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公開から33年「マイ・プライベート・アイダホ」に想いを馳せる

*ネタバレ含みます。映画を観ていないと分からない話が殆どです。観ていること前提で書いてますので了承の上お読みください。

この記事を書くまでに辿った色々。


「マイ・プライベート・アイダホ」の思い出

 *以下原題の「My Own Private Idaho」からMOPIと略します。

MOPIの日本公開は1991年7月20日。この映画、当時私はリアルタイムで劇場で観ました。言われてみれば夏休みだったような気もする。

意外なのは日本公開が世界で一番早かったようだと言うこと。
ベネツィア映画祭で上映され、リバーが男優賞を獲っているのが9月4日
アメリカではまず限定上映されたのが9月29日。日本版wikiでの公開日が10月18日になっているのでそこから全米公開という流れでしょうか?

なぜ日本が早かったのか?関係者じゃないのでわかりませんが、おそらく日本ではこの時期、「スタンド・バイ・ミー」で日本の映画ファンにもインパクトを残し、続くティーン映画でアイドル俳優としての人気も獲得し、「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」というドル箱メジャー大作にも出演し、リバー・フェニックスがこれからハリウッドにおける大人の俳優としてスター街道のど真ん中を歩んでいくのだろうという期待が膨らんでいた時期だった…というのと、

日本では80年代半ば~後半ぐらいから「モーリス」や「アナザーカントリー」の同性愛、耽美系ブームがあり、BLという言葉はまだなく”やおい”と呼ばれていた頃だけど、やおいマンガや小説とはまたちょっとジャンル違いで耽美系映画に出演した海外美形俳優ブームみたいな流れがあったような記憶があります(もちろん両方美味しく楽しんでいた層もいたw)。

なのでMOPIという映画はリバーが同性愛のハスラーを演じる訳で、リバーブームという流れと同性愛ブームという流れがドカ~ン!!とぶつかって天に向かってドワ~ッと上昇するような、まさに期待がぶち上がる映画だったわけです。その界隈…少なくとも私の中では😅。
なので日本で公開が早かった理由は、私と同じような気持ちの当時の映画買い付け担当の方が、どこよりも早く公開に漕ぎ着けるぜ!!って頑張った結果だったのでは?…と、勝手に思っておりますw。(あと、まだ当時は欧米での同性愛映画の公開は日本よりスッと通らない壁(規制)があったのかも?日本の方が寛容だったのかもしれません)

当時まだ学生だった私は、昭和に建てられ、この頃には少し寂れかけた○○座だか○○ピカデリーだかいう映画館のレイトショーで観た記憶があります。昼間からはやってなくて、確か夕方か夜ぐらいからの少ない上映回数。昼間は東映マンガ祭りとかがまだやっていた時代。おそらく子供が来なくなった夜に入れ替えで上映していたんでしょうね。流石に最後まで観ると22時とか家に帰るのがかなり遅くなる時間でした。それで夏休みで塾の夏期講習とかなんとか誤魔化して行ったような…😅。もういろんな意味で罪悪感いっぱい感じながらドキドキだった記憶があります。帰りも必死で自転車漕いで急いで帰ったし(笑)。

親に隠れて観に行ったのもドキドキでしたが、MOPIの日本版のポスターの半裸のリバーが十代の私には非常にエロくてですね、事前に映画の内容もイマイチよくわかってなかったから、それだけで妄想かきたてられ、どんなエロい内容なんだろうと…そっちの方でもドキドキしていたのです😅。日活ロマンポルノとか成人向け映画は観に行ったことないけど、まさにああいうピンク映画館に入るような気持ちでドキドキ死するんじゃないかというくらい、チケット買うのも恥ずかしかった(/ω\)。

これがそのポスター。

この半裸のリバーが全面のポスターだったような記憶もあるけど…。
こちらのポスターも見たような。
とにかくこの半裸部分しか記憶に残ってないんですw

このリバーの半裸画像、海外のMOPIのポスターでは全然使われていない模様。そう、実際映画の中のリバーとは髪型も全然違うし、この画像のような場面もないし、映画からの引用ではないわけです。
海外掲示板のリバー・フェニックスに関するスレッドを見ていたら、なんでも雑誌用に撮られた写真のような記述がありました、公開が早かった日本用に急遽グラビア画像を使って作ったポスターだったのかもしれません。でもこの写真の効果は、私には絶大でした。本国バージョンだったら多分そこまでドキドキしなかったと思うし、嘘ついてまで観に行かなかった気がします(笑)。

で、そんなドキドキしたMOPIを観て、鼻血ブーになったのかというと…
全然ならなかった!!爆
最初のフ〇ラされるシーンに初心な私はさすがにビックリしましたが(←嘘つけ!)、その後出てくるセックスシーンもどういう体位なのかもよくワカラン静止画みたいなものばかりだし、それ以上にナルコレプシーで何度もぶっ倒れるのが衝撃というか、眠りに落ちるというよりSeizure…発作?てんかんの発作みたいで、毎度「大丈夫なの?」という不安になってしまう。しかし大したことがないように進むストーリー。この温度差を咀嚼できないまま、リバー演じるマイクが救われることもなく、きったないホームレスのおっさんとの話もよくワカランし、そして最後はあんな終わり方…。当時は考察なんか今ほど流行ってなかったし、ティーンで頭お花畑の私が出来る訳もなく、ネットで調べられるわけでもなく、ストーリーの理解も追いつかなければ、感情の理解も追いつかない、とにかく混乱と後味の悪さが強く残る映画だったのでした。

そしてあんなに期待していたリバーは、へんなモミアゲはあるわ、全体的に小汚いわ、なんだか一気に老けて見えたし、顔もむくんでいたのかごつくなり、薬でイッてるような虚ろで怯えたような目。あの昔のリバーが持っていたキラキラした輝きが全く感じられなくなっていて、キャラとしても不憫すぎて、とにかく見ていられなかった。

逆にキアヌはキャラ的には別に何とも思わなかったけど、容姿は良かったので目で追いかけていたのは殆どキアヌだった。(←十代なんてそんなもの(;^ω^))それまで英国男子寮でのハイソな同性愛作品に慣らされていたので、ナイーブな十代の私にはギャップに対応できなかったんだと思う。今ならストリート・ハスラーのファッション、リバーが着る赤いジャケットや丈の短いパンツとかもいいな~と思えるし、彼の役作りのリアルさも評価できるんだけど…。


作品背景

3つの脚本

John Rechyによる1963年の小説「City of Night」が構想の原点。

「City of Night」は1人のハスラーがNYからLA、サンフランシスコからニューオリンズ、様々な場所で様々な相手と出会う物語。
別のハスラー、年上の男性、SM愛好家、寝たきりの老人など。彼らとの関係はそれぞれの特異性と同様に、感情的なものから性的なものまで多岐に渡るものだった。←しかしハスラーである主人公はゲイであることは認めない。

ヴァン・サントは70年代、ハリウッドに住んでいる時に(似たような?)原稿を書いていたが、「City of Night」を読んでこちらの方が優れていると感じ長年棚上げ状態になっていた。

1988年、初監督作「マラノーチェ」の編集中、マイケル・パーカーというストリート・キッズに出会う。彼がMOPIのマイク役のモデル。
↓このサムネの子です。MOPIにもハスラー仲間として出てました。

パーカーのストリートキッズ仲間にスコットという男の子もいて、ヴァン・サントはこのキャラを金持ち設定にし、ポートランドで会った別のストリートキッズと組み合わせてキャラを作り上げていった。

最初の脚本の段階では、LAのサンセット・ブルーバードが舞台だった。タイトルも「Blue Funk」、または「Minions of the Moon(月の手下たち)」のようなものだった。

*IMDBのトリビアによると、後述する「ヘンリー四世」をベースにしたストリートキッズの物語「Howling At The Moon(月に向かって吠える)」と、「In A Blue Funk」と言うのはラスベガスの路上に住むスペイン人のいとこ同士が、スペイン地図に自分たちの名前と同じ名前の場所を見つけ、そこを訪ねて自分たちのルーツや家族を探すという話。「My Own Private Idaho」というのは当初、ハスラーの少年がドイツ人の車部品セールスマンに拾われて、彼の家に閉じ込められるという話だった。これら3つの脚本をどう終わらせるか悩んでいたところで混ぜてしまえ!となったんだと。

*wikiによると、「ヘンリー四世」の現代版の脚本とは別に25ページの短編「My Own Private Idaho」の脚本を書いており、それはポートランドに住むラテン系の少年達が両親を探してスペインの町まで旅する話。そして一人は現地の少女と恋に落ち、もう一人を残して去ってしまう。もう一つ「The Boys of Storytown」という脚本もあり、そこにマイクとスコット、ハンスとボブが出てくる。

←なんだか情報が錯綜していて、色々読めば読むほどわからなくなっていくのですが(;^_^A、とにかく構想途中の三脚本をまとめて一つの作品にした…ということのようですね。だからなんだかいまいちストーリーに統一性が無いというか、バラバラな印象があって、物語にのめり込みにくいな~と初見時に思った私の感覚はまんざら間違いではなかったんだと、33年経って納得できました。
逆にそれが散文的、モザイク、コラージュ作品のようで面白い、芸術的という意見もあるようなので感じ方は人それぞれ。

Rechyの小説の影響で、舞台をLAからオレゴン、ポートランドに変更する気になった。
脚本は元々2つのパートのシナリオで構成されていた。←上述の3脚本を合体させた上で二部構成にしたということかなと。
Modern Days」というマイクの話を中心に語ったものと、シェイクスピアの「ヘンリー四世」の戯曲をスコットの話で(現在風に?)アップデートしたものと。(ヘンリー四世のあらすじ等はWikiで確認ください

しかしヴァン・サントはWilliam S. Burroughsという映像作家の”Cut up"という手法を思い出し、二つの話をブレンドできるんじゃと気が付いた。要するにこの手法は、様々な話の断片アイデアを混ぜて、一緒に合わせて、それによってユニークな物語を形作るというもの。

二つのシナリオを一緒にするというアイデアはオーソン・ウェルズの「Chimes at Midnight(真夜中の鐘)」(邦題は「オーソン・ウェルズのフォルスタッフ」)を観たことによって閃いた。←この映画はヘンリー四世そのものを映画化した作品。

ヴァン・サントは、ヘンリー四世の物語はまさにストリートキッズの話に当てはめられそうだし、ハスラーたちに夢中になっているボブという太った男(ヴァン・サントの知り合いの実在する人物 ドラッグ・ディ―ラーだったとか)の知人がいて、彼はいつもフォルスタッフ(「ヘンリー四世」に出てくるボブ的な役割の人物)を思い起こさせた。それでハル王子がスコットに、マイクがその相棒にちょうどいいことにも気付いた。それで最終的な脚本がヘンリー四世の再構築という形になった。

マイクのナルコレプシーのアイデアは、映画の資料集めの案内役をしてくれていた人物から貰った。彼はいつも眠り込んでしまいそうだったから。←リバーもその人物には会っていたそう。ただ目の前で眠りに落ちる瞬間は見れなかった。しかし彼や周りの人からどういう感じなのかを聞いて役作りに活かしたらしい。

*IMDBのトリビアによると、ヴァン・サントは「City of Night」のコピーをリバーとキアヌに撮影前に渡した。キアヌは気に入ってJohn Rechyの他の作品を5つも読むに至ったが、リバーは最初の段落を読んだだけでやめてしまった。彼自身の生い立ちから役を引っ張って来れるだけのものを持っていたからだろう、と監督は後に語っている。

