Viaの本棚より ロンドンのパブからシカゴのマックスウェル・ストリートへ
「本で旅する Via」はInstagramに、店の棚に並ぶ本の書影をアップしています。日々のコメントをまとめてみました。
7月23日(土)『パブの看板』
先日、イギリスのジョンソン首相が辞任の意向を示し、その後継を決める、保守党の党首選の行方が日本でも報じられています。
また数日前にはイギリスを熱波が襲い、観測史上初の40度を記録したとか。ロンドンの緯度は北緯51度ですから、北海道より北に位置します。異常気象といってさしつかえないでしょう。
そんな熱波に見舞われながら、熱い選挙戦が繰り広げられるイギリスですが、パブではどうでしょう? 熱い議論が交わされているでしょうか?
パブは、教会、学校と並び、イギリスのタウン(街)の三要素と呼ばれるほど、欠かせないもの。飲み屋というだけでなく、タウンの社交場です。
しかし、ビールの消費量が減少傾向にあるなか、コロナ禍でパブの窮地が伝えられているのを耳にもしました。
時代のすう勢かもしれませんが、英国の街の風景として次世代につないでいってもらいたいものですね。
パブの歴史をたどりながら、ビールをちびちび。弊店でイギリスへ思いを巡らせる、休日はいかがでしょう。
7月24日(日)『イギリス・カレー伝』
昨日の『パブの看板』に続いて、本日もイギリスの話題を。現在、イギリスの事実上の首相を決める、保守党の党首選のさなかですが、そのトップを走るのは、スナク前財務相。当選すれば、初のインド系、アジア系のイギリス首相が誕生することになります。それも42歳です。どこかの国と異なり、政治のダイナミズムを感じます。
スナク氏のご両親は、父親がケニア、母親がタンザニアの生まれで、1960年代にイギリスにやってきたそうです。流動的であり、大英帝国時代の名残を感じさせる背景です。
その大英帝国時代、人だけでなく、インドからイギリスに渡ったのがカレーです。カレーなる総称を名付けたのもイギリスであって、インドにそもそもあったわけではありません。カレー粉が生まれたのも、イギリスです。
そしてスナク氏は、大学時代にカレーハウスでウェイターをしていたこともあったらしい。1990年代にしてもそんなものかと思いましたが、なんともわかりやすいエピソード。オックスフォード大学出身、首相の座をねらうインド系のエリート英国人はいまどき、どんなカレーを好むのか、ちょっと聞いたみたくなりました。
7月26日(火)『トウガラシのちいさな旅』
前回、インドからイギリスに渡ったカレーの歴史をひもといた『インドカレー伝』の表紙を投稿しました。
インドカレーに欠かせないスパイス、いやナス科なので、野菜といったほうが正確でしょうか、が、トウガラシです。
いまやインドが最大の輸出国となっていますが、原産地は中南米というのは、有名な話。アステカの王は、トウガラシ入りのチョコレートドリンクを飲んでいたというのも読んだことがあります。
コロンブスが新大陸を発見し、そこをインドと思い込んだのか、あえてそう言い張ったのかはともかく、トウガラシをコショウと呼んだことから、英語にも「レッド・ペッパー」と「ペッパー」の呼称が付けられたと、よく紹介されます。
中南米からめぐりめぐって、ヨーロッパへ、インドへ、アジアへ、韓国、日本へ。まさしく世界中を旅した、香辛料、野菜です。
「トウガラシのちいさな旅」は、そんな越境するトウガラシをダシに、メキシコなどのグローカリズムについてふれた、同名書籍(白水社、2006年)の論評のひとつです。
作者の越川芳明さんは、アメリカの作家、スティーヴ・エリクソン作品の翻訳者としてしか存じ上げていませんでしたが、略歴によると、90年代後半から国境地帯の人びとの「声」と「歌」を聴くために、精力的にフィールドワークを行っていたのだそうです。
『トウガラシのちいさな旅」はボーダー文化論と銘打たれ、
・米国・メキシコ国境ー〈周縁〉から見た世界
・ラテンアメリカーグローバリゼーションへの抵抗
・タンジールーポール・ボウルズと異世界への旅
・オキナワーウチナー・イナグの肝(ちむ)
という章立てから成ります。いかにもゼロ年代っぽい構成かもしれません。いまではあまり見かけない一冊かと思いますので、お気に召したら、弊店で手に取ってみてください。
7月26日(水)『鼻もちならないガウチョ』
さて昨日投稿したのが、『トウガラシのちいさな旅』です。トウガラシはスペイン語で、Chile(チリ)とも。そんなこんなで、本日はチリの作家の作品を投稿します。
