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ゲイムービーにはなぜ水辺とバイクが出てくるのか?の考察


はじめに


前記事に書いた映画「シチリア・サマー」を観ていて、物凄く既視感というか、クリシェな感じがしてならなかった。言い換えれば、コレと言って斬新さ、目新しさはさほどなかったなと。

では、既視感を感じたところは何かというと…
それはズバリ、水辺とバイクです。

とにかくゲイムービーというのは、男二人が水に入って戯れる場面が本当に多いんです(笑)。何かと人気のない水辺、海、湖、川なんかに行っては愛に目覚めたり愛を確かめ合ったりしちゃう。
(まあ映画に限らず、ゲイ界隈ではハッテン海岸とか昔からあったりする話ではあるんですけども。あの海水浴場の奥に!?的にねw)

そしてバイクの二人乗りも多い気がするんですよね。そんな水辺にバイク二人乗りで出掛けちゃったり。(勿論、別の場所に行く場合も無数にありますし、バイクの代わりに昔なら馬、または自転車二人乗り、自転車並走、車に二人で乗り込むパターンもあります)。

ゲイムービーといっても色んなタイプのものがあるので、水辺にも行かないし、バイクにも乗らない映画は五万とあるのですが(←当たり前)、それでも、特に多いと思うのが、同性愛禁止の時代を描いた作品とセクシュアリティに目覚めるComing of age(成長物語やセクシュアリティに目覚める)系の作品。

ということで、なぜ多いのか?という考察は後ほどするとして、まずはパッと浮かんだものをいくつか挙げていきますね。

*全部読むと結構長いので、ごゆっくり、ご自分のペースで、暇つぶしのつもりでどうぞ。あと所々薄っすら映画のネタバレになってる部分もあるので、そういうのが嫌な方は遠慮して頂いた方がいいと思います。


水辺とバイクのゲイ映画コレクション

「シチリア・サマー」

今回この記事を書こうと思ったきっかけの映画。二人で人気のない絶壁下の渓流?で戯れます。バイクシーンも定番の二人乗りをちゃんとしてくれている。もうある意味ゲイムービーの定番を詰め込んだお手本のような作品。
(水辺とバイク以外の定番としては、金髪と黒髪カップル(色素薄い系と濃い系ともいう)。それと悲劇的結末なんかもあります)

「君の名前で僕を呼んで」

主人公エリオの家のプールみたいな水場で秘めた恋愛感情を高まらせていき、お互いの愛を確認し合うのは出掛けた際に寄った。こじらせた想いを仲直りしたのは発掘調査で訪れた。水辺が悉く重要な場面で使われている映画です。
バイクシーンは出て来ませんが、二人で自転車に乗って出かけるシーンは少し通ずるところがあると思います。コチラも金髪&黒髪+Sadエンドという黄金コンビネーション。

「ブロークバック・マウンテン」

山の中で過ごす二人。アレ?水辺シーンあったっけ?と思いますが、ちゃんと素っ裸で水に飛び込むシーンあります(上記動画でも一瞬映ります)。
”ゲイの男二人が自然の中で戯れる”という定型を、確固たるものにしたのがこの映画な気がするんですよね。それ以前にもあったとは思うんだけど、この映画以降かなり増えた気がしてならない。
バイクシーンは残念ながらなかったと思う。馬で並走ぐらいはあったかも
?山の中以外は土地柄的に実用的な車しか選択肢ない感じでしたから。ここも金髪&黒髪+Sadエンド。

「Summer of 85」

フランスのゲイ監督といえばフランソワ・オゾン。彼が撮ったわかりやすい水辺とバイクのゲイ映画w。オゾン版「君の名前で僕を呼んで」に、ヨットと女性が絡んできて「太陽がいっぱい」の要素も盛り込んだといった感じ。
「シチリア・サマー」が82年、「君の名前で僕を呼んで」が83年、「Summer of 85」はタイトル通り85年。ゲイ監督たちはエイズ禍の暗い影が落ちる前の時代に強烈なノスタルジーがありそうです。コチラも金髪&黒髪+悲劇的結末。

「マイ・プライベート・アイダホ」

こちらは水辺シーンは確かなかったんだけど(終始リバー・フェニックスが寒そうにしてたし)ゲイの二人乗りバイクシーンの元祖はこの映画だと思うのです。例え元祖じゃなくても多くのゲイ監督の脳裏に焼き付けた作品なのは間違いない。先述の「Summer of 85」とか意識してるとしか思えない。
ちなみにゲイというよりリバー&キアヌの役はハスラー(売春青年)なのでGay for Pay。セクシュアリティはもうちょっと複雑曖昧だったかな?…また久々に観直して検証したいところです。

多分「バイク二人乗り」をロマンチックな記号として世間に広めたのは「ローマの休日」でしょうか?アン王女と新聞記者がベスパに乗る場面。
それをゲイムービーに引っ張ってきたガス・ヴァン・サント監督の功績は大きい気がします。ここも金髪&黒髪+Sadエンド…だったと思う。

「God’s Own Country」

水辺で戯れるのは光あふれるイタリア、南仏だけじゃない!
イギリス版「ブロークバック・マウンテン」と呼ばれるこの作品。見事なツンデレ具合と羊飼いの生活を組み合わせた良作です(←大雑把すぎる映画評w)。
暗雲広がるイングランド北部、北の大地でも水辺とバイクは健在でしたw。
ジョニーとゲオルゲがバイク二人乗りで川に出掛けて戯れます。
残念ながら金髪&黒髪ではなくブルネット&黒髪かな?そしてこの映画はゲイ映画にしては珍しく厳しそうに見えてハッピーエンドということで、そこが評価が高かった。

「Firebird」

さらに寒そうなソ連時代のエストニアの海で戯れる「Firebird」。ソ連時代のパイロットの悲恋が描かれます(イギリス映画ですけどね)。バイクは乗ってないかな?これもまた金髪&黒髪+結末は…これから日本公開なので劇場でどうぞ!アッ、悲恋って書いちゃった💦
エストニアが旧ソ連の中で一番早く同性婚を認めた国らしいですね。