タイトルの由来

映画のタイトルは、監督が1980年代にオレゴンを訪れた際によく聴いた曲、 the B-52'sの「Private Idaho」から。

この曲が映画内で使われていたっけ?と調べたら、使われてはいないそう。エンドクレジットに彼らへの謝辞はある。タイトルに使わせてくれてありがとうってことでしょうか。

ちなみにリバーのバンドAleka’s Attic の「Too Many Colors」という曲が最初のカフェシーンで使われているそう。

カフェというより中華料理の店だと思ってたんだけど…。
観てみましたが後ろで微かに流れてるかな~程度でよくわからなかったです😅。

製作過程

物議を醸す内容に最初どこのスタジオも関心を示さなかった。監督の前作「ドラッグストア・カウボーイ」が評価され、少しずつ関心を示してくれるようになる。しかしどこも改訂を求めてくるので不満があったヴァン・サントは(低予算で作ることを考えて)実際のストリートキッズ、マイケル・パーカー(マイク役のモデルの子ね)やロドニー・ハーベイ(スコット役の予定だった)を使って予算を抑えようとした。

ロドニー・ハーベイ

少し話がズレますが、このロドニー・ハーベイRodney Harveyという人物。彼、MOPIではハスラー仲間の一人を演じている。スコットと一緒に熟女の家にいたり、スコットにブレスレットやカルバン・クラインのパンツを自慢する役をやっていた人物です。

彼はストリートキッズではなくて、モデルや俳優をしていた人物。当時リバーやキアヌと一緒に雑誌のグラビアを飾ったりもしている。その他にもブルース・ウェバー撮影のマドンナのグラビアに出てたり、カルバン・クラインの広告、リッキー・マーティンが所属したメヌードのMV、「ツインピークス」のゲスト出演、B級っぽいけど主演映画もYoutubeに上がってる。それなりにキャリアのあった人物。実際顔もスゴクいい。

しかしMOPIの製作時にヘロインを覚え(リバーもその時に覚えたという話)、その後ジャンキーとなり、1998年、30歳の時に過剰摂取で死亡しています。私が何よりショックだったのはこの動画。当時薬物中毒啓発CMかで使われたものだとか。その変わりように愕然とし、悲しい気持ちで苦しくなります。


話を戻して、

ヴァン・サントは結局主役二人にちゃんとした俳優を使うことにする。誰かいい俳優がいないか仲間に訊いたらこの二人の名前が挙がったとか。
ダメ元でリバーとキアヌのエージェントに脚本を送ることに。
するとリバーの方はエージェントの段階で拒否。キアヌの方は意外に乗り気になった。
そこでヴァン・サントはキアヌに直接リバーに脚本を届けてくれないかと提案。キアヌとリバーは「殺したいほどアイ・ラブ・ユー」で共演しており、弟のホアキンや元彼女のマーサ・プリンプトンとも共演経験ありの顔なじみだったから。

キアヌはクリスマス休暇にカナダの実家からノートン・コマンドというバイクに乗り、リバーの住むフロリダ、ゲインズヴィルまで脚本を届けた。(映画の中のバイクもキアヌのノートン・コマンドだそう)
脚本を読んだリバーは”スコット役”をやることに同意したが、それは既にキアヌに決定済み。よってヴァン・サントはよりエッジーな役であるマイクを演じてくれるように説得。絶対に恥ずかしいことはさせないと言って。

当初約二億円の出資者がいたが、リバーの前作「Dogfight」とキアヌの前作「ハートブルー」の撮影が長引き9カ月撮影が延期になった。その間に出資者もお金も消えてしまった。それで新たな出資者を探した結果、ニューラインシネマが興味を持ち、2.5億円の予算を出してくれることに。

キーファー・サザーランドにもオファーが行っていたらしい。しかしスキーに行きたかったので断ったと。後年それを後悔していたらしい。

あの道はどこ?

撮影時期は1990年の11月~12月
ロケ地はオレゴン州ポートランド、ワシントン州シアトル、イタリアのローマなど。

映画の最初と最後にマイクが立ってる周りに何もない道は、Maupinという町の近くにあるOregon Route 216の路上で撮られた。
↓下の拡大部分の赤い線がOregon Route 216の一部で、たぶんこの辺りと推測。(リバーが生まれたマドラスという町もこの近くで15マイルほど離れた場所)

あの路上、アイダホに近いのかと思いきや案外遠かった😅
オレゴンの州都ポートランドの方が断然近い位置。
母親が働いていたホテルはSnake Riverというところ。周辺を探したら右下の辺り、
ちょうど州境を越えた辺りにそれらしき川とリゾートっぽいところがありました。

ストリートビューとの比較。右奥にある Mt.Hood フッド山がほぼ同じ位置にありますね。

アングルが結構上から。この当時ドローンは無いだろうから
高所作業車?ロケバスの上とかから撮ってるのかな?

兄/父リチャードが住んでいた場所はわからないけど、舞台はほぼオレゴンでアイダホなんてあまり関係ないっていうね…33年目にして知った真実😅。

マイクの夢に出てくるHome、故郷の象徴=”アイダホ”ということで、別にコレという特定の場所である必要はないという感じ?オレゴン・ルート216の路上で”心象風景のアイダホ”によく似た風景を見るだけでデジャブ感に襲われたり、どの道も知ってると感じたりしていたのかなと。

そしてその路上を見てFucked Up Face(無茶苦茶な顔、おかしな顔)に見えるというのも、そこに完全に狂っていたマイク自身のDysfunctional family 機能不全家族=Homeの幻影を見ていたからではないでしょうか?

タイムラプス

このヴァン・サントのインタビュー動画でタイムラプスについて語っている。
元になってるのが1976年の映画「Heart of Glass」(ともう一つはPBSというテレビ番組?)。監督の前作でも既に使用しており、とにかく現場に行ったら使用目的は決まってないけど(どこかで使えるだろうと)タイムラプスカメラを回していたらしい。(当時はまだフィルム撮影だったから)プロデューサーに予算がいくらあっても足りないと言われて撮る量を減らしたと。

wikiによると、最初マイクが眠りに落ちると画面を真っ暗にするつもりだった。しかしイマイチしっくり来てなかったので、このタイムラプスを使うことにした。
このタイムラプス部分が何を表しているかというと、”Dream Sequence” 二つの場所の(移動の)間で見る夢のシークエンス。"An altered sense of time" マイクが(夢の中で)見ている別次元の時間の(流れる)感覚…と言った感じ?

マイクというキャラの夢見ている間の心の内側、心象風景が現実世界と違う速さで進んでいるというメリハリをつけることによって、より二つの世界の対比を強調し、夢の世界の非現実感を増すことに成功している。


コントラスト

映画にはいくつかの対比構造があるように思います。
このコントラストによって、お互いを強調する効果がある訳です。

格差社会

まずレビュー記事で指摘されていた格差社会について。
映画の舞台になる時代は、ポスト・レーガン&父ブッシュの共和党政権が続いた時代。アメリカ国内で貧富の差が拡大した時代なんだそう。

主人公は、社会の底辺で生きるマイクと市長の息子のスコット。二人の育ちも対照的。
マイクは機能不全家族どころかインセスト(近親相姦)によって家族から引き離され崩壊した家庭出身。
スコットはお手伝いさんがいるほどの良家の出。何不自由ない暮らしをしてきた人物。

そしてハスラー(男娼)になったのも、マイクは手段がそれしかなかったから。スコットは完全なる自由意志によって。全く対照的。

物語構造の対比

この映画、作品背景の所でも書きましたが、スコットを中心とした「ヘンリー四世」をベースにしたパートと、マイクを中心とした「City of Night」やヴァン・サントが書いたいくつかのハスラー、ストリートキッズの物語のパートの二つの軸があります。

この二軸がまさに対照的。

ここでスコットの話、「ヘンリー四世」の話を考えていた時に、ちょうどやっていたEテレ「100分de名著」の内容がピッタリ当て嵌まるなと気が付きました。

今月の課題書籍はジョーゼフ・キャンベル「千の顔をもつ英雄」(1949)でした。
世界中の神話を調査・研究し、その中に、どの神話にも共通する構造があることを明らかにした神話学の名著。

スターウォーズやディズニーアニメ、多くの英雄譚などにも形を変えて採用されてきたある意味人類普遍の成長物語の原型
「ロード・オブ・ザ・リング」なんかもそうですね。

簡潔に説明してくれている文があったので抜粋。↓

キャンベルは、世界中の神話には、「出立→イニシエーション→帰還」という共通構造が見出されるといいます。主人公の英雄は、何者かの召命を受け、異世界への冒険の旅へと旅立ちます。異世界で、英雄はさまざまな試練に直面しながらも、それらを乗り越え、大いなる秘宝や自分にとってかけがえのないパートナーを得ます。最後に英雄は、自らが得たものを携え、さまざまな障害を振り払いながら現実世界に帰還。その世界に豊かな実りや変化をもたらすのです。こうした「行きて帰りし物語」は、神話に共通している構造というだけではありません。私たち人間が人生において精神的な成長を遂げるとき、ほぼ同じプロセスを経ます。いわば、その成長段階を確認したり、活性化したりするために、人類は「神話の知恵」を利用してきたというのです。

100分de名著のサイトより

シェイクスピアの「ヘンリー四世」もこの神話の基本構造に倣って書かれたものだと想像します。ヘンリー四世の息子である王子ハルが外の世界でフォルスタッフという男に出会い、成長して王家に戻りヘンリー五世になるわけですから。

スコットは女は連れ帰ったけど大いなる秘宝なんて持って帰ったかな?と一瞬思いますが、彼がハスラーとして過ごしたことで現代社会の闇&病みを知ったわけです(オマケでイタリアに海外視察もw)。それにより社会の底辺のことを知らずに市長をやって来た自身の父親と比較した場合、彼の方がより視野の広い施政者になれる可能性が高いとも考えられるわけです。

最後にマイクやボブを切り捨て、一見底辺にいる人達を救う気がないような描写ではありました。しかし彼がするべきことはかつての仲間に一時しのぎの救済ではなく、ホームレスやハスラーがいない街=底辺の人たちが存在しなくて済む社会をつくること。だから敢えて関係を切った。いつまでもタカられても困る上、偏見の強い上流社会に入れて貰えないとその大義が果たせなくなるからという苦渋の決断でもある。

では一方のマイクの方はというと、
こちらには成長物語構造は特になかった気がします。
何一つ改善した部分がなかった。ハスラーから抜け出せるでもなく、ナルコレプシーが治るでもなく、母親が見つかるでもなく、映画の初めの場面に最後にまた戻ってしまう。ある意味ループ構造になっていた。
(スコットの方は、番組解説の比喩を借りると、同じようなことを繰り返しているように見えても、それは成長して上昇していく螺旋構造

あと成長の旅に出た英雄は、発見した世界が居心地が良すぎ、元の世界に帰りたくなくなるというパターンも神話の基本構造によくあるらしい。浦島太郎的な感じ。スコットもハスラー仲間たちとの自由で縛られない世界を楽しみ、ボブという実父以上に議論を重ねたりできる存在も出来た。最後の葬儀の場面での彼の厳しい顔にはやはり未練が滲んでいたのだと思います。

スターウォーズしかり、神話の基本構造には親(父親)を乗り越えるという試練がある。スコットも市長の実父とボブという心の父の二人を乗り越えていく必要があったということ。それによって成長が完成する。

一方のマイクは、乗り越えるべき父親と向き合うも、父親自身も悲惨な機能不全家族の犠牲者だった。原因である母親にも会えない。何も乗り越えられない状態。苦悩をぶつけることさえ許されない。

これは後ほど詳細に書きますが、二人のラストも実は対照的だった。
スコットは父親と別れ。マイクは父親と繋がる。

現実的と非現実的

この動画は映画でカットされたシーン。

スコットとボブがまさに「ヘンリー四世」をなぞらうように議論を交わすシーン。結構長いのでガッツリとカットされてしまったことが伺えます。
(二人が立場を入れ替えて会話をする←立場や視点の逆転という結構重要なパートだと思う)

この動画を観ていて気付いたのは、物凄く二人の会話が演劇的だということ。
(キアヌがアクション俳優で演技力はイマイチと思っている層に、ホラ、これは彼が舞台も十分出来る俳優である証明だ!と誇らしげに語るファンコメントも散見。確かに若いうちから演劇の基礎がこんなにしっかりしていたんだなと意外な面が見れた気がした)

最初は「ヘンリー四世」の戯曲のセリフそのまま使うアイデアがあったらしい(古典英語?日本で言えば時代劇言葉的な)。なのでこの動画内のセリフも「ヘンリー四世」から引用したセリフなんだと思われます。←聞いててもあまり理解できなかったし。現代風の砕けた表現ではなく割と固い表現なのかも?