『鼻もちならないガウチョ』(ロベルト・ボラーニョ著、白水社、2014年)。短編集です。
表題作の『鼻もちならないガウチョ』のガウチョとは、牧童のことで、英語でいうならカウボーイ。カウボーイといわれると、西部劇の影響か、どこか勇ましい感じがしますが、ガウチョというと、谷啓(敬称略)のギャグが漂い、どこかユーモラスに響きます。
そのとおり、本作はブエノスアイレスの老弁護士が、パンパ(懐かしい。中学時代に地理の教科書に出てきた草原地帯)でガウチョを気取って暮らしてみる、というお話です。訳者の久野量一さんの解説によると、それはさながら、「ドン・キホーテ」さながらの時代遅れ感があるらしいです。
自身がアルゼンチン・チリ南部国境のパタゴニアを訪ねたのはもう20年も前になるかと思いますが、移動中の荒野でガウチョ風の人物を見かけて写真に収めたことを思い出しました。そしてガウチョ料理の、すっごい肉の塊の炭火焼き、アサードが当地の名物です。そのごっついボリューム感は覚えていますが、味は記憶になく……。いつかもう一度、食べに行きたいものです。遠いですけれど。
ビールをちびちびやりながら、ボラーニョの短編を読むひとときは、いかがでしょう。お待ちしております。
7月27日(木)『パタゴニア』
昨日、アルゼンチンとチリの南部を指す、パタゴニアについてふれました。
今日の書影はずばり、『パタゴニア』(ブルース・チャトウィン著、河出文庫、2019年)です。
パタゴニアといえば、もっぱらアウトドア・ウェア、かもしれませんが、旅先としては、世界自然遺産のペリトモレノ氷河に、同じく世界遺産のパイネ国立公園や名峰フィッツロイが知られます。
それらが旅行先として超・魅力的であることは、疑う余地のないところです。しかしこのチャトウィンの1977年に発表された旅行記には、それらはまったく主題にはなりません。
一角獣の話題だったり、映画『明日に向かって撃て』に描かれた実在の2人組の強盗のひとり、ブッチ・キャシディが生き延びてパタゴニアを旅したという話だったり、アナキストの話だったり、旅をしながら出会った人々との道行が紡がれていきます。
すれ違う人々はウェールズやイギリスからの移民だったり、イタリアだったり、なかにはスペインはカナリア諸島、テネリフェ島の出身だったり、あちこちからパタゴニアへやってきました。皆が旅人のようで、人生を旅していて、読んでいると、どこか浮遊感が漂います。読者を(パタゴニアなんだけど)知らないどこかへ連れて行ってくれます。
冒険家の角幡唯介さんは、帯にこう寄せています。
「人間の物語が刻まれた大地を泳ぐように旅している。時間と空間を自由に行き来し、そこから紡ぎ出されるパタゴニア。こんな旅をして、こんな本を書いてみたい。」
ほんとうに、そう思います。
池澤夏樹さんの解説も、チャトウィンの人となりにふれ、読み応えがあります。
7月28日(金)『僕はマゼランと旅した』
さて昨日は、ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』を投稿しました。
このひと月、店のことで頭がいっぱいで、ぜーんぜん知らなかったのですが、岩波ホールで上映される、最後の作品が、ドイツの名匠、ヘルツォーク監督が、生前親交のあったチャトウィンの旅の足跡を追ったドキュメンタリー映画『歩いて見た世界』とのこと。
残念ながら上映は今日まで。つまりは岩波ホールも今日まで。どんな映画館も閉じてしまうのは悲しいことです。
岩波ホールといえば、リリアン・ギッシュの『八月の鯨』やギリシャのテオ・アンゲロプロス作品などが思い出されますが、実際どちらも鑑賞しているわけではありません。まだ東京に出る前のことで、高校生か浪人生の頃か、映画雑誌や創刊されたばかりの『SWITCH』誌上などで見かけたのだと思います。東京ではこんな映画やっているのかと。
大学生になって東京に出てきて、岩波ホールで初めて見た映画はもはや思い出せないのですが、映画の鑑賞後、なぜか、いもやで天丼を食べた記憶だけが残っています。
話がそれました。
チャトウィンの『パタゴニア』では、その地名の由来についてふれています。大航海時代の探検家マゼランが、モカシンを履いた先住民の姿を目にして「パタゴン(大きな足)」と呼んだことから、というのが定説になっています。
これに対してチャトウィンは、16世紀に出版された騎士道物語『ギリシャのプリマレオン』に登場する怪物『グランド・パタゴン』に由来にするのではないかと推察しています。
