へ(『庭の話』#3)

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第3回目です。3万字ある初回と2回目はいま購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。

1.「庭」の方法

 一、地形により池のすがたにしたがひて、より来る所々に風情をめぐらし て、生得の山水をおもはえて、その所々はさこそありしかと、おもひよせ よせたつべき也
 一、昔の上手の立て置きたるありさまをあととして、家主の意趣を心にかけ て、我風情をめぐらしてたつべき也
 一、国々の名所を思ひめぐらして、おもしろき所々をわがものになして、お ほすがたをそのところどころになずらへて、やはらげたつべき也

 この三ヶ条は、世界最古(平安時代中期に成立)の造園の指南書と言われる『作庭記』に記された、造園の基礎となる心得だ。ここで主張されている心得を現代的に言い換えると、「庭」とはその家屋の置かれた地形に基づいて実際の自然のミニチュアを構築するものであるということ、それが造園家や家主の意図が反映された作品であるということ、そして最大の参照先はさまざまな土地に実在する景勝地であるということ、だ。『作庭記』における「庭」とは私的な領域に理想の風景を再現した場所であるということ、そしてその造園者や家主の自然に対するメッセージの込められた場所であるということを示している。その土地に、人間の理想を持ち込み、調和させること。それが造園の基礎なのだ。
 
 断っておくがここで『作庭記』を引用したのは「庭」をモチーフにした文明論を展開するためではない。たとえば自然の秩序を人間の秩序に従わせ、人間の自然への支配の意思を体現した西洋の庭(平面幾何学式庭園にせよ、バロック式庭園にせよ)に対して、日本の「庭」は、より自然の秩序をそのまま活かすものだった、といった類の和洋の比較を展開することも可能なのかもしれないが、この連載の視点はそこにはない。
 この連載において「庭」は比喩にすぎない。連載の目的はあくまで、「庭」の方法からプラットフォームの「次」のもののビジョンと方法を導き出すことだ。そして今回は第2回で提示した「庭」の条件を満たす場所(サイバースペース+実空間)はどのようにつくられるべきか、その方法を実際の造園についての知恵を参考に考えてみたい。
 これまで述べてきたように、プラットフォームの「次」のものが「庭」の比喩で示されることには必然性がある。「庭」という言葉が、「場」を示すものから、徐々に家屋において何らかの事物を対象に作業をする場所のことをさすものに変化していったことは前回までに述べた通りだ。それは、人間の私的な領域(家屋)と公的な領域とを接続する蝶番のような場所だった。だからこそ、社会的な分業が進行するに従って、その場所は観賞用の、つまり「観る」ためのものに変化し、そこに暮らす人々の世界観を象徴的に表現するものに変化していった。
 今日において、「庭」とは主に「観る」ことを目的にして、自然の一部を囲い込み、あるいは切り取り、選別して一定の枠内に収めたものに変化している。「庭」にはその時代の人間が自然物を含む世界をどのようにとらえ、そして人間がどのようなかたちでそこに接続されるべきかという理想を示すものとしての側面がある。だからこそ、この「庭」を作る知恵は、プラットフォームの次のものを考える私たちにとって、大きな手がかりを与えるだろう。
 そして最初に参照するのは、ある庭師の仕事だ。彼は述べる。〈わたしの考えでは、庭こそ形によって判断されるべきではない。むしろ存在することのある種の幸福、それを翻訳することができるかどうかで判断されるべきだろう〉と。現代を代表する庭師、フランスのジル・クレマン。今回は彼の仕事から、議論を始めたい。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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