この舞台演劇的な話し方というのは、ある意味大袈裟だったり、昔の言葉、言い回しを使ったり、身振り手振りが大きかったり、実際にそんな話し方してる奴、現実にはいね~よって感じの非現実的な話し方だと思われます。

一方のマイクを取り巻くパート、こちらはまるでドキュメンタリー。ハスラー仲間のインタビューが挿入される部分は、まるでリアリティショーの出演者が話しているパートのよう。コチラはまさに今現実を生きる人間の生の声、話し方の再現。非常に現実的、リアリティあるセリフな訳です。

このセリフ部分現実と非現実の対比がまず一つ。

次にスコットとマイクが生きてる世界の表現方法で逆転現象が起きてるのですが、そこでの現実と非現実の対比がもう一つ。

マイクは厳しい現実の下で生きてはいるのですが、寝てばかりでタイムラプスなどの夢のようなシーンも多用され、時間感覚もあやふや。非常に現実離れしている。最後にはループで戻る構造からすべては夢だったかのような感覚もある。親子関係もまさかっ!!という非現実さ、ナルコレプシーで路上に寝てばかりでどうやってサバイブできているのかも謎過ぎる。マイク=非現実世界の住人代表だと言える。

一方のスコットは特段夢の世界に生きているという感じではない。モラトリアムなハスラー生活はある種、夢のような時間だったかもしれないが、最後には超現実的な社会(=社会の歯車になること)に戻ってきた。
スコット=現実世界の住人代表…と言うことです。

現実主義者になったスコットと、永遠に夢見る状態にあるマイクの対比。
スコットのキスで眠り姫のマイクが目覚める…なんて展開だとこれまた面白かったのにw。

セクシュアリティの対比

マイクとスコット、共にハスラーでゲイ行為はしていますが、スコットは金の為にしているだけのGay for Pay。性自認は男だし、性的指向もストレート。たぶんセックス時のポジションもTop タチ一辺倒じゃないかと想像。
(後に出てくる動画内で”男とセックスできる時点でバイ”という意見をリバーとハスラー少年達が議論している。私は同性のことを多少好きな感情が無い場合、いくら体が反応してセックスが成立しても違うかな?という気がします。男だろうが女だろうが他人から触られることで興奮するという方もいらっしゃるのでね(;^ω^))

一方のマイクは、一応ゲイ
なぜ一応かというと、私はこの意見に疑問があるから(理由は後ほど)。しかし一般的にはマイクのキャラはゲイとして認知&浸透しています。

二人の関係において、好意を持ってる人物(マイク)と持ってない人物(スコット)というのも、ある意味対照的だった。

あと前にも↓この記事で書きましたが、

ゲイムービーでよく見かける容姿の対比、金髪&黒髪のコントラストの定番もガッツリ押さえている。
更にはDumb blondeダム・ブロンド 頭の弱い金髪のイメージをマイクに投影している。実際に頭悪いかはさておき、碌な教育も受けていない、ナルコレプシーで寝てばかり、理路整然と会話をしてる場面もほぼ無い、とにかく頭がいいという印象は与えられていない。

一方のスコットは家柄からちゃんとした教育を受けただろうし、ボブに対抗できる議論が出来たり、ボブの計画を邪魔してお金を奪ったり、賢くて面倒見のいいイメージ。マイクとはこれまた対照的。

色々な場面に多くの対比、コントラスト構造がある映画だということがよくわかります。


最後の車

今回、33年ぶりにちゃんとこの映画を観て、色々調べている中で一番驚いたのは、最後マイクを乗せて去っていったドライバーが誰なのか問題が解決していたと言うことでした。

レビュー記事をいくつか読んでいる中で、アレはマイクの兄リチャードだという記述を見つけ、「エッ?ホント!?どうしてそんなことがわかるの?」と驚いた。

そして映画を観直し、リチャードの家の前に停まっていた車(赤い車体の後ろがかすかに映るだけ)とマイクを拾う車を見比べてみたほど。←見比べても全く確証は持てない。拾ってる人物の服装もリチャードっぽいけど何とも言えない。

しかし探してみるとあるもので、その人物がマイクを拾った後のカットされたシーンの動画がありました。

これは一目瞭然。清々しいほど兄リチャードでした。
そして本編では「Have a nice day」と文字が映し出された代わりに、空にスマイルマーク🙂が浮かび上がる。

いやぁ~、これがわかるのとわからないのとでは映画の印象が全く異なってくる。

33年前の私は、ず~っと不憫なマイクが最後の最後に至っても寝てる間に荷物も靴も奪われ、その後に誰かに助けられるという展開は想像できず(それも結構碌でなし感の強かった兄リチャードが助けに来るなんて全く思わなかった。だってあんな荒野にそんな都合よくどうして現れるのさ!)、絶対悪い男に拾われたんだと思っていた。若くて美形のマイク、拾った変態に監禁され性奴隷とか、悪い奴らに人身売買される…という胸糞悪い未来を想像していました。だから鑑賞後は陰鬱な気分で、なんて救われない映画なんだろうと悲しい気持ちで自転車漕いで帰った。「Have a nice day」?何言ってんだ?ナイスな日になんてなるわけないだろ!ふざけるな!って思いながらペダルを踏んだ夜😅。

ここまではっきりとリチャードの顔を出してくれなくてもいいけど、もう少し匂わせる程度、もう少し明るい未来、救いのある結末だと分かる作りにしてくれていたら、33年前の私もあそこまで陰鬱な気分にならなかったのにな~。

「捨てる神あれば拾う神あり」という明確なハッピーエンドにはしたくなかった、悲惨なルートもあり得る=色んな解釈ができる=重層的で深い作品…ってことにしたかったんですかね?ケッ、高尚ぶってスカしてんじゃね~よ!!←33年間嫌な気持ちにさせられてきたことへの八つ当たりですw。

1997年、監督のヴァン・サントは自分の小説「PINK」の読書会でこう言ってる。
最後にマイクを拾ったのは誰かと訊かれて、
「観客が自身を映画の中に投影し、自分で誰なのかを決めてくれることを願っています」
質問者「OK、では、あなたのバージョンでは誰だったんですか?」
ヴァン・サント「私のバージョンでは…僕が彼を拾ったんだよ
←クゥ~やっぱりスカしてやがるぜwww。


セクシュアリティ

マイクのセクシュアリティ

前章でマイクは一応ゲイと書きました。そういう認識で受けいられているからと。

しかし本当にゲイだと思いますか?私は疑問なんです。
この映画のハイライトだといわれるのがマイクとスコットの焚き火🔥シーンです。

ここでスコットに「I love you」「I really wanna kiss you, man」とマイクが言う。「好きだ。キスしたい」と。だからゲイなんだという認識になってる。

しかしマイクの育成環境を考えると、機能不全家族でどう考えても親、家族からのUnconditional Love無償の愛を受けたことがない人物だと分かります。挿し込まれる回想シーンでも家族から引き離されるような描写があったはず。だからこそスコットにお金=見返りがなくても愛せる、愛したいと言ってると思うんです。彼が最も恋焦がれ憧れているのが無償の愛で愛されることだから。

ここで、そんなマイクにとって性別は重要なのか?と思うのです。
一番近い所、一番マイクの面倒を見てくれ、一番マイクに無償の愛をくれそうな人物がたまたまスコットだっただけのように見えて仕方ない。

スコットのような普通の育てられ方した人間=家父長制をベースにしたヘテロセクシャルが当たり前というバイアスを植え付けられてる=ゲイに対して嫌悪感が生まれている…わけですけど、マイクはある意味そういう社会通念さえも与えて貰えなかった人間。←母親がしたことを考えたら家族にそういう枠を強制する、植え付ける環境自体無かったことは明らか。
そこにハスラーなので男同士のセックスについては必然的に慣らされている。それが、それだけが愛の表現(愛する人をつなぎとめる方法)なんだと思っていてもおかしくない。他の愛の表現を知らないのだから。

まともな段階を踏める人間というのがどれほどいるかはわかりませんが、明らかにマイクは自分のセクシュアリティをしっかり見つめて探求する余裕などなく、心の求めるものと体の求めるもの、そこに金が介在して捻じ曲げられ、色んな感情が歪められている状態だと思うわけです。

だから彼のセクシュアリティを考察するなら、LGBTQQクエスチョニングなのではないかと。混乱している、未だわからずにいる未分化の状態。発展途上。ただ目の前の人に好意を抱いているのはわかる状態。鳥の雛が最初に見たものを信頼するかの如く初めて優しくしてくれたスコットに愛着が湧いている。それを維持したい、それだけのような気がしてならない。

勿論ゲイである可能性も十分ある。色んな男とセックスを経験してきた上で、スコットにはそれとは違う特別の感覚、突き上げる性的リビドーを感じていたのかもしれない。でもそれならもっと彼と密着する時にドキドキしてるとか、バイクで二人乗りする時にここぞとばかりにギュッとしがみつくとか、匂い嗅ぐとか(笑)、そういう体が反応してしまうような欲望を示していると思うんですよね(「Summer of 85」の主人公アレックスがバイクで好きなダビドにしがみついていた時のように)。しかしマイクにはそういうのは一切ないように見える。スコットに嫌がられないように自制していたのかもしれないけども。

イタリアで、自分の寝てる上の段でスコットがセックスしまくるのを聞かされるマイク。マイクは不快な顔をするけど部屋を出ていくほどではなかった。さらには恋に悩むカルミラに寄り添い話を聞いてあげる。マイクはネガテイブな感情、怒りや嫉妬の無い天使のような人物!!…と一見見えなくもない。しかし私はマイクはそういう感情をモヤ~っと持ってるかもしれないけれども、それを上手く形に出来ない+表に出してどう表現したらいいか分からない人物なのではないかと思うのです。