「Boys」

こちらはオランダの映画。リレー選手のシーヘルが自己のセクシュアリティに迷い、揺れ動きながらも受け入れていく様子を描くComing of ageストーリー。上記予告動画のサムネでもわかる通り、この水辺での戯れがキスに繋がって…。そしてバイクは無いかな?と思ったら、自転車二人乗りもバイク二人乗りも見せてくれちゃうサービス満点な作品。ただ金髪&黒髪というほどハッキリはしてないけど色素薄めと濃い目のコンビネーションではある。ハッピーエンド。

「JUST FRIENDS」

こちらもオランダのゲイムービー。セクシュアリティに悩むというよりも複雑な家族との葛藤のほうをメインに描いた作品だったように思います。
二人でウインドサーフィンをする場面で戯れてますし、バイクの二人乗りしてますね。坊主頭だけど金髪&黒髪+ハッピーエンド。

「The Man With The Answers」

ギリシャ、キプロス、イタリア映画。ギリシャ人の飛び込み選手の青年が、祖母の死を機に、再婚してドイツに住んでいる母親に会いに行く。その道中で出会った男と旅するゲイロードムービー。予告動画のサムネにあるように池?湖?で戯れます。バイクは出て来ないけど、ロードムービーなので二人でずっと車に乗っている。親密さは近いものがあるかなと。一応金髪っぽい&黒髪+結末はハッピーエンドといえばそんな感じ。

「Stranger By The Lake(湖の見知らぬ男)」

ゲイで水辺といえばこの映画。ゲイ達のクルージング・スポット(男漁り場)である湖で起こるサイコサスペンス。舞台は湖周辺のみなのでバイクは無し。薄茶&黒髪+結末はサスペンスなので恋の成就ハッピーエンドとかではなく、生きててヨカッタ的なハッピーエンドだったか…どうだったっけ?気になる方は探して観てください。

「Moonlight」

アカデミー作品賞をとったこの作品でも水辺が印象的に使われています。実際に水に浸かるのは上のサムネの場面、少年期にガーディアン的なファンに泳ぎを教えて貰う場面のみ。しかしその後の思春期では砂浜で強烈インパクトを受ける経験をするし、成年期で再会したケビンの家の前にビーチがあるのを主人公シャロンが感慨深く見つめるシーンがある。それほど主人公にとって水辺は意味のある場所として表現されている。

これまたバイクは出て来ません。貧困層+車社会が舞台のアメリカ映画ではヨーロッパ映画よりは頻度は低いような気がしますね。ただこの映画もバイク二人乗りの代わりになるような、車に二人で乗って過ごす時間はあります。金髪&黒髪設定は勿論該当外。結末もハッピーエンドを予期させる終わり方。

「Heartstopper」

人気のイギリス発LGBTQドラマ。第一シーズンの最終話だったかな?二人でビーチに行って、ここまで色々悩んできたニックがチャーリーを抱えて海に入り恋人宣言をする。バイクは出て来ないかな。二人並んで、もしくは二人乗りで自転車乗ってるシーンがあったかどうか。金髪&黒髪+暫定的ハッピーエンド(まだ続いているので)

00年代の「ブロークバック・マウンテン」以前の水辺シーンはあまり思い浮かばなかったのですが、80年代の「モーリス」「アナザーカントリー」辺りはパンティング(舟遊び)や夜のボートの上が逢瀬シーンだったり、90年代ではディカプリオの「Total Eclipse 太陽と月に背いて」詩人ランボーとヴェルレーヌの愛憎劇でも、二人で海辺を訪れてランボーが海に入るシーンはチラッとありました。
そもそも今ほどゲイムービーが多くは無かったですし、当時は日本に伝わるほど有名になるゲイ作品自体少なかったのでサンプル数の問題もあります。「ブロークバック・マウンテン」、「ムーンライト」「君の名前で僕を呼んで」と段階を踏んでLGBTQ作品の数も増えていき、そのサンプル数も多くなったので割と最近の作品において顕著になってきた部分もあるのかもしれません。


「自然の中に行く」意味を考える

なぜ水辺のシーンが多いのかを考えていきます。

水辺といっても、ちょっと人里離れた人気のない自然の中の水辺が多い。
そう、自然の中の水辺です。

ではなぜゲイは自然の中で戯れるのか?自然の中に行くのか?(←映画の中で顕著に描かれるという話です)
ということで、水自体の前に自然に行く描写の意味を先に考えていきます。

それは根本に同性愛とキリスト教の関係から来るんだと思います。
西洋におけるキリスト教社会は同性愛禁止の教義を貫いてきた。(そもそもはユダヤ教の旧約聖書のソドムとゴモラの話からなんでしょうけど)
しかしルネサンス期に、それまでのキリスト教による全てが神中心な世界が崩れ始め、キリスト教以前のギリシャ、ローマ時代の文化・芸術の復興の潮流が生まれる。(ペストの流行で神を信じても助からない→教会の権威が低下ということが背景にある)

ギリシャ哲学なんかは人間性を追求するものだったし、芸術もミロのヴィーナスみたいな人間の美しさを形にしたりで、「OH神よ~!」な時代ではなく、「VIVA人間!!」な時代だったわけです。そこに立ち返る流れがそれまでの反発として出てきたわけです。

そういう人間性を重視する考えが…

人文主義】じんぶん‐しゅぎ
ギリシャ・ローマの古典研究によって普遍的教養を身につけるとともに、教会の権威や神中心の中世的世界観のような非人間的重圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした精神運動。 また、その立場。

英語で言うとヒューマニズム。Human+ismだから人間主義ってことですもんね。(人文というのは人間と人間が作る文化全般)
逆にヒューマニズムの方で検索掛けたらこんな感じ。