そんなこんなで、本日の一冊は、パタゴニア、そしてマゼラン海峡の名付け親であるマゼランから取って、『僕はマゼランと旅した』(スチュアート・ダイベック著、白水社、2006年)。
もっとも、マゼラン本人と物語は関係はなく、タイトルになっている、『僕はマゼランと旅した』は、語り手の弟の少年、ミックが自作した奇怪な歌の曲名です。
本書はシカゴの舞台にした、記憶の旅を音楽とともにめぐる11の連作短編。店にあるのは、奥付を見ると、3刷で、売れ行きは良かったのでしょう。
なかには昔お読みになった方もいらっしゃるかもしれません。翻訳者の柴田元幸さんは、一度ならず二度読んでほしいと解説に書かれています。本書を読んだ当時の記憶をまさぐりながら、もう一度、物語の世界を旅してみるのもいいかもしれません。
7月28日(土)『カオスの社会史ー戦間期シカゴのニアウエストサイド界隈』
昨日投稿したのは、『僕はマゼランと旅した』。著者のスチュアート・ダイベックの代表作とされるのが、この『僕はマゼランと旅した』と『シカゴ育ち』。ともにシカゴを舞台にした作品です。
ということで、今日はシカゴのダウンタウンの西に位置した、ニア・ウエスト、マックスウェル・ストリートについて書かれた『カオスの社会史ー戦間期シカゴのニアウエストサイド界隈』(高橋和雅著、彩流社、2021年)をアップします。
位置した、というのは、ストリートの一角で開かれていた「マックスウェル・ストリート・マーケット」が1994年に撤去されてしまったからです。現在は別の場所で、その名を冠せられた、路上マーケットが存在し、賑わっているそうです。
マックスウェル・ストリートの名をブルーズとひもづけてご存じの方もいらっしゃるでしょう。1930~40年代、そこでは路上ライブが繰り広げられていました。ブルーズの巨匠、マディー・ウォーターズやブルーズ・ハープの革命児リトル・ウォルターがしのぎを削っていたというのですから、その光景はさぞや熱を帯びたものだったでしょう。
マックスウェル・ストリートがシカゴ・ブルーズの聖地となったのは、そこに黒人の居住区があったからです。ここいらに人が住み始めたのは19世紀の中頃のことらしいです。初めにアメリカ移民最初期のドイツ系やアイルランド系の移民がやってきて、彼らがやがて、老朽化した建物を捨てて別の場所へ引っ越していくと、安価な賃料にひかれて、ユダヤ系の人びとが暮らし、彼らが出ていき始めると、黒人系の人びとがやってきたのだといいます。
誰も好き好んで自分が生まれた土地を離れたいわけではありません。食べられないから、欧州から新大陸へ渡り、ユダヤ系はとくにロシアから海を渡って来た人が多かったようですが、それは19世紀後半から激化したポグロム(迫害や暴力行為)から逃れるためでした。
また第一次世界大戦でヨーロッパからの移民が減ると、代わりに安い労働力を得たい北部の資本家と、南部の抑圧から抜け出たい黒人の利益が合致し、黒人たちは北上していきます。
こうして交通の要衝であったシカゴに多くの黒人が移動してきたのです。
1930年代、シカゴのウエストサイドには、イタリア系、ロシア系、ポーランド系、チェコスロバキア系、ギリシャ系やメキシコ系、さらに黒人たちが隣り合って居住区を形成していたそうです。
この時代、そこでたまさか花開いたのが、マックスウェル・ストリートの人種を超えたマーケットの活気やカオスだったのです。
カオスというと、マイナスのイメージを帯びているかもしれません。しかし人びとが集まり、人種などの“境界”が溶け合って磁場と化したそこでは、ほかにはない「力」が生まれました。
しかしそれもつかの間、カオスを嫌う人びと、空気が、それをなきものにしてしまいます。マックスウェル・ストリートもその憂き目にあいました。
他方で、細々、脈々と、その賑わいを守ろうと、マックスウェル・ストリートの名は、いまも受け継がれています。
オリジナルのマックスウェル・ストリートが賑わいを見せていたのは、たかだか80年前、70年前のことです。この100年、相当加速して、変化していることを思わされます。
在りし日のマックスウェル・ストリートのカオスの空気を感じに、時空を超えて、本の〝旅〟へ出かけませんか。
そうそう、マックスウェル・ストリートは、映画『ブルース・ブラザース』の舞台でもあります。
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