物作りの血とカルマ ① 現在地
プロローグ
私の家系は3代に渡って機械工だ。
祖父は戦時中、高知から広島の呉へと出てきて、現在のIHIの場所にあたる旧呉海軍工廠で、戦艦大和の大砲を旋盤で削り出していたと、嘘か真かアル中の親父はしょっちゅう自慢げに語っていた。
その親父も、中卒で丁稚奉公のため大阪へと出て行き、そこで旋盤士としての技能を身に着けたらしい。
私自身も、そんな血を引いてか物作りが好きであり、幼い頃に預けられた児童福祉施設では、自分に与えられた粘土だけでは足りず、他の子供のを奪ってまで恐竜作りに没頭したりと、福祉士さんを驚かせていたようだ。
親父の虐待によって、様々なトラウマが植え付けられ、機械工にはなりたくないと思っていたが、やはり血は争えないというか、いつの間にか自分もフライス盤の仕事を生業にするようになっていた。
洗っても落としきれない、作業着に染み付いた機械油の独特な臭いは、遥か昔の、子どもの頃の記憶の中、親父の作業着から漂っていたのと同じであり、それを嗅ぐとなぜか安心するのは皮肉なものである。
親父は旋盤だけの単能工だったが、私は様々な会社を渡り歩くうちに、NCフライス盤や汎用旋盤、平面研削盤、横ボール盤、CO2溶接にTiG溶接、エアルーターによる金型チューニングや2DのCADによる設計など、様々な技能を習得してきた。
正直アナログ人間なので、マシニングセンター(プログラミングによって稼働する、全自動の工作機械)は苦手だが、いつか5軸と呼ばれる自在な切削加工が出来るマシンを習得したいとは思っている。
機械を自由に操り、1/100ミリ、時にはそれ以上の精度でステンレスやチタン合金、ジュラルミンなどを削り出し、思い通りの形に仕上げるには、どんな切削用の刃物を使うか、ワーク(材料)をどのようにバイス(万力)にセットするか、どの順番でどこから削り始めるか等、制作する品物毎に違うので、図面を睨み、最短時間などの様々な要素を考慮しつつ次の工程を先読みしながら、Gコードと呼ばれる機械を動かすプログラムを打ち込んでいく…
華やかさなど微塵も無いが、日本はそうした物作りの中小企業と職人によって支えられ、大企業もそれらの技術力に依存している。
しかし、はっきり言って工業の世界は3K、5K、斜陽の産業だ。
油や切り粉まみれになって働いても、この30年、平均給与は上がってはいない。
割に合わなくて、後を継ぐ若者もおらず、廃業する中小企業も後を絶たない。
にも拘らず、大企業は中小企業にコストダウンを押し付けて、自らは最高益を叩き出している。
そしてそれは決して下々に還元されることは無い。
全く救いようのないジリ貧の中、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びながら、風前の灯のようにほそぼそと技術を繋いでいるのが現状だ。
最近就職した会社は、周りの同業者の廃業が相次ぎ、他に持って行き場が無いと言うことで、その仕事を肩代わりする事でてんてこ舞いとなり、試用期間中の私にも容赦なく沢山の図面がまわってきた…
それが今ここ、私の現在地だ。
だが、今回の自分はラッキーだった。
現職場は就職情報サイトではなく、一日4hのパートのフライス工の募集として、ハロワに出ていたものだ。
首都圏外でも探していたので、灯台下暗しでる。
ここ数年の自由人的な生活や、フリーランスにも未練があるが、生きるために働かなければ。
たまたま1年ほど働いた前職の造園業は、請負の形をとっていたので自由も効いて楽しかったが、収入は不安定で身体的にもかなりハード、危険も伴う仕事だった。
ずっと続けるにはリスクが大きく思われた。
今回の求人は、内容が面白そうだったし、半日と言う条件なら、逆に色々融通が効くかもと考えて、生活出来る程度に時間も増やせるかどうかとハロワの担当者に尋ねると、
その場で電話してくださり、後日面接の時に話しましょうとなった。
まあ、いい年してなんとも甘っちょろい考えである。
正直、50代の転職は難しい。
どの業界でも人手不足のハズなのに、ここに決まるまで何社も落ちた。
もちろんそれはフルタイムでの話である。
派遣会社を通すとなると、そこの看板もあるのでより審査は厳しいように感じる。
実際、ある派遣会社の担当者からは、「細かい仕事、老眼は大丈夫?」なんて、あからさまに失礼な態度で電話越しに言われ、それっきり音沙汰なしなんて事もあった。
で、結局、就職した会社で、前述の派遣会社の派遣先(立川の◯◯飛行機)の仕事を受けてやってるんだからアホみたいな話だ。
まあ、その担当者が無能なお陰で今の会社に入れたので、一応感謝はしておくが。
ちなみに現職場の同僚のみんなは、殆ど老眼である。
確かにスキルがあっても、その会社にマッチし順応できるかは、やってみなければわからない。
なまじ経験があると、これまでのやり方に固執してしまい、そこの社員と軋轢が生じることは珍しくないし、自分より若い人から、その会社での流儀を教えられる事に抵抗を覚えるなんてこともあるだろう。
つまり、何歳であろうが、職歴がどうであれ、転職先では自分が1年生であることを受け入れられるかどうかも、プライドの高い職人の世界では特に難しい問題と言える。
雇用する側としても、日本の社会はリスクヘッジに重きを置きすぎてチャンスを自ら狭めているのに、人材がいないと嘆いているように見えるが、まあ、自分が同じ立場だったら似たような選択をしてしまうのかもしれない。
指定された日時に面接に伺うと、小さく古い社屋ではあるが、沢山の工作機械が稼働していた。
いわゆる町工場だ。
ところどころサビた階段を上り、昭和な雰囲気の事務所のプリントベニヤの扉を開けると、これまで会ったことの無いような、温和な感じの社長さんが出迎えくれた。
話を聞くと今回の募集は、フライス工の職人さんが定年退職されたため、後がまを探して募集を掛けていたが、なかなか人材が見つからず困っていたとのことだった。
前情報として、こちらの会社はインスタグラムもやっていて、工業部品だけでなく、以前はオリジナルの焚き火台などもアマゾンで販売していたのを知っていたので、
自分も趣味で釣具を作ったりしていると言うと、これまたルアーのスプーンを作って売ったこともあると返ってきた。
既存の仕事だけでなく、他の分野へとチャレンジする姿勢には心惹かれ、もしかしたら何か化学反応があるのではと感じられ、希望が見えてきた。
そんな事を話しているとだんだん意気投合してきて、では7月1日からと言う事ですんなり決まった。
それまでの就職活動の苦しさが、まるで嘘のようだ。
まあ、それもスピな方面から言えば、紆余曲折、エゴの明け渡しを迫られての事も