人間にとって人間が最高で、人間性こそ尊重すべきものだとする、態度・思想傾向・世界観。例、人間が具えるべき理想の資質に誇りをもってそれを伸ばそうとする、キケロの態度や、イタリアのルネッサンス期に始まって欧州に広まった、古典を重んじ教会の勢力に抗して人間性の解放・向上を目指す運動。人文主義。人本主義。

(日本ではヒューマニズムというと人道主義的意味合いで使われることが多いですが、それはhumanitarianismヒューマニタリアニズムという言葉がより正確なものなんだそうです)

しかしルネサンスの頃はまだまだキリスト教を否定する=神を否定するのは恐れ多いので、あくまで文化芸術とか学問研究内の話で、現実の生き方で実践しようというところまでには行かなかった模様。むしろキリスト教との融合、共存を目指していたようです。

それでも宗教改革やフランス革命、産業革命と大きな転換点を迎えていく中で、ヒューマニズムも変化していく。ルネサンス期の古典を振り返るだけのヒューマニズムではなく、より自分達の生きる思想にも浸透してくる。人権という考えも強く意識され始めるのもこの辺りからです。

その後18世紀に、「近代の父」とも呼ばれるジャン・ジャック・ルソーの思想で「自然に帰れ」というのが出て来ます。(ルソーはロマン主義とか啓蒙主義とか言われます)

「自然に帰れ」
(retour à la nature の訳語) 社会の因襲から脱して、人間本来の状態にかえろうではないかという呼びかけ。ジャン=ジャック=ルソーの思想を端的に表現したことば。

フランス啓蒙期の天才的哲学者ルソーの根本思想を表現する標語。自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくったが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨にした。それゆえ自然に帰らなければならない。人間の内的自然、根源的無垢(むく)を回復しなければならない、というのである。これはいうまでもなく、原始的未開状態への逆行を意味するのでもないし、またいっさいの悪を社会の罪にして、人間の責任を不問にするのでもない。ルソーはあくまで社会を人為の所産とみて、社会悪の責任を人間に問うのである。「たえず自然に不平をいっている非常識な人々よ、君たちのあらゆる不幸は君たち自身から生じていることを知るがよい」。これが第二論文『人間不平等起源論』を貫く内心の叫びであると、ルソーは『告白』第8巻で述懐している。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について

キリスト教社会や家父長制社会のように、権力をもった側の都合で人間性を抑えつけられる社会。そこから離れること、そして本来の人間性に立ち戻れる場所、それはやはり自然ということになるのは分かる気がします。
(登山なんかで一人で自然の中を歩いていると、社会のしがらみから解放されて心が軽くなったり、本当にしたいことが見えて来たり、周りから影響受けての自分ではなく、本来の自分が見えてくることってあるので、この考えは実感として共感出来ます)

こういう思想が根付いているということが、西欧、特にヨーロッパのゲイムービーでは自然に帰る、自然の中で本来の人間性(=同性愛も含まれる)を取り戻す描写が多いのだと思うわけです。

このヒューマニズムの流れの中には、19世紀の詩人のウォルト・ホイットマンもいる。映画「ザ・ホエール」でも出てきて、私も記事に書いた時に調べていたら、彼は自然の中で隠遁生活をしていて、同性愛者だったとも言われている人物でした。

そして、20世紀初頭に活躍する作家であり「モーリス」の作者であるE. M. フォスターもヒューマニストだったとwikiに書かれていました。

勿論全てのゲイの作家や文化人がヒューマニストではないけれど、そういう流れは現在まで脈々と繋がっている。それが自然に帰る描写に現れているのではないでしょうか?

ただ自然に帰ると言ってもいくつかのパターンがある。
たとえば集団で行く場合。少年達が漂流する「蠅の王」や、最近の映画だと豪華客船が転覆する「逆転のトライアングル」なんかは、集団で遭難する系。そういうのは割と新たに小さい社会を形成しようとするので人間性の醜い面が前面に出がちの話になる。バトルロワイヤルっぽい話になりがちですよね。

一方、単独で自然に入る系もある。トム・ハンクスが一人で遭難する「キャスト・アウェイ」とか、リース・ウィザースプーンが一人でパシフィック・クレスト・トレイルを歩く「わたしに会うまでの1600キロ」とか、ジェームズ・フランコが峡谷で岩に挟まれ動けなくなる「127時間」とか、ショーン・ペンが監督した「into the wild」とか。そういう系の映画はより主人公の人間性を注視して、深掘りしていく系。自分とは?人間とは?というのを極限的なシチュエーションで浮き彫りにしていくんですよね。

ただ二人で自然に入る時はちょっと違う場合がある。それは楽園系
ブルック・シールズの「青い珊瑚礁」とか、似たような映画の「ブルーラグーン」なんかは若い男女二人が無人島に取り残される物語。

あれは南の島の楽園=エデンの園。アダムとイブを彷彿とさせる物語になっている。ターザンなんかも一旦人間社会に行くも、やっぱりジャングルに戻っちゃいますしね。

ゲイムービーにおいてもそれは同様で、「ブロークバック・マウンテン」や「君の名前で僕を呼んで」が公開された当時のレビューで見かけた意見として、この場合の自然は二人にとっての楽園を意味するんだというのを読んだ記憶があります。ゲイが本来の人間性のままでいられる場所ですからね。
これはキリスト教へのアンチテーゼの面もあるのかもしれません。エデンの園、アダムとイブを二人の男で書き換え、男女二元論の大元を否定しようとしているとも言える。

ということで自然とは、本来の人間性を取り戻せる場所、さらけ出せる場所、抑圧された人間達にとっては楽園になる場所という意味が、強弱はあれど、込められている場合が多いのではないでしょうか?