奪われて怒るや嫉妬するという感情は、そもそも持っていたり、自分のものになる可能性があると思ってるから起こる感情だと思うわけです。しかしマイクは何も持たされなかったし、持ってないし、今後持てるとも思ってない。

ナルコレプシーによって、起きて正気でいる時間をコントロールする権利さえ持たされていない。その圧倒的な絶望感の中で、通常あると思われる感情の欠落がいくつも起っていてもなんらおかしくないわけです。

リバーのセクシュアリティ

前記事でリバーの育成環境(セックスカルト&ヒッピー両親)、その後のドラッグへの傾倒などを知っていくにつれ、彼のセクシュアリティは実際のところどうだったんだろう?本当に交際履歴通りにストレートだったのだろうか?…とはずっと考えていました。

上掲したマイク・パーカーがサムネの動画。あの動画は主にクィアのリバーファン達が、彼がMOPIでどれほど彼らに影響、インパクトを与えたかということを語っている内容。

そこでリバーの言葉も紹介されている。
「他人のセクシュアリティに倫理的に意見するというのは奇妙に感じるんだ。まるで自分たちの家をどのように掃除するか他人に話しているのと同じような感じだよ」
←他人がどうこう言う問題じゃないと。

「(MOPIの公開を受けて)これらのクィアの問題が普通のことと捉えられるようになるまでには、もうちょっとこういう映画が作られないといけないだろうね。そしてそれが問題でさえないようになった日、それが僕が望んでいることだよ」

まだエイズ禍真っ只中のあの時代に、ここまで偏見なく理解を示していたことはちょっと別次元かもしれません。それもまだ20歳くらいの頃ですし。勿論親の思想の影響もあったかもしれないけど、リップサービス的に良い子ちゃんを演じての発言とはちょっと違う、自分で考えて発している言葉な印象は受けます。この時期のアメリカの男性俳優がこのような発言をしていたのはLGBTQコミュニティには大きな意義があっただろうと想像します。女優や女性シンガーからのサポートは当時でも割とあったけど、男性と言うのは珍しかった。

80年代「モーリス」「アナザーカントリ―」「マイ・ビューティフル・ランドレット」辺りのブームはイギリス発だったし、今でこそ大御所のヒュー・グラントもダニエル・デイ・ルイスも当時はほぼ無名だった。
一方のアメリカはよりマッチョイズムが強く(=ホモフォビアも強い)若手の有名俳優がゲイやクィアの役をやるにはハードルが高い環境だった気がします。(イギリス俳優はロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどの舞台からのたたき上げが多いけど、アメリカ俳優は容姿重視で注目されてデビュー…みたいのも多かったですしね。古典劇とかやってる俳優は人間性の追求みたいな姿勢を養われてクィア文化なんかにも寛容なスタンスをとってる気がします)
そこでMOPIが評価されたことで、それが分水嶺となってハリウッドに変化を起こした感覚はある。MOPIがNew Queer Cinemaと言われた最初の作品だったはずですし。その後、ディカプリオの「太陽と月に背いて」や、リバーも出演予定だった「インタビュー・ウィズ・バンパイア」など、一気に人気俳優もクィア作品に出演するのを目にすることが多くなった。彼らにしたら自分たちの演技の幅やクィアに理解ある寛容な人物アピールできるチャンスとしてのPR戦略の可能性もあったかもだけど、明らかにハリウッドにおけるクィア映画の捉えられ方が変わった気がします。

ここで突然ですが、リバーの彼女遍歴。
公式に付き合ったとされている人達。
マーサ・プリンプトンMartha Plimpton (1986 -1989)
スザンヌ・ソルゴットSuzanne Solgot (1989 -1993)
サマンサ・マシスSamantha Mathis (1992 -1993)
(ソルゴットとマシスの重複期間は11月~1月ぐらいの模様)

マーリー・マトリンMarlee Matlin (1988)とも噂があった。←「コーダあいのうた」の母親役だった人物です。

一応親公認の第二の童貞を失った後は途切れることなく彼女がいたリバー。

この第二の童貞喪失も、リバーの希望で行われたという話もあれば、実は親主導で知り合いの女の子を連れてきて行われたという話もある。どこまで彼の意志が反映されていたのか不明。彼のセクシュアリティの確立に親の干渉があった可能性、歪められた可能性もあったかもしれない。

この記事に第二の童貞喪失の話がもう少し詳しくある。

第二の童貞を喪失したとき、フェニックスは聞いてくれる人には皆話していた。「あの夏、リバーが電話してきて童貞を失ったと言ってきたんだ。僕はまだ童貞だったんだけど…」と2016年にイーサン・ホークが言っている。ホークとフェニックスはよく同じ役を競った。そしてホークはフェニックスの才能を羨んでいた。だから自分のライバルが童貞を喪失したという切り札を先に出された(先に大人になった)と知って「僕にとっては悪夢のようだった」と。
映画「エクスプローラーズ」の監督ジョー・ダンテにリバーは手紙を書いた。それは文字通り大きな字で「まさに起ったんだ、ついにそれを経験したんだ」と。
母アーリンは「美しい体験だったわ」と後に言い、息子が男になったことをそう表現した。
フェニックスはその経験についてこう説明している。「とても奇妙な経験だった。ありがたいことになんとか乗り切ったよ」と。

う~ん、まあなんか喜んでそうですかね?(笑)
乗り切ったということは…勃たない可能性もあったということ?(爆)

その後も彼にはずっと彼女がいるし、リバーはストレートなんだろうなと思っていたのですが、↓の記事の一部に興味深い記述がありました。

マイケル・パーカーによると、フェニックスは”男の体に触ってみたいという男性の魅力”に関して興味を持っていた。前作の「Dogfight」の撮影時に別の男性俳優からオーラル・セックスを受けたという。なぜなら彼は次の映画で男性ハスラー役を演じることになっていたから、それを経験しておく必要があると言っていた。彼は何年にも渡って男性との短い関係は持っていたけど、それを知る友人たちにとれば大したことではなかった。フェニックスは単純に自分の葛藤を押し留めるようなことはしなかった。「もし彼が誰かを愛したなら、それが男だろうと女だろうと、彼はそれ(好きな気持ち)を確認するべきと感じていた」と長年の彼女だったスザンヌ・ソルゴットは言っている。”

この記述の信憑性がどれほどなのかはわかりません。しかし一応パーカーとソルゴットの名前が出ているので、全くのでっち上げではないかと。男性と短い関係を持っていたという部分はもうちょっと具体例が欲しい所ですが、男性にも普通に興味を持っていた、もしくは男性とのセックスがどういうものかに興味を持っていた印象は受けます。ハッキリしたセクシュアリティはわかりませんがゲイ・キュリアス状態にはあったのかなと。

よってこれらの断片を総合的に考えるなら、リバーはバイセクシュアル、もしくはパンセクシュアルだったような印象は受けます。

ただリバーのケースもMOPIのマイクのケースと同じでクエスチョニングの可能性も十分ある。幼少期からセックスカルトでまともなセクシュアリティ確立の段階を踏ませてもらえず混乱させられた。加えて思春期の第二の童貞喪失時にもヒッピー両親の干渉を受けて更に混乱させられた可能性もある。さらにハリウッドのティーンアイドルとして、ストレート以外は許されない圧も凄かったはず。

↓これはMOPIの撮影中か撮影前にハスラー少年達と共同生活していた時に撮られたフッテージ(記録映像)。リバーがハスラーたちに色々質問したり、自説を長々と話したりしている。下半身がタオル一枚と言うのが謎なんですが…何かの行為後なの!?w。

この中で、相手の兄がいる真横でセックスをし、妊娠させ、生まれた子供に”リバー”と名付けたというハスラーが出てくる。そんな彼に、僕も似たような経験があるというリバー。彼のセックスカルトでの経験を鑑みると、家族に見られながらのセックスを経験してる可能性は十分あったわけなので筋は通っている。
そしてハスラーたちのセクシュアリティがバイなのかどうかと言うことも彼らに意見を訊いて興味を持っている印象を受ける。そこに自分のバイセクシュアルの感覚と比較してみたい、もしくは肯定したい想いもあったのではないか?

この動画撮影の場にいて、リバーから質問されてるパーカーはこう言ってる。
「皆ある一定レベルの興味はあると思う。でもリバーの場合は真剣な興味だったと僕は感じた。それは彼がゲイだったからではなく、ただ理解したかったからだけかもしれないけど」と。

勿論役者としてメソッド演技、役になり切り、そこからキャラの感情を掘り下げ獲得しようというプロセスの一環でもあるとは思う。前の作品「Dogfight」で演じた嫌な海兵隊の役が撮影終了後ひと月ほど抜けきらなかったと言われている。それほど没入するタイプ。

しかし詩人ランボーの映画化に興味を持っていたという話や「インタビュー・ウィズ・バンパイア」への出演予定など、やはりもっとゲイやバイ、クィアというセクシュアリティを掘り下げたいという意志は感じます。それは彼自身のセクシュアリティの探求だったのでは?という気がするんですね。

結局色々試したけど女性が好きとなるかもしれない。だってまだ23歳だったわけですから。40,50歳になってようやく自分の性自認を受けいられるようになったり、性的指向がハッキリわかってくるなんてこともザラにあること。なので私の見解としてはこの段階のリバーは”クエスチョニング”というのが妥当ではないかなと。

ただ一つ気になるとするならば、彼はティーンアイドル、ハートスロブ(心を鷲掴みにするような人物)として見られることを嫌悪していたという。一連の薬物中毒と共に一種のセルフ・ディストラクション、自己破壊行為だったのではないかという可能性もある。自分のセクシュアリティなんかどうでもよく、自暴自棄的に同性愛行為に至ったり、同性愛という禁忌を演じてパブリック・イメージを壊したかったり、もう無茶苦茶にしたかった。それ(同性愛行為)が目的ではなく自己破壊の為の手段だったのでは?ということもあったのかもしれない。


魂のタキ火

「魂のタキ火」というのはBSでやっていた番組で、ゲスト3人がポツリポツリと焚き火の前で自分のことなんかを話す番組でした。

今回MOPI、そしてリバーの過去作「スタンド・バイ・ミー」を見なおして、リバー・フェニックスは焚き火の前で語らせる演技させたらピカ一、世界一の焚き火俳優だなと思った次第。

こちらが「スタンド・バイ・ミー」での焚き火演技←焚き火演技って…火の格好してユラユラ揺れてる訳ではないですよw。

先生にまんまと盗みの罪を被せられ、不良で碌な家の子でもない自分は誰も信じてくれないと泣くクリス。大人の汚さ、世間の偏見、冷たさ、少年の絶望を見事に演じている。

今回、彼の生い立ちを詳しく見てきて、この14歳のリバーにもある種の絶望があった気がします。彼はその感情を増幅させて演じたから真実味があったんだろうと。
子供の頃から親は働かず、自分が路上でパフォーマンスして家族を養うことになった。ハリウッドに来てからも同じ状況が続く。14歳の頭のいい少年、親のことを愛していてもさすがにこの人たちは碌でもないと薄々感じていたはず。大人に対する絶望感。(私も13歳の時に、自分の両親がイジメする側の人間なんだと確信したときに絶望しましたもん)
そして自分の下には4人も妹弟がいる。彼らを置いて一人だけ逃げ出せない状況。毒家庭から抜け出せない閉塞という絶望感。
そしてまともな教育も受けておらず、文学や歴史の知識も全く無かったと言われている。エンタメ業界と言えど白い目で見られることも多かったはず。特殊な生い立ちへの世間の偏見、差別も経験したかもしれない。

リバーはこの頃から自分の生い立ちを役に反映させるのが非常に上手かったということ。

そして彼が何を基準に作品選びをしていたのかはわかりませんが、「モスキート・コースト」ではハリソン・フォード演じるぶっ飛んだ発明家の父親に強引にアマゾンの集落に家族で移住させられる息子を演じた。まさにリバーの家族と同じ状況。
そして映画の中では、最初は父親を尊敬していた少年も徐々に父親に嫌気がさしていく。リバーも同じような心境があったのでは?と勘繰ってしまう。

オスカーにノミネートされた「旅立ちの時」でも親に振り回される青年を演じた。爆弾テロ犯だった両親は仲間の協力を得て素性を変えながら各地を転々と逃げ回り続けている。リバー演じる長男ダニーも毎回違う偽名を間違えないように叩きこまれ、過去の成績も紛失したことにされ、謎の転校生として目立たないように溶け込んでは消えるという生活を繰り返してきた。彼自身も面倒だとは思いつつも、もうそれが当たり前になっている。しかし彼に音楽の才能があることに気付いた教師からジュリアードに行くことを薦められ、自分の追いたい夢と愛する両親との生活を失うこととの葛藤に苦しむことになる。両親が、ダニーが出した決断とは?という内容。

この映画、リバーの演技も良いんだけど、私は母親役のクリスティーン・ラーティが父親と対峙する時の演技で泣けました!