補足的に本来の人間性についても書いておきます。
男女二元論が本来の人間性で同性愛は違うだろという方もいるかもしれませんが、それについては最新の性科学的にはちょっと違うようです。

モデルのカーラ・デルヴィーニュがナビゲートするBBCが制作した「Planet Sex」という番組を観た時に、性科学の教授が説明してくれていました。
それによると、男女の性別は子宮内で胎児のときに浴びるホルモン量で決まります。それによって体の性別も決まるし、脳の性別も決まっていきます。
身体的にも両性具有者が出るように、脳の方も同様。さらに体ほどハッキリせずに中間や、男寄り、女寄りの脳になったりもする。ここには幅があり個人差がある。今までは身体的特徴と社会的圧力で男女二元論に当てはめざるを得なかった。しかしそこに軋轢や抑圧を感じる人が多くいることから自然が作り出す人間という存在、人間の本質とはそもそも多様性があるものというのを認める流れになってきているということなんです。

ということで、子宮内のホルモン量を完璧にコントロールできる技術が確立しない限りは(してもそれを強制するのは倫理的にどうなのか?という問題もある)、男女二元論とは主流であっても人権的観点からは正当性があるとも言えず、多様性がある方が人間本来の自然な状態ということになります。


「水に入る」意味を考える

それではやっとについてです。
水に入る…そもそもその水が何を意味し、何を象徴しているのか?ということですよね。

ということでコチラのサイトによると、

1:生命の象徴
2:変革のシンボル
3:無意識の象徴
4:女性らしさの象徴
5:浄化と赦しのシンボル
6:フレキシビリティの象徴
と書かれていました。

これはどれも一理あるので一つずつ考察してみると、
「生命のシンボル」は肉体と精神の誕生の象徴とも書かれていました。
そう、何かが生まれる象徴。それは恋心だったり、愛の確信だったり、二人の間で何かが生まれる描写になっている。
映画「BOYS」でも水辺で二人で戯れていた時にふとキスしたことから「ある考え=男が好きかも?」が生まれて、そこからストーリーが展開していく。こういう感じで水の中で戯れているとドキッとして恋に目覚める描写、多いと思います。男女ものでも見かける昔ながらの手法ですよね。特に泳いでいる時なんかはある意味命の危険も隣り合わせの状況。吊り橋効果的に、陸地でよりも恋に落ちやすい傾向もあるかもしれません。


次に「変革のシンボル」
上記サイト以外もいくつか見てみましたが、水のシンボルとしての一番代表的な意見が「水は変化の象徴」というものでした。

水は変化する物質。液体、気体、固体と変化もするし、自然だと川の流れや波のように絶えず形を変え続けている。流動性のある変化するもの。
「君の名前で僕を呼んで」で出てきたヘラクレイトスの「万物の流転」の話も、川の流れ、つまり水を例に挙げて論じていました。

水に浸かることで変化するきっかけになる描写もあった気がします。次のフェーズに移行する転換点的な。
「HeartStopper」では、それまで自分のセクシュアリティに悩んでいた主人公がそれを受け入れ、恋人との関係を宣言する場面で海に入っていきました。
作者のアリス・オズマンもこの記事で語っています。

文化的に水は変化のシンボルです。ビーチという設定は、ニックとチャーリーが経験する変化を象徴するもの。ニックのカミングアウトの決断とチャーリーと公式に恋人であると宣言することは、登場人物の感情の解放と二人の関係が次のステージに移行することを許すだろう。

「君の名前で僕を呼んで」でもそれまでお互いの気持ちを探り合っていた二人が、泉の中に入ることによって抑えきれない恋心を認めて伝え合う場面になっていました。心情の変化、関係性の変化、話の転換点、水辺シーンを境に何が変化したか考察してみるのも面白いと思います。

「無意識の象徴」というのは、無意識に本音や本性が出やすい状態というのはあるかな?とは思います。人間性の発露に繋がる小道具として水が使われているとも言えます。

「女性らしさの象徴」だとあまりゲイには関係ないかもしれませんが、”海などの水域は、女性らしさ、女らしさを連想させ、生々しさ神秘性広大さ非合理性などを象徴”とも書かれていて、水に濡れた肌の生々しさ、なまめかしさ、そこから性的な興奮に繋がる。そして説明できない非合理な感情が湧き出る…ということで関係なくはないかな?と。

「浄化と赦しのシンボル」。これはズバリ、キリスト教の「洗礼」を連想するからですよね。洗礼者ヨハネによってキリストは洗礼を受け原罪を洗い流す。ここから洗礼とはキリストと共に古い自分が死に、キリストと共に復活して新しい命を生きることとして、正式なキリスト教徒になる時の通過儀礼となる。「洗礼を受ける」という言いまわしも、罪を許されるという意味よりも通過儀礼を受けるという意味で一般的です。
なので洗礼風に描写されている時は赦し再生のメッセージを持たせていることが多い気がします。

ゲイムービーで水に入るとき、そこには「赦し」を表現しようとしていると感じることは確かにあります。特に同性愛が禁忌として描かれている作品に多いでしょうか?監督は同性愛も赦しを得られるものなんだと表現したいのだと思います。

「ムーンライト」で最も象徴的な↓このシーンはまさに洗礼のようです。

この場面を「赦し」という点で考えてみると、
主人公シャロンは学校でもイジメにあっているし、家ではシングルマザーでヤク中の母にほぼネグレクトされている状態。そこで偶々出会ったファンに気にかけて貰い親切にされ、始めて海に連れて行って貰い泳ぎを教わる。ココまでの、必要とされず嫌われて、自分の存在を否定せざるを得ない状況から、優しくされ関心を示され、生きていて楽しいと思える瞬間も与えてくれた=生まれてきた罪が赦されたかのように思えた瞬間だと言えるでしょう。(同性愛禁忌からの赦しの場面ではなかったですが 汗)
このシーンはその他にも、父性不在の彼に男性性への憧れのようなものを芽生えさせた瞬間でもあるように思います。これが彼の中のゲイとしての萌芽
に繋がる(この後に同級生とのペニス比べの場面があるので、洗礼シーンから性的目覚めと繋がる意図はそこかと)。
赦し、誕生、変化、多くの要素を詰め込んだ場面ですね。


「フレキシビリティの象徴」
柔軟性ということですよね。バイセクシュアルやセクシュアル・フルディティ、ストレートだけどゲイ体験してみる人(Gay for Pay、売り専)とか、柔軟な考え、対応、捉え方、そういうのがテーマになってるゲイムービーも結構あります。そういう意味として映画で印象的に水を使っていたものはパッと思い浮かびませんが、今後気にして観てみたいと思います。


あと、「水は純潔、再生、変化を表す。そしてカオス、危険、死のシンボルになる時もある」という記述も見かけました。「Stranger By The Lake(湖の見知らぬ男)」なんかはまさに危険な要素を巧みに使っていた気がします。
その他のネガティブな要素も映画の中でどう使われている時があるのか、注目してみたいところです。


「バイクに乗る」意味を考える


「バイクに乗る」の意味、ここで私が語るのは主に「バイクに二人乗り」についてです。ただ、バイク以前の乗り物、馬に二人乗り、馬で並走、自転車に二人乗り、自転車で並走というのも、非常に近い文脈でゲイムービーで描かれることもあります。その辺りはケース・バイ・ケースで考えてみてください。(「車に二人乗り」というのも、場面の緊張感とか主人公たちの距離感で、バイク二人乗りに非常に近い感覚を作り出している作品もあります)

先述したように、「ローマの休日」でバイクに二人乗りすることがロマンチックな行為として世界に広まったとするなら、そこには堅苦しい王室から逃れたいアン王女の自由、反逆、逃走の精神も含まれていると考えられます。

その文脈で歴代のバイク・ムービーを見てみます。

バイク映画といえば「イージーライダー」。ジャック・二コルソンがデニス・ホッパーに「自由」を象徴しているんだと言ってますね。

ゲイムービーの文脈に当てはめると、同性愛にとって窮屈な社会の価値観から自由を求めて二人だけの世界に向かう場面で使われていることが多い気がします。

反逆、暴走族のイメージはマーロン・ブランドの「The Wild One(邦題:乱暴者)」辺りが起源っぽいです。

これもまた既存の価値観への反逆、抵抗という同性愛への抑圧に対する主人公たちの心情を表現するのに使われていますよね。

逃走といえば「大脱走」。スティーブ・マックイーンもバイクで逃げてます。

映画「Boys」では、ラストシーンでバイクを盗んだ主人公が好きな男の子と一緒にどこかへ向かう場面で終わっています。まさに逃亡。

自由、反逆、逃亡、これらは常に密接に関わっている。ゲイムービーにおいても大抵既存のホモフォビアな社会、家族や学校、仲間から距離を置き、自己を開放する時のツールとして使われることが多いです。

こちらのサイトにも、いくつかのバイクに関するメタファーが載っているので書き出してみます。

*****

・冒険、反逆、内なる平和を語る際のドラマティックな装置として作家は使う。

・緊張する行為
(アクション映画でのバイクに乗ってのレース展開(ミッション・インポッシブルとか)はまさに緊張をさらに高める効果がありますね)

・文学におけるバイク、それに乗る人は、反逆精神、危険、セックスを表すことが多い。(バイカーがセクシーな存在として描かれることは多々ある。男はよりマッチョな面を押し出して描かれるし(「ハーレーダビッドソン&マルボロマン」とか)、女もピタッとしたライダースーツ、ヘルメット取って髪振り回す仕草とかセクシー的に描かれます)

・バイク旅は逃避であることが多い。酷い結婚、中年の危機などから。

ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)のバイク映画は、トラボルタの「Wild Hogs (邦題:団塊ボーイズ)」なんてのがあります。


・1952年にあった最も有名な成長物語であるバイク旅行は、革命前のチェ・ゲバラによるノートン500に友達と乗ってのブエノスアイレスからの南アメリカの旅だろう。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」で映画になってますよね。

この二人の関係にホモエロティックな雰囲気…あったかな?また違う視点で見直さないと! 私的にはガエル・ガルシア・ベルナルはペドロ・アルモドバル監督のゲイ映画「Bad Education」の印象が強い。あの映画でもプールだけど水辺が印象的に描かれてました。

・車とバイクを比較して…車の場合は受け身的な観察者。窓枠の中で景色が退屈に過ぎていく。一方バイクは、窓枠はなくなり、周りの全てと完全にコンタクトする。見ているのではなく景色の中にいる状態。”今”という瞬間にいる感覚は圧倒的だ。

*****

上記から新しくシンボル的に挙げられるのは、冒険、内なる平和、緊張、危険、セックス、今を生きる感覚…と言ったところでしょうか?

冒険は、セクシュアリティの探求、この人に付いて行けば未知の世界を教えてくれるんじゃないか?的に描かれるシーン、あった気がします。主人公の成長物語におけるセクシュアリティの冒険ですね。

内なる平和…というのはちょっとピンと来ませんが、心許せる相手にしがみついて、バイクという危険な乗り物に乗っていながらもインナーピースは確保されるということかな?それともずっと続く直線道でスピードをあげると、全ての景色が自分の横を吹っ飛んでいき、ハンドルを握ることに集中して、ある意味無の境地のような状態になるからかな?

緊張は、好きな人にしがみついて、しがみつかれて、密着することによる緊張感。わかりますわかりますw。いや、普通に危ない乗り物に乗ってる緊張感と考えるのが妥当でしょうね。事故を起こしたら命に関わる大ケガになりかねない乗り物ですから。

危険は緊張と一緒で、バイクは危険な乗り物。その危険な感じと、社会の抑圧に反して同性愛に突っ走る自分たちのヒリヒリする危険な関係。観てるコチラもザワザワした心情になること、あります。あ~、不幸に向かって行かないで~的な。

セックス。これは二人乗りで密着することで性を意識せざるを得ない状況ですし、セクシャル・テンションが高まる、高めるツールとして使われることも多いので納得。
「North Sea Texas」というベルギーのゲイムービーでも

二人で逃避行した先の場所(自然の中の人気のない場所)でセックスしてました(というよりセックスするためにバイクで出かけるw)。タイトルにあるように「海」も出て来ます(入りはしないが)。「水辺」「バイク」「金髪&黒髪」「結末は…どっちだったかな?」。これもかなりお手本のようなゲイムービーですね。ヨーロッパのゲイムービーにおけるバイク率が抜きんでて高い気がするのはなぜなんでしょうね🤔。

アジア映画のバイクシーンで思い浮かぶのは「モンスーン」かな?