この時のリバーが「Banana Fish」のアッシュっぽさを強く感じました。髪の描きあげ方や眼鏡かけてる姿とか。アッシュは最初テニスのエドバーグがモデルだったらしいけど、後半は明らかにリバーの影響を受けてましたから。吉田先生が来日時のレポートを描いたり、死亡時に追悼文を書いているぐらいですしね。アッシュファンで未視聴の方は是非!

この映画でも親の都合で各地を転々とし、自分の夢を追う選択肢さえ与えられなかったリバーとダニーの姿が重なる。親がいつも正しい、愛する家族が一緒にいるのが当然と言う価値観を植え付けられてそこに葛藤が生まれる。リバーも同じ想いを持っていたからこそオスカーノミニーなるほど評価された演技が出来たのではないだろうか?

そしてもう一度MOPIの焚き火シーンを見てみます。

このシーン、皆さんが絶賛しているのはマイクがスコットに愛の告白する部分だと、色々読んでいて感じます。皆さんそこを重点的に話題にしてる。

確かにその部分は二人の関係においては重要なパート。
しかしそこに至る導入部分がリバーにとっては非常に重要な気がしてならない。彼の魂の叫び、彼がこの作品を選んだ、そしてこの場面の脚本を自ら書き、ヴァン・サントにキアヌと自分に任せて欲しいと頼んだという理由はそこにあるのではないかと思うから。

その部分を書き出してみると…

”If I had a normal family and a good upbringing, then I would have been a well-adjusted person."
もし僕が普通の家族を持っていて、まともな環境で育っていたら、もっと社会に適応した人間だっただろうな。
"Well, you know, normal, like a mom and a dad and a dog and shit like that. Normal. Normal."
ウン、わかるかい?普通だよ。お母さんとお父さんと犬もいて、そんな感じのだよ、ノーマル、ノーマル。
"Didn't have a dog or a normal dad anyway"
どっちみち犬も普通のお父さんもいなかったけどね。
"That's alright. I dont feel sorry for myself. I mean, I feel like a, you know, well-adjusted."
でもイイんだ。自分がかわいそうなんて思ってないよ。言いたいのは…わかる?上手くやっていける気はしてるんだ。
Scott "What's a normal dad?"
スコット「どういうのが普通の父親なんだい?」
"I don't know." 
わからないよ

リバーの生い立ちと自身の境遇を反映させたかのような作品選び。さらには先ほどあったジョー・ダンテ監督に書いた手紙、MOPIではヴァン・サントと一緒に毎日の撮影分を確認したり(キアヌは全く興味なしだった)、ボブ役のWilliam Richertはリバーが関わった別作品の監督でリバーの推薦でMOPIに出演。後に二人で大豆コーヒーの店を出したりしている。そんな年上の男性に懐いている様子が窺い知れるエピソードがいくつもある。
それは、彼が信頼でき、尊敬でき、色々教えてくれる父性、そんな大人を求めていたからではないだろうか?実父のジョンは働かずアル中。彼に家族の重責を全て背負わせた。リバーが書いたという上述のセリフは、世間の常識=ノーマルではないアブノーマルな家庭で育ったことで、社会に適応することに苦労し続けた20年間の彼の想いが溢れ出た心の叫びだったのではないか?だからこそ自分でわざわざこの部分を書き、キアヌやヴァン・サントを説得してでも演じたかったのではないだろうか?

そう思い始めたら、もうなんだか物凄く切なくて、涙がでてくる😢。
33年前には全く見えていなかった景色。それが見れたのは今回深掘りしてみて一番良かった点です。

*****
ここからは焚き火シーン自体について色々。

wikiにはマイクというキャラ専用のページもある。

この中で映画評論家Roger Ebert が私と似たマイクのセクシュアリティに関する感想を抱いていました。

ロジャー・イーバートはマイクというキャラクターについてこう語る。
「彼は愛が欲しいんだ。愛と言ってもこの場合の愛は、誰かが彼のことを抱き締めてくれる、彼のことを気にかけてくれる、そういう愛。彼は子供としてとても深くダメージを与えられてしまった。それで今はシェルターのようなものを求めている。よって彼がそれを男性に求めようが女性に求めようが大した違いではない」

こちらが彼のレビュー全文。

マイク自身は圧倒的に悲惨な境遇なんだけど、どこか映画にコメディ風味があるとも思っていました。それに対するイーバートのレビューのこの部分が腑に落ちる答えかなと。

「要するにヴァン・サントはこの映画によってヒューマン・コメディを作りたかったのだろう。物語の所々では悲しく寂しいかもしれないが、全ての経験は潜在的にバカげているんだということに光を当てたかったのかもしれない」

こちらの記事ではヴァン・サントにインタビューして訊いたマイクのセクシュアリティについての部分がありました。

「マイクというキャラは元々はある種のアセクシュアル(無性愛)だったんだ。セックスは彼にとっては何かしらトレードするもの。だから彼は本当のセクシュアル・アイデンティティを持っていなかった。しかし彼は砂漠にいて、退屈で、ちょっと友達にちょっかいを出してみた。なんとなくそういう流れだった。しかし彼の友人(スコット)は彼が何かを必要としているとその時気付いた。彼には親密さが必要なんだと。それで彼は言った「僕たちは友達なんだよ」と。そしてマイクをハグした。本当はこういう感じになるはずだったんだ。
しかしリバーはマイクをもっとスコットに惹かれている、本当に恋に落ちているという風にしたんだ。彼がそのキャラ全体をそういうふうにね」

この説明を聞いて少し納得。この焚き火シーン(アメリカでの撮影の一番最後だと言われている)までは監督の中ではアセクシュアルな人物としてマイクが描かれていたわけです。だから私が感じたように特にスコットに愛情、劣情等を示す描写が無かった。しかしリバーがココでマイクはゲイでスコットを「愛している」というコンセプトをぶち込んできた。だから少し他のシーンとの齟齬が生まれてしまった訳ですね。告白シーン自体は素敵だし、リバーの演技もイイと思う。でも映画全体で見るとやはりちょっと浮いているというか、ちゃんとしたBuild Up その恋情の発露に至る積み重ねがないから唐突な印象は否めない気がするんです。

この記事かなり深い洞察があって良記事。ひとつ、それは考えなかったと思った視点がありました。焚き火での告白→リチャードの家→ハンスと3P→ローマと移動。ローマでスコットはカルミラと恋に落ちセックスしまくる。この時のスコットがa homophobic panicだったと書いている。同性愛嫌悪パニック状態。

確かに言われてみればそうかも?”男同士はセックスしない”と言っていたスコット。しかしマイクから愛の告白をされ、意識しないわけがないところで3Pして、「アレ?俺まんざらでもない…のか?」となったってことでしょうか?自身のセクシュアリティが揺らいだことへのパニック。
それで「いやいや、俺はストレートなんだ。女とだってこんなにやりまくれるんだぞ!」というのを自分に言い聞かせたいがためにああいう行動をとり、これ以上親密になってはヤバいと言うことでマイクを置き去りにしたと。そういう解釈も有り得る。そしてそうなると葬式シーンでのスコットが視線を送っていた意味も、自由な生活、昔の仲間たちへの想いと共に、バイセクシュアルへの可能性の扉を閉めた自分…なんていう後悔も胸中で去来していたのかも?

この動画ではヴァン・サントが、マイクというキャラがゲイになった過程を語っていて、リバーの頭にアイデアが突然湧いたのではないことがわかります。

このインタビューによると、マイクは元々はゲイではなく、Gay for Pay のストレートだった。そこに監督も違和感は感じてなかった。ストレートがゲイ行為をしているだけだと。しかしこの作品の前にリバーが出演した映画「Dogfight」、そこで共演し、リバーの友人でもあったMatthew Ebertがこの映画にも出演し(ハスラーの一人役。彼自身も元ハスラーという経歴らしい)、アシスタント的なこともしていた。彼がリバーに「このキャラはゲイでないと!You have to be Gay 約束してくれ」とリクエストした。それでリバーが(ヴァン・サントも)説得されて、ゲイのハスラーがいてもおかしくないね…ということで誕生したと言うことです。

前掲したリバーがハスラーたちにインタビューする動画でもマイク・パーカーはバイだと言っていたし(居心地悪そうだったけど)、あのカメラを回していたのがイバートだというコメントもあった。そういうディスカッションを経て、ハスラー皆がGay for Pay ストレートではないという意識を共有していた。
それとイバートはリバーの何かを感じ取っていた可能性もあるのかも?「Dogfight」の競演俳優からフェラを受けたという真偽不明な話もあった。それがイバートだった可能性は?元ハスラーなら頼みやすそうだし…。リバーの中にあるゲイ的な部分を感じ取ったからこそ、マイクがゲイであるべきだとリクエストした…リバーがより自身の内面と向き合うことができるように。…っていうのは考え過ぎでしょうか?

ちなみにイバートがどの人物か画像検索して確認してみました。
ゲイマガジンのシーンの上段中心の人物な模様。

パーカーやロドニー・ハーベイもいます。
よく見るとジェフ・ストライカーもいるしw
このシーンはCGではなくアクリル板に文字を貼った後ろで演技してるんだそう。

↓焚き火シーンについて語っている二人のインタビュー。最後がちょっとカワイイ。

キアヌ: シェイクスピアのパートは脚本上のある一面だね。ガス(監督)はそれは取り組むべきものであり、よく考えて欲しいと言ったんだ。そう、あれは僕がメインのパートだったね。でも心配はしてなかった。チャレンジだったし興味深かったからね。

リバー:僕は(シェイクスピアのパートが)映画に上手くハマらないんじゃないかと思っていたよ。

キアヌ: 僕が?