監督はカンボジアからの移民で、舞台はベトナム。主人公はベトナム系イギリス人でベトナムを訪れる設定だけど、制作国自体はイギリス。ヨーロッパ文化の影響は強い。

アジアということで、人気タイBLドラマの「2gether」にもあった様な…と探してみると、ありました!

日本のBLでもあったかな?と探してみると、バイクじゃないけど自転車二人乗りを「美しい彼」でしてましたね。

日本、タイ、台湾とか、BL文化が強い国はゲイムービーよりBLドラマの方でバイク二人乗り、自転車二人乗りの演出が多い傾向がありそうです。

ちょっと脱線しましたが、バイク二人乗りが案外グローバルな表現だったのが確認できました。

話戻って、
今を生きる感覚。危険なヒリヒリする状態の中、景色が吹っ飛んでいき、外にいるのにまるで世界は二人だけしかいない感覚に陥る。まさに今この瞬間を生きている二人。周りの世界は見えない、恋に舞いあがり高揚している場面として使われることも多いので納得です。

ということで、ゲイムービーでバイクシーンが出てきたら、ただ乗ってるな~と流すのではなく、自由を求めて逃亡してるな~とか、社会に背を向けて反抗してるな~とか、ドキドキ、ワクワク、エロエロモードで二人の世界に舞いあがってるな~とか、考察しながら観ると、登場人物たちの行動原理や監督の意図がわかりやすくなるかもです。


金髪&黒髪カップルが多い理由を考える

ゲイ映画コレクションの項目で自分で書いていて、金髪&黒髪というコンビネーションの多さも気になったのでコチラも少し深掘りしてみます。

勿論、ゲイ映画に限らず、男女カップルの組み合わせでも見かけるとは思いますが、それでも欧米のゲイムービーでは際立っているような気がします。

まず金髪&黒髪といっても色々あります。
欧米の白人コーケイジャンと言われる人たち。髪の色、目の色、肌の色も多様で幅がある。金髪(ブロンド)、茶髪(ブルネット)、赤毛(レッド・ヘアー、揶揄的にジンジャーとか)、黒髪。ブロンドでも白っぽい金髪から黄色っぽい金髪、ブルネットも薄茶からこげ茶とグラデーションで幅がある。そこにカールの有無も加わってくるし、成長による色の変化まである。子供の頃に金髪でも大人になると黒っぽくなったり。
さらには人種による肌のトーンのコントラストもある。北欧系と南欧系。欧州系と中東系。白人と黒人などなど。

ではなぜこの色素薄い系と色素濃い系のコントラストが映画でよく使われるのか?色々な文化的背景があります。色々な意見を読んでいたら頭が痛くなるほど。なのでココではそのうちのいくつか、思いついたものだけ挙げてみたいと思います。

1:見た目のコントラスト
視覚に訴える映画というアートにおいて、目で見てわかりやすいというのは大事です。それで登場人物達の特徴づけ、識別しやすさというのは意識的、無意識的に選択肢に入ってくるように思います。

そしてここに同性愛という要素が入ってくると尚更です。男女の性別が違えばそれだけで一瞬で違いがわかる。しかし同性同士、さらには髪の色、肌のトーンまで一緒なら?紛らわしくなるし絵的にもメリハリがないものになる。なので監督がキャスティングする段階で意識してしまう部分があるのではないでしょうか?バランスを取ろうとする力が働いてしまうといいますか…。

海外のゲイカップルのインスタなんかを覗くと、時々ビックリするくらいそっくりなカップルがいたりするんですよね。見てるコチラがちょっとザワッとするくらい。この人は自分の分身を愛しているのかな?と思うほど。
人間には凄く似ている者に惹かれるパターンと全く逆の人に惹かれるパターンがありますよね。それは本人のナルシシズム度合いと自己嫌悪度合いの兼ね合いで決まってくるんでしょうけども、やはりあまりにソックリなパートナーを選ぼうとするのは、映画なんかだと観てる側には色んな意味で混乱を招きかねないように思います。

2:本能から?
海外の掲示板にあった「金髪の男性はブルネットの方が好き?」というスレッド。そこで皆さん各々の意見を書かれているんですけど、大前提は人それぞれという答え。しかし自分と異なるタイプに惹かれるという人もそこそこ多い印象。そして理由としては、おそらく近親婚を避けるため本能的にそういう遺伝子的に遠い相手を選ぶんだろうという意見がありました。

異なる特徴に惹かれる傾向ってのはバリエーションの少ない日本人にはイマイチピンと来ませんが、欧米では思った以上に市民権を得た感覚なのかもしれません。異なる特徴=エキゾチックとなって評価が高い。
「Sex Education」という英ドラマを観ていた時に、登場人物の白人×黒人カップルの割合が非常に高くて、そんなに皆、他人種に惹かれるものなんだろうか?白人黒人比率ってどれくらい?…と、イギリスの黒人比率を調べたほど。まあ多様性を前面に押し出しているドラマなので、敢えてそういう設定を増やしている可能性はありますが、こういう概念が下地にあるなら欧米では違和感なく受け入れられてるのもわかる気がします。

典型的なアジア人顔を好きな欧米人ってのもいるし、日本にも白人好き、黒人好きの外専嗜好の方もいる。そういう感覚というのは単一民族の日本みたいな国より、多民族国家になればなるほど強くなる傾向があるのかもしれません。

まあ日本にも金髪碧眼崇拝の傾向は根強くあるにはあるけど、あれは敗戦とハリウッド・プロパガンダの洗脳も少なからずある気はするので、本能だけとは言い切れなくてちょっと微妙かな。

とにかく、異なる特徴に惹かれるというのは本能的なもので、それがほぼ常識という感覚が強い欧米では、金髪&黒髪コンビは疑問に思う余地のない自然な組み合わせ。だから監督はそういうペアで映画を撮るのでは?ということです。

3:歴史的&文化的背景
欧米ではとにかく金髪に対して色んな感情があります。
一番有名なのは、金髪(主に女性)は頭が悪いってものでしょうか?
Dumb Blonde と呼ばれますね。
酷い偏見です。でもこれがもうステレオタイプで沁みついてますよね。

ブロンド・ステレオタイプというwikiページに詳しく色々書かれています。(日本語は無いですけども…)

記録に残るDumb Blondeの元祖と思われるのは18世紀のフランス女性Rosalie Duthé。国王の情婦で、話し始めるのに物凄く時間が掛かる人だったそう。それで彼女を風刺した芝居もあったんだとか。

金髪は元来、純粋とか無垢とかのイメージだったそうです。子供時代に金髪で徐々に色が暗く変化することも多いから若さとか健康のイメージもあるとか。西洋絵画の天使なんかも大抵は金髪ですし。

つまり基本は美の象徴だったわけです。魅力的、理想的という。
しかしそれに対する嫉妬ややっかみで悪いイメージを植え付けようとした勢力もいたのかもしれないし、実際日本でも美人が頭悪い的なイメージが少なからずあるように、ルックスで勝負して努力しないから頭も悪いだろうと決めつける流れもあったのだろうと推測します。美も力ですから、女が力を持つのを許せないミソジニーなホモソーシャル構成員たちが貶めようとした可能性も高そうです。

さらには第二次大戦以降では、アーリア人の優位性を主張したナチスのドイツ人に金髪が多いから、戦後ユダヤ人が多いハリウッドのプロパガンダで金髪に悪いイメージを植え付けた。だから悪役に金髪が多いんだ!なんてコメントも見て、ありそうな、なさそうな、かなり陰謀論っぽいな…なんて思ったり。

でもいつ頃からかハッキリわかりませんが、学園物でチアリーダーのカースト上位女子が金髪。そして高慢で意地悪で主人公を虐めるって定型が広まりました。海外記事を見ても、それはメディアが作り上げたと大抵書かれています。

キルスティン・ダンストの「チアーズ!(Bring it On)」でチアリーダー映画が2000年に登場して、

2004年のリンジー・ローハンの「Mean Girls」辺りでこの定型が完成したんじゃないかな?と個人的には思っています。


”金髪がおバカ”というイメージはマリリン・モンローの時代でも既にあったわけで「紳士は金髪がお好き」でも金髪のマリリンはちょっと抜けている風に描かれ、相棒のブルネットの踊り子役ジェーン・ラッセルはしっかり者の設定でした。

ちなみにマリリンのこの映画は1953年で既にリメイク。元々は1925年小説を元に1926年に舞台化、1928年に初映画化、1949年にミュージカル化という流れがある。20世紀初頭からこのDumb Blondeステレオタイプは浸透していたということですね。

あと金髪のステレオタイプには3つの分類があるそうで、
1:アイス・コールド・ブロンド・・・グレース・ケリーとかが代表だそうで、一見冷たい外見だが内なる炎を持つタイプだそう。「氷の微笑」のシャロン・ストーンなんかもこのカテゴリーでしょうね。
2:ブロンド・ボムシェル・・・セックスシンボル。グラマーな女性の象徴として。男性にとっての賞品的存在。ブリジット・バルドーやマリリン・モンロー、ちょっと前ならパメラ・アンダーソンとか。
3:ダム・ブロンド・・・おバカな金髪カテゴリー。自然に漏れ出るセクシーさと無知が特徴。例に上がっっていた方々は往年の女優過ぎてピンと来なかったですが、ゴールディー・ホーンとかパリス・ヒルトンなんかはスレンダーだからココかなと。

しかし調査によると、白人女性の中で最もIQが高かったのは金髪女性だったそう。そして金髪女性が最もお金を稼いでいるという調査結果があるものの、会計士の仕事に申し込むとブルネットの方が採用率も高いし、給料も高く評価されるんだそう。ここに人事側には金髪よりブルネットの方が賢いという刷り込みがあるということですね。

Dumb Blondeのイメージを逆手に取ったのが「プリティ・ブロンド」
おバカっぽいけど頭も良くて弁護士になり、正義感もあって誰にも優しい。


こうして見てくると、金髪のイメージが美しい→おバカ→意地悪 or 実は賢いなどと、色んな方面の思惑で変化してきたということです。しかしどのイメージも根強く残っているのも感じます。

そして今回考察していて気付いたのですが、ゲイムービーの金髪ポジション(色素薄い系)に、このDumb Blondeの刷り込みを感じることができるのです。(前置きが長かった(;^_^A)

明らかにバカとか頭が足りないという描写はないですが、金髪キャラ(色素薄い系)が大抵悩んだり、ウジウジしたり、優柔不断だったりする。
一方で黒髪キャラ(色素濃い系)の方がしっかりしている場合が多い。しっかりというか、セクシュアリティについては悩む段階を過ぎて性自認が確立してる側だったり、金髪キャラを導く役だったり。

たとえば「ブロークバック・マウンテン」だと黒髪のジャックはゲイであることを先に自認していて、ずっとウジウジしている金髪イニスに一緒に暮らす夢を語ったり、何かを求める、導こうとするのは彼の方。
「君の名前で僕を呼んで」も、黒髪エリオの方が積極的にグイグイ押して、躊躇し続けていた金髪オリバーを押し切ります。
「God’s Own Country」も、色素濃い系ルーマニア人のゲオルゲが懐深く受け止めたり包み込む側。
「Heart Stopper」でも金髪ニックはセクシュアリティに悩み、黒髪チャーリーは性自認は先に完了し、ニックを見守って待つ側になっていた。