リバー:イヤ、映画全体にさ。とてもハッキリさせる必要があると感じていたんだよ、シェイクスピアを真似たシーンとドキュメンタリー風のシーンとの間をどのように移行するかをね。それらのシーンに向かって敷石のように導くものが必要だったんだ。黒白から急にカラーになるようなものじゃなくてね。僕たちの考えを整理することとガスのスタイルを維持することが重要だったんだ。

キアヌ: 僕は最初、映画の中で起っている全てのスタイル(表現方法)の違いには気が付いていなかったんだ。君は僕以上に沢山カメラを通して見ていたよね。

リバー:あのキャンプファイヤーのシーンは、まさにキアヌと僕がセットの外で一緒に作り上げたコンビネーションの賜物だったね。即興でバカなことをしたり、キャラについて話し合ったりした結果のね。キャラにより深く入り込むことで、映画の中の僕らの関係について多くを発見したんだ。そしてアメリカで最後のシーン(焚き火シーン)を撮影する頃には、脚本が示す以上に物凄く深くキャラへの洞察を持てるようになっていたんだよ。

インタビュアー:それはマイクがスコットに愛していると告げるシーンですか?

リバー:(あの映画の中では)もっと深い愛があったんだ。それが画面で表現できているかはその日撮影した分を見るまではわからないんだ。だけど僕らはシークエンス、場面の順番通りに撮影したから、僕らは目の前でどういう風になっているかすぐさま見ることが出来たし、あのシーンをやる頃には、僕らはまるでアドリブのように演じることが出来たんだよ。

インタビュアー:キャンプファイヤーのシーンはスタンド・バイ・ミーの焚き火シーンととても似てますよね。

リバー:あの告白するシーンだよね。「旅立ちの時」の告白シーンとも似てるんだよ。ガスは両作品を観ていたから、たぶん参考にしたんじゃないかな?

インタビュアー:シェイクスピアをもっとやりたい?

キアヌ: う~ん、どうだろう?僕は是非リバーとシェイクスピアをやりたいね。盛り上がるんじゃない?「真夏の夜の夢」とか「ロミオとジュリエット」とか。

リバー:じゃあ僕がジュリエットだな。


ナルコレプシー・トリガーの考察

33年ぶりに観て、気になって見直したけどよりわからなくなった部分があります。

それはナルコレプシーの睡眠に至るトリガーについて。

33年前はナルコレプシーなんてもの自体よくわかってなかったし(映画内でスコットが説明しているけど)、眠るにしても発作みたいになるので、大丈夫なの?という不安の方が先立ち、そこに至るトリガーがあるなんて考える余裕もなかった。

しかし今回よ~く見ていると、ちょっと法則らしきものがあることに気が付いた。それは「母親」

冒頭、平原の一本道のシーン。一人路上で眠りに落ちる際も母親の膝で抱かれるイメージのフラッシュバック(もしくは想像←幼少期に(近親相姦による幼児虐待で引き離されてる可能性があるので大人マイクを抱いて「Don't worry. Everything is gonna be alright.」なんて言ってるのは不自然なので)が出てくる。

次にシアトルの街。横断歩道で母親と似た女性を見かけて、これまた母親のフラッシュバックが起り眠りそうになる。一応ここは何とか耐える。←耐えれるような病気じゃないんじゃなかった?というツッコミ入れたかったけど(苦笑)。

3回目はリッチな熟女に拾われてお仕事に行った時。この時も母親と幼少期に過ごしたホームビデオ映像のようなものが挿し込まれる。熟女が母親を想起させたことがトリガーだったと思われる。

4回目は翌朝、ハンスのオファーを拒否して住宅地を歩いている時にフラッシュバックが起こる。周りの住宅が幼少期に過ごした家を連想させ、そこから家の前で踊る母親の映像が挿入されて眠ってしまう。

次は審議を要する所なのですが、焚き火での告白を経て、スコットの腕の中で眠ったマイク。翌朝スコットがバイクのエンジンをかけてる近くの路上で目を覚ます。ここは普通の睡眠だった可能性もあり。しかしスコットからの包み込むような愛(=母性に似ている)を受けたことで、実は少しナルコレプシー的要素もあったのかも?と言う気がしないでもない。目覚める前に、毎度ナルコレプシー時に挿入されるタイムラプス映像が一応挿入されていたので。

そこから警察がやってくる。スコットが一人逃げたマイクを探しに行くと平原でうつむきで寝ていた。ここは寝る瞬間の描写がないので不明。母親のことを思い出したとも考えにくい状況。何がトリガーだったのか?単純に捕まるというストレスだけで引き起こされた可能性が高い気がする。

兄リチャードの家では今ひとつ整合性が取れていない。
最初は母親の写真を見せられた直後にスッ~とイビキをかいて寝始める。(トリガー=母親
次にリチャードから暴力を振るわれ、痙攣をおこすように強制シャットダウン睡眠。(トリガー=ストレス
しかしその後に目覚め、母親についての話を聞かされ、途中途中でフラッシュバック映像も挿入され、最後には「父親はお前だ」と激高してリチャードを責めるマイク。「母親」と「ストレス」のダブルトリガーの場面だろうに、なぜか睡眠は起こらない。←映画の流れがぶった切られるから敢えてここはスキップしたのか?

生育環境が故にマイクは感情に乏しい人間だと思っていましたが、ナルコレプシーに陥らないために、敢えて感情をフラットに保つ、無の状態を心がけていた…敢えて感情を抑えた人間だったのかも?…ということも考えたり。

そしてローマへ。マイクが目覚めたのはポポロ広場にあるオベリスクのところ(←ちゃんと場所を調べましたよw)。ここではタイムラプス映像も無いので普通の睡眠でしょうか?

カルミラの家では発作は起こらず
ここでは映画全編を通して最長のフラッシュバック(幼少期のホームビデオっぽい映像)が流れる。しかしこれだけ母親トリガーがあるにも拘わらず、スコットの肩でむせび泣くだけでナルコレプシーは起こらない。
もう一つ、スコットがベッドの上段でセックスしまくるのを聞かされるという最大限のストレス・トリガーも与えられる。しかし発作になりそうな仕草を一瞬見せるものの眠りには落ちないマイク。

このローマで母親の幻影を完全に絶ち切れたからか?これ以降のナルコレプシー場面では母親トリガーは出て来なくなる。というかトリガー自体がよくわからない、無秩序になっていく

最初はローマで客を取ったホテルで。外からサイレンの音が聞こえて、急に暴れまくって痙攣したのち眠りに落ちる。何がトリガーだったのか全く意味不明。サイレンはピーポーピーポーと救急車っぽいサイレンであってパトカーのウ~ウ~というものでもなかった=警察に対するストレスとも違う。

次はポートランドに戻って来て路上で眠りに落ちる
ここもトリガーが不明?煙突から水蒸気のようなものが出た映像の後に急に倒れ込む。

最後は再び平原の路上でのナルコレプシー。ここも何のフラッシュバックもなく、ストレスを与えるようなものもなく、独り言を言ってる最中に道に倒れ込む。敢えてトリガーを考えるなら、全くの孤独というストレス?そして圧倒的なオープン・スペースに留め置かれた自分。どこにでも行ける自由と裏腹のどこにも行けない心の閉塞感。広場恐怖症のようなストレス…でしょうか?

このローマを境にナルコレプシー・トリガーの質が少し変わることに何らかの意味があるように思うのですが、今ひとつコレと言った自分を納得させれる答えが導き出せていません。しかし監督としては何らかの意図がある気はする…。

ローマ以前において「母親」というのはトリガー要素だったのは間違いない。

この映画でスコットはマイクにとって度々「母性」の代替として表現されている。それが最もわかりやすかったのが、ポートランドで目覚めた時にスコットの腕の中で目覚めたマイク、その時の二人の格好が「ピエタ」の構図と同じでした。磔刑から降ろされた息子を抱く聖母マリアを表したもの。つまりスコットが聖母マリア役になっている。

有名なピエタ像はバチカン(ローマの中)にあるミケランジェロ作のもの。
カット映像ではカルメラの家にもピエタ像の額が飾ってある。
このピエタ要素を強調したいが故にローマに行ったのかな?

マイクの焚き火での愛の告白も、先述したようにUnconditional Love無償の愛を与えてくれる人(度々母性、母親と重ねられる)への愛着からとも考えられた。

よってローマでマイクは本当の母の幻影も絶たれ代替母であるスコットからも関係を切られ、完全に母性に対しての想いが絶たれた状態に陥った。それでこれまでのトリガー要件が崩壊してしまい、それ以降のトリガーパターンがおかしくなってしまった。結果、無秩序にナルコレプシーの睡眠が起こってしまう描写になったのかなと。それが私の暫定的解釈です。

「My Own Private River」

今回色々と関連動画を観ていた中で見つけた興味深い動画。
ジェームズ・フランコが作ったという「My Own Private River」です。

映画「ミルク」でヴァン・サント監督作品に出演した彼が、一番好きな映画を訊かれて答えたのが「My Own Private Idaho」。そしてこの映画でのリバーの演技が一番好きだとも答えた。

するとそれを聞いて喜んだヴァン・サントがロケ地ツアーに連れて行ってくれたり、編集で使わなかった素材を見せてくれたりした。フランコはそれらをデジタル化して、再文脈化(再構成)してみせることに興味を持ち、「今ヴァン・サントが撮るならこんな風になると思う」と想像して作品に仕上げたらしい。

全編観てみましたが、コレ単独だけではあまり意味をなしていないというか、カット映像をツギハギした感を否めない作品。これで1つの完全な作品とはお世辞でも言えない気がします。

でも非常に興味深かったのは、
➀ナルコレプシーのシーンがほぼ無い。
②ボブのシーンも全くない。

年増女性の家でのナルコレプシー、眠りに落ちないバージョンを撮影しているし、ローマでの売り専時のナルコレプシーも発作というより脱げないジャケットに苛立って暴れてるだけみたいになっていて眠らずにすぐ起き上がってるバージョンになっている。

この中でカルメラの家の壁にピエタ像が飾っているシーンが出てくる。

それとマイクがもっとまともな人間というか、もっと社交的でいろんな人に話しかけ理路整然とした普通の会話が成立している印象。
ローマから帰国後、かつてのハスラー仲間たちが定職に就いており、彼らを訪ね回っていくマイクの様子も描かれる。

ナルコレプシーが無いバージョンも撮影していたというのが非常に興味深いです。もしかしたら無いバージョンで作品に仕上げるという選択も考えて撮影していたことがわかるから。
そしてもっと社交的なマイク。悲惨な生い立ちにもかかわらず、ハスラー仲間達と友情を育みながら、ハスラーとして逞しく生きているマイクを描くという構想もあったのもわかる。いろんなテイクを撮っていたんですね。

実際ハスラーたちへのインタビュー映像を見てても彼らはジョークを飛ばしたり、悲惨な中にも逞しく楽しく生きてる部分がある。そういう姿の方がよりリアリティのあるハスラー像なのでしょう。ナルコレプシーを持つマイク、ストレスですぐに眠りに落ちる彼がハスラー業をまともにやれるとは到底思えなく現実的ではない。だからハスラーたちへのインタビュー映像みたいにマイクのパートも夢ばかり見てるファンタジー的なものでははなかった可能性もあったところに、制作過程における試行錯誤が垣間見れて面白いですね。

この「My Own Private River」もMOPI同様にコラージュのようなまとまりの無さがある。しかしMOPIにはナルコレプシーとタイムラプス映像が絶妙に挿入され、現実部分と夢の部分とをつなぎ合わせている(リバーがインタビューで言っていた二つの世界を敷石のように導いて繋げる部分ですね)。これがマイク自身が感じている記憶のブツ切れ感、頼ることのできない不安感、どこか不思議な夢のような物語、そういったものを映像で表現できていた気がします。そういう意味では本家はやはり素晴らしいなと。


「My Own Private Idaho」


この映画タイトルの意味もなんだか分かるような分らないような、33年間自分の中であんまりストンと腑に落ちる感じでは理解できていませんでした。

ただここまで色々詳しく見てきたら、漸く少しわかって来た気がします。

この映画のテーマは「HOME」”家に帰る 家を見つけること”だと書かれているレビューがありました。
(スコットの方のストーリーも放蕩息子の帰還の物語なのでHOMEはテーマではある)

フラッシュバックで何度も出てくる木造のファーム・ハウス(農家の家)
確信は無いのですが、マイクが母親に抱かれていた幼少期に過ごした生家。あの家のポーチから見える景色にチラッとあの木造の家が映り込んでいました。つまり生家の前に建っていて、赤ちゃんマイクが見て脳裏に焼き付いた最初の記憶の景色にあった家。
心象風景の中にある家、HOME、故郷

しかしあの家は多分もう存在していないんです。
前半のフラッシュバックの中に、空からあの家っぽい木造の家が落ちてきて木っ端微塵になる映像が挿入されます。
最初、私は全く意味が分からなかった。

しかしIMDBのトリビアの欄にこういう記述がありました。
あの落ちてくる家のイメージは、ヴァン・サントが何年も描いてきたモチーフだったもの。それは故郷を離れること、そしてもう帰ることができる場所が無いのだということを表しているんだと彼は言っている”

タイミング的には母親が見つけられず、スコットにも捨てられたローマ辺りの段階でこの”落ちてくる家”イメージが映し出されたら故郷の象徴である母を失ったイメージと重なってわかりやすかった気はする。しかし最初の方で挿入されたのはマイクの生家は既に遠い幻影になってしまっている=戻る家も無いどん底のハスラー生活、仲間だけが家族…みたいなことを強調しておきたかったのかなと思います。

あと最初と最後に出てくる鮭が遡上するシーン
33年前の私は、最初の鮭シーンはその後マイクがフェラされてるシーンに移っていくので、てっきりエロテイックな意味で、水がほとばしる様子と射精の様子を重ねているんだと思っていたのですが(;^ω^)、最後にもう一度出てくるときは特にエロ要素は無い。それでどういう意味なんだろう?と思いつつ、映画も終わっていくので、まっ、いっか~と忘れてしまっていました。

今回、HOMEがテーマだと知ると、鮭が卵を産んで孵化する場所が川なわけで、鮭がHOMEに戻る様子を表していたと言うことがわかります。つまり作品テーマを強調していた。それも遡上した鮭は皮も剥がれてボロボロになってたりする。それほど辿り着くのにボロボロになりながらもHOMEを求める鮭の姿とマイクの姿を重ねていた…ということです。

そう考えると、あの何度も映し出されるファーム・ハウス。あれがマイクにとって自分だけの特別なアイダホにあった家、今はもうないけど心の中にのみ存在する心象風景のHome 故郷…彼の人生で唯一無条件の愛で愛されていた記憶の景色。それが”My Own Private Idaho”ってことだったんだな~と。

そして最後に(兄リチャードに拾われ)車で去っていく。そしてもう一度”あの家”が映された後に「Have a nice day」の文字が出る。

つまり兄リチャードの姿はハッキリ映っていなかったけど、幼少期のマイクと一緒にあの家を見ていた人物であるリチャードがマイクを拾った人物だと間接的に教えてくれていたのかなと。そして二人で向かう先はあの家=あの頃のようなHOMEを築く未来を想像してね!というメッセージも込められていたのかも。それで、マイクのことはもう大丈夫だから「Have a nice day」、皆さんもイイ一日を過ごしてくださいね!っていう締めだったのかなと。これだと一連のシークエンスの意味が腑に落ちます。

兄リチャードが家族の肖像画をいっぱい部屋に飾っていたのも、彼自体も家族への憧れが強いということだろうし。兄として、父として、マイクのことを無条件に愛してあげて欲しい。

この「Have a nice day」の意味が最初分からなかったので、兄リチャードに拾われたと聞いても、もっと最悪な未来を考えていたんですよね。

二人の母も近親相姦的欲望を持っていた人物というよりかは、貧困ラインよりさらに下にいる存在。圧倒的な孤独。物理的にも心理的にも。そこで欲情したときや寂しさを紛らわしたい時に傍にいたのが息子しかいなかったということが理由な気がする。

兄リチャードも母から性的虐待を受けていてトラウマを抱えている。そして家族の肖像画をいっぱい飾るほど母同様に孤独を抱えている状態。なにか訳も分からず暴力も振るっていたし、貧困+孤独+トラウマというトリプルパンチで彼自身もモラルバリアーが異常に低い人物である場合…肌恋しさと肉欲がマックスに達したときにマイクに手を出すんじゃないかと。インセスト、近親相姦の連鎖なんていう目も当てられない地獄がマイクを待っているのではと。想像していた自分がいる。(マイクがナルコレプシーという障害があるという設定も近親相姦由来という意図があったのかなぁ?)

マイクの方もそれぐらい受け入れそうな感じもあるんですよね。とにかく感情が無になっているし、彼自身もモラルバリアーは低い。それに代替母のスコットにキスしたいと言っていたように、優しさを示してくれる相手に性的行動で応えようとする、気持ちを返そうとする、つなぎ留めたいと思う。

でも「Have a nice day」にマイクの未来はリチャードとなんとかやっていくというポジティブなメッセージを感じたので、地獄ではなくて明るい未来があると信じたいと思います。

結局マイクのナルコレプシーでの睡眠、特にトリガーがわからなかったローマ以降は、”My Own Private Idaho”=心の中にある温かい記憶のHOMEに戻りたいという願望が引き起こしていたってことなのかな?それなら筋も通るか…。サッサとローマからアメリカに帰りたい=Homeに帰りたいってことで発作発動。母やスコットじゃなくて純粋にHOMEを求めていた。

眠るマイクに対して不安な気持ちになっていたけど、眠っている時の彼は母に抱かれてるような温かい幸せな時を過ごしているんだと考えたら、もっとグッスリおやすみ…Sweet Dreamsって言ってあげたくなる。これまた33年前とは異なり、色々考察していく中で印象が変わった部分です。

結末も、眠りについても、いままでネガティブなイメージしか持ってなかったこの作品。だけど今回観直して、しっかり考察したことによってグッと救われる作品だったんだと解釈出来てそこは良かったです。33年ぶりに漸く私も救われました。

ということで作品の星☆評価。
33年前はぶっちゃけ☆4~5ぐらい。それほど意味が分からなかったし、悲惨で不憫で後味も悪かった。期待していたリバーもおらず、変なモミアゲリバーでガッカリしたし😅。
しかし33年経ち、私にもリバーを見る目は変わり、幻滅することもなく一人の少年、一人の人間として見れたし、物語全体の意味、各シーンの意味、漸く理解できるようになった(気がする)。ラストも明るいポジティブなメッセージを感じられた。
よって☆7.5!!

それでもまだ辛め。それはやはりシェイクスピア・パートとロードムービー・パートがあんまりうまく混ざっていない印象を受けるから。正直言うとシェイクスピア・パートは無くても良かった気がする。スコットの成長譚だとは中々気付けないし最後はなんだか冷たくて嫌な奴に見えるし。もっとマイクの方に焦点を絞った方がテーマがわかりやすくなったかなと。

それともう一つは、この映画の為の準備でリバーはハスラーたちとつるみ、それまではマリファナ、コカイン止まりだったのにヘロインに手を出し始めたという話がある。先述のMatt Ebertがそう証言していて、信憑性はよくわからないがほぼ通説になっている。

そしてリバーだけでなくロドニー・ハーベイもこの映画きっかけでヘロインにハマったとWikiに書かれています。そしてあんな結果になってしまったわけで…。だから非常に罪深い作品なんですよね。それがあるだけにどうしても肯定したくない感情が拭えない。監督のガス・ヴァン・サントに対してもちょっと怒りを覚えてしまうくらい。確かに未成年でもないし、個人の自由を止められなかったのかもしれないけど、それでも監督責任・現場の管理者責任はあったんじゃないのかと。当時ヴァン・サントは40歳くら。リバーの倍の年齢生きてて、ドラッグで死んでいく友人知人も見てきただろうに。まさか若くてキレイな俳優たちがラリッてくれたら運よく手を出せる…みたいな下心あったとかじゃないよね?←さすがにそれをしてたら#Me Tooの時に訴えられたりしているか…。でもヴァン・サントがリバーのことを好きだったみたいな記述も見かけた。
「Last Night at the Viper Room: River Phoenix and the Hollywood He Left Behind」という本の中に、
he told friends afterward that he thought Van Sant had a crush on him and was chasing him.
という部分がある。ヴァン・サントが彼に恋していて追いかけまわしていると思ったとリバー自身が友人に語っていたんだと。どんな”好き”だったかは不明ですが、わざわざ友達に言うというのは普通は色恋沙汰の好きだろうし、そんな好きならどうしてヘロインが手に入る環境を傍観したり、使用しているのを知ったら諫めたりしなかったのか?疑問が残ります。

今回ずっとリバーの生い立ちから出演作品などを見てきて、私の中で燻っている感情は「悔しい」です。
彼の作品選びからして自分の境遇と重なるようのものを頻繁に選んでいるし、その中で見せる演技も背景を考えると彼の心の中にあった苦悩と役が持つ苦悩がオーバーラップしてるように感じられる。ずっと彼は意識してなのか無意識なのかHelpやSOSを出していたんじゃないだろうか?
「神の子供たち」の元信者の自殺率の高さ、Slow Death で死んでいく人の多さを考えると、リバーも薬物というスローデスを選んでしまった気がする。それぐらい耐えられない苦悩を抱えていた。
しかし周りの大人は彼を搾取、消費することばかりで皆その悲鳴を無視し続けてきた。薬物が蔓延するハリウッドでそこから距離を取るようにしっかり諫め、守る人物がいなかった。リバーより何倍も大人なはずの監督たち、エージェントだったアイリス・バートン、誰か一人でも毒親ジョン&アーリンから距離を置かせて、薬からも引き離して、彼の心に平穏を与える存在がいれば助かったかもしれない。ホント悔しい…。
死んだのは23歳だけど、彼が活躍したのはほぼ十代。まだまだ子供だった。いくら大人びた演技ができても自分の中の感情をうまく処理できない子供。いや大人だってうまく処理できる人なんてそう多くない。

エンタメ業界の子役、子供タレントに対するもっと厳格な法規制をするべきだと思う。親の為に子供が働かされていないか?という家庭環境の調査、稼いだお金をどう扱うか?親が搾取、浪費していないか?とか。基金的なものにプールして成人してから渡す制度を作るとか。トラウマを与えるような現場や演技などをさせた場合(できるだけ避けるべきだが)事前と事後のカウンセリングの実施など。最近話題になっていたインティマシ―・コーディネーターの制度もまだまだですけど、チルドレン・コーディ―ネーター的なポジションも設けるべきだと思う。子役を使う時は絶対に用意しないといけないくらいに法整備すべき。

アメリカのエンタメ業界もリバーだけでなく、コリー・フェルドマンが告発する性虐待や、ドリュー・バリモアも12歳で既にコカイン中毒だったという話。ブラッド・レンフロも子役上がりで結局過剰摂取で亡くなったりしてる。醜聞が結構あるのに何かしらの対策がなされているのか?気になったので調べてみたら、今年4月の記事で全米俳優組合SAGが子供タレント達への規制を実施していく旨を発表した模様。遅ッ!!やっとですか?