勿論例外はあります。
「シチリア・サマー」では金髪ニーノの方がグイグイ引っ張るし、まっすぐ受け止める系。黒髪ジャンニの方がゲイ・ヘイトに苦しむいじけ気味のキャラ。
「ベニスに死す」も金髪タジオは悠然としているのに対し、黒髪アッシェンバッハはタジオの美しさに振り回されっぱなし。


ということで、ゲイムービーを撮る監督の中にもDumb Blondeのイメージは刷り込まれていて、どこかでそれに引っ張られているのではないかと。
そして金髪二人で二人ともおバカで優柔不断だとストーリーが成り立たないし、黒髪二人しっかり者同士でもストーリーが始まらない。必然的におバカな金髪キャラとしっかり黒髪キャラになる…というのが私の仮説です。


悲劇的結末が多い理由を考える

これは主に二つ。

ひとつは時代背景
同性愛禁止時代を舞台にしたものは大抵悲劇的結末になります。
ソドミー法として各国で施行されていた。撤廃時期はそれぞれ。大体1960年代~80年代ぐらいの間。イギリスは1967年まで、スコットランドは1980年まで。イギリス連邦の国々も大体それに従っていた。ソドミー法が法律に無い国も、この辺りまでは抑圧は強かった)
同性愛禁止時代のイギリスを舞台にした「モーリス」は最後に一応結ばれるので結構画期的。しかし最初の恋人とは成就しないので、ある意味五分五分かな?

ソドミー法が撤廃された後にもうひと波来るのがエイズ禍。80年代半ば~90年代前半ぐらい。エイズが描かれる映画でハッピーエンドなんてあったっけ?多分かなりレア、ほぼ無いはず。

そしてもう一つの理由は、ギリシャの影響
”「自然の中に行く」意味を考える”の章で書いた通り、ルネサンス期のヒューマニズムはギリシャ、ローマへの古典主義、懐古主義から来ている。同性愛とヒューマニズムとの関係を考えた時、大元のギリシャに繋がるわけです。

そしてギリシャ神話、物語、演劇などは基本悲劇が多い。
「Greek Tragedy」(ギリシャ悲劇)として一つの常套句になっているほど。
なのでゲイムービーで悲劇が多いのは、ある意味その様式美に沿った形なんだと思います。悲しみの美学。
「君の名前で僕を呼んで」でもギリシャ彫刻や遺跡が出てくるし、「モーリス」でも冒頭に遺跡見学なんかをしてます。これは脚本家のジェームズ・アイボリーの趣味かもしれませんけど、ギリシャ悲劇の影響を示唆している。

あとこれもギリシャの影響を感じる部分。
ネトフリのゲイ作品「ニュー・オリンポスで」

1970年代から2010年代まで40年に渡る二人の男性の物語。ニューオリンポスというのは二人が出会ったハッテン映画館の名前なんですが、「Nuovo Olimpo」新しいオリンポス。オリンポス宮殿はギリシャの象徴。つまり、その小さい映画館の中だけはギリシャ時代のように同性愛が許される場所という隠喩表現だと取れます。
スペインのアルモドバル監督の「Bad Education」でも序盤に、ガエル・ガルシア・ベルナルが女装のショー(ドラァグクイーンの走り的な)をしている場面があるのですが、その劇場の名前も奇しくも「CINE OLYMPO」でした。

しかし各国で同性婚の合法化が進み、多様性が浸透してきて、今までのバッドエンドばかりだったことへの反発もあるのでしょう、ここ最近はグッとハッピーエンドの作品が増えてきました

アマプラで昨年リリースされた「Red White & Rotal Blue」とかはラブコメですから、80年代の空気感では絶対に作られなかった作品です。90年代くらいからゲイ作品でもコメディ(及びコメディ要素)はチラホラ出ては来てましたが…。

サムネ通り水辺シーンもある。バイクは無かったけど自転車並走はチラッとある。ついでにピアノ連弾なんかも。金髪&黒髪の見事なコンビネーション。序盤は金髪ヘンリーが引っ張っているようで、最後は悩むヘンリーを黒髪アレックスが引っ張って支えて決めてくれる。ハッピーエンド。ゲイムービーの定型を抑えつつ、結末は今風にアップデート。

ヘンリーを演じたNicholas Galitzineニコラス・ガリツィン「Handsome Devil(ぼくたちのチーム)」でもゲイ役やってました。この頃はちょっとふっくらしてるのかな?そして黒髪。地毛はどっちなんだろう?

そして今年は「MARY &GEORGE」というドラマでジュリアン・ムーアと母子役で共演。

息子をイギリス王ジェームズ1世の愛人にして成り上がろうとする話だそうで、またゲイっぽい役です。ゲイのイメージが付くから嫌だとか言うのではなくオファーは何でも貪欲に取り組んでいく姿勢、イイと思いますw。

ジェームズ1世もゲイの王様だったのですね。昔エドワード2世がゲイだという映画もあったはず。ジェームズ1世の王位は1603年~1625年。領主による衆道全盛期の戦国時代~男好きだったと言われる徳川家光(将軍期間1623~1651)とほぼ時代が被ってる。イギリスとは島国や君主制だった以外にも共通点があったんですねw。ジェームズ1世はエリザベス1世に殺されたメアリー・ステュアートの子供、なるほど。


所々、そして最後も話が脱線しましたが、この記事は私の思考の軌跡の記録ですので、どうかご了承くださいませ。

ということで、ゲイムービーに出てくる色々な記号の意味を探ってみました。コレからゲイムービーを見る時には、アッまた水辺シーンがある!バイク乗っちゃってる!とニヤニヤしてもいいし、それはどの意味に当て嵌まるのだろうと考えてもいいし、何も考えずに眺めていてもいいし、楽しみ方に幅が出るのではないでしょうか?

長い記事をここまで読んでくださりありがとうございます。
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