ドキュメンタリー・シリーズ「Quiet on Set: The Dark Side of Kids TV」で、子供向け放送局の「Nickelodeon」における子供たちへの虐待、性差別、人種差別、不適切行為が告発されたことを受けての対応のようです。子供タレントたちにとっての#Me Too運動と位置付けられている模様。

もっと早くから対応しておくべきだった気がするけど、無いよりマシ。日本なんて俳優組合さえないんじゃなかったっけ?調べたら西田敏行が会長の「日本俳優連合」はあるんですね。でもどれほど機能しているのか?本当ならジャニーズの子供たちも俳優業をしていたんだから、こういう組織が駆け込み寺になって守らないといけなかったはず。事務所やメディアにいいように使われる俳優の地位向上、権利向上にどれだけ尽力しているんだろう?子供の権利さえ守ろうとしていない国で、まともな頭があったら不安しかない未来。少子化なんて絶対止まらない。

アッ、なんか別の憤りになってきたのでこの辺で😅。


最後に

本文に入らなかった諸々。
そして今回の「マイ・プライベート・アイダホ」記事シリーズの最初から読んで頂いた方のみ”オオッ”と思って貰えるかもしれない不思議な繋がりを紹介して終わりたいと思います。

*****

兄リチャードが母親のことを話すシーン。母親が男と映画を観に行ったと言い「なんていう映画だったかな?」と考えているとマイクが「リオ・ブラボー」と即答する。「そうそうジョン・ウェインの西部劇」と言っていた。

この一連の記事を書いている最中に、たまたまBSシネマで放送してくれてビックリ!!どんな映画なんだろう?と興味深く視聴した。

サムネの前でギター持っているのはリッキー・ネルソン。後ろのおっさんがジョン・ウェインです(おっさんってwファンに怒られる)。

西部劇と言えばジョン・ウェインというほど有名で、私も名前は知っているし、遠い昔に観たかもしれないけど全然どんな顔なのかも覚えていなかった。今回じっくり見たけど、もうピークは過ぎてる時期なんですかね?初老のおじさん(この時で52歳!昔の人は老けてるなぁ~😅)で、特に動きにキレがある感じでもなくそんなにカッコイイという感じでもない。最初画面に出てきた時は脇役か敵役なのかと思っていたほど。実は正義の保安官で観ていくとそれなりに魅力的な人物には見えてきたけど…晩年の丹波哲郎みたいな感じ?(丹波さんも若い時は美形だったけど私が記憶にある頃にはもう霊界の案内人でしたから)。そしてお決まり美女とのロマンスもある。ロマンス要素も歳が離れすぎててなんだかな~と言う感じ。ハリウッドは年齢差カップル(男高女低の)、結構推しますよね。

次の週に放送していたイーストウッドの「クライ・マッチョ」でもそうだけど、そのカップルはさすがに無理じゃない?っていうの時々ある。クライ・マッチョなんて90歳近いイーストウッドが、最初は40歳くらいのラフォの母親からベッドに誘われ、次に50歳ほどの食堂の店主からもすぐ惚れられて紆余曲折の末、最後は結ばれる。いやもう歩く足取りもおぼつかないのに、フェロモンどころか加齢臭さえ枯れてきてそう。さすがにこの先介護しか待ってないでしょ?っていう考えが邪魔して全く素敵なHappy ever afterとは考えられないのよ(;^_^A。イーストウッドも自分を美化し過ぎ!!いやまあカッコいいけどさ~。世間の90歳に夢見させ過ぎ!普通は遺産目当てだよ。紀州のドンファンルートよwww。

この映画はリッキー・ネルソンが一番カッコよかったです。彼を見るためにある映画と言っても過言じゃない。イケメン好きならリッキーしか目に入らないはずw。甘さとカッコよさのバランスが絶妙な顔。サファイアのような濃い青い瞳。少しシニカルな笑顔。早撃ちガンマンだし、ジョン・ウェイン演じる保安官を助けるナイス・ガイ。その上ギター持って美声まで披露してくれる。調べてみると本業は歌手だったみたいで、当時アイドル的人気を誇ったよう。動画のコメント欄ではもっと歌手としての実力も評価されてイイはずとも。1985年、ツアー中に飛行機事故で亡くなった。45歳。

彼は両親がバンドマンと女優で、10歳頃からショービズ界ラジオ、テレビ、映画で活躍していたそう。小さい頃からのカントリー、エルビスの影響を受けてのロカビリーを経て、17歳でロックンロール歌手としてテレビ出演。経歴はちょっとリバーと重ねりますね。

この役、時代が違ったらリバーがやっていてもおかしくない。
それでふと気が付きました。「リオ・ブラボー」って「River Bravo」ってことかな?と。リオはスペイン語やポルトガル語で川ですもんね。「リバー、君はなんて素晴らしいんだ!」って賞賛を送ってる感じ?ヴァン・サント流のリバーへの賛辞だったとか?他にこの映画を選ぶ意味、何があるんですかね?全くMOPIとは関係ない内容だし。

Bravoの語源とかを調べてみるともう少し興味深い。英語の「Brave勇敢な」という意味があったり、「野蛮な 野性的な」と言う由来もあったり。「曲がった 堕落した」という由来まであるそう。この映画をきっかけにヘロインで堕落してしまったリバーの未来を暗示していたのだろうか?

そう思っていた所でこんな記述を発見。
PHOENIX TRIED to keep things lighter with his next girlfriend, Suzanne Solgot. When he met her, at a party, he shyly introduced himself as "Rio".
(マーサ・プリンプトンと別れた後)リバーは次のガールフレンドであるスザンヌ・ソルゴットとの関係はもっと軽くしようとしていた。パーティーで彼女と初めて会った時、彼は恥ずかしそうに自分を「リオ」と自己紹介した。
”リオ”っていうのは案外仲間内での呼び名だったりしたのかも?

*****
マイクが母を訪ねてローマまで行ったので、
その距離って三千里ぐらいあったりする?と思いちょっと調べてみた。←本当にど~でもいいことやってるなぁ 苦笑。

三千里は11781.82kmだそうです。

ポートランドからローマの距離が5,836 マイル=9392.132キロ 
よって大体2.39151.…2.4千里ぐらい?
カァ~、マイクよりマルコの方が頑張ってたぁ~www
マイクがマルコならスコットがアメデオ?

ついでにアニメ繋がりだと、ちょっと銀河鉄道999っぽいなとも思ったり。エッ?全然違うだろって?(^^ゞ
マイクが星野鉄郎で、スコットがメーテル的な感じしません?
メーテルは鉄郎の母親でもあり恋愛対象でもあり、旅のお供であり、最後にメーテルに捨てられるっていうかお別れしちゃうし。メーテルはあの母親プロメシュームと最後は対峙してぶっ壊して乗り越えていくわけで、スコットが二人の父親の死を乗り越えていく感じと似てるかな~って。

*****
今回「My Own Private Idaho」を観る発端になった一番最初の記事の一番最初に貼った動画。
その最後の方に映画「Sound of Freedom」のことが出てきました。
メル・ギブソンのプロデュースでジム・カヴィーゼル主演の映画です。

で、長々と巡り巡って「My Own Private Idaho」を観ていたら、むっちゃイケメンがチラッと出てきました。調べてみると、なんとジム・カヴィーゼルじゃあ~りませんか!!それもこの作品が映画デビューだった!!

ローマに行く空港のグラウンド・スタッフ役。
ほんの一瞬しか映りません。
ほっそりしていて最初気付かなかった。

この作品に出たことで先ほど出てきた全米俳優組合SAGの会員になれて、LAに引っ越して本格的なキャリアを歩み始めたんだとか。へェ~人に歴史あり。

あとカメオとして監督のガス・ヴァン・サントも出ています。
マイクの母親が勤めていたホテル、二人が母親のローマの住所を教えて貰っている後ろでホテルのボーイの格好して立ってます。

ちなみにリバーの前作「DogFight」ではブレンダン・フレイザーがデビューしてる。海兵隊とケンカする水兵ナンバー1という役どころだったそうです。カヴィーゼルとフレイザーはリバーより2つ上の1968年生まれ。キアヌは6つも上の1964年生まれ。

*****
記事などから気になった部分の抜粋

MOPIにおけるシンボリズムとは?
“My Own Private Idaho”とは愛の腕の中に閉じ込められた想像上の場所。…それは守られていると同時に自由な場所。慢性的に現実とズレているアメリカが掲げる公約と同じ。特に最も弱い立場の人々にとっては。

*ヴァン・サントが鮭の遡上と、タイムラプスで動き続ける空の映像を挿入したのは、シンプルに人生はずっと続いて行くという事実をシンボルにしたものだったと考えられる。

*マイクというのは学術的知性と感情的知性をトレードしたようなキャラクターだ。彼は何度も他者からいいように利用されてはいるが、自分の感情にはちゃんと意識が向いている。彼はスコットに慰みを見出し、それを認めることを恐れないのだ。

*MOPIの脚本を受け取った時のリバーの感想。
「最初に脚本を読んだ時に確信したんだ、この映画をやりたいって。それでもし自分がしなかったら、他の誰かがやったなら、クソくらえって思うだろうって。なんだかやる責任があるように感じたし、やるべきという義務感を本当に感じたんだ」

*マイクがポートランドに戻って来ての客の部屋で「シンプソンズ」を観ているシーンがある。リバーが「シンプソンズ」のファンであり、作者のMatt Groeningもポートランド出身であり、ヴァン・サントが住んでいた家がマットの親友が住んでいた家という縁もあり、著作権料なしで「シンプソンズ」の場面を使わせてくれた。

*ハスラーたちが住んでいた廃墟の建物。あれはいくつかの建物を一つの建物のように場面を合成して撮った。リバーは脚本に無い細かい演技(咳、つまづき、回転)を数日後の違うロケ地でも繋がっているように演じることに挑戦する必要があった

*ボブの役は最初デニス・ホッパーに依頼した。しかしホッパーはそれより主役二人のどちらかをやりたいと言い出した(ヴァン・サントは冗談だと思ったが)。そこでリバーの推薦でWilliam Richertに依頼することに。しかしRichertは映画監督で役者でもないし最初は断る。何回か断った後に、今ポートランドで撮影しているから見に来なよと、リバーが電話口でキアヌと一緒に誘った。それで遊びに行ったらまんまと言いくるめられて役をやるハメになった。

*スコットが飲んでるビールのブランド名が「フォルスタッフ」なんだそう。「ヘンリー四世」におけるボブの役回りの人物。←ボブを飲み干す=ボブを手玉に取る的なメタファーなのかな?どこの場面かなのかはちょっと確認できなかった。

*スコットとカルミラのセックスシーン。物凄く寒かったそうで、ヌードよりも気温の方を心配していた。撮影に5時間も要した。


参考記事や読んだ記事。

https://www.reddit.com/r/RiverPhoenix/comments/1dvptu7/another_one_of_my_odd_questions_please_dont_get/

https://www.reddit.com/r/RiverPhoenix/comments/1dtx91c/stop_criticizing_his_mom_she_doesnt_deserve_it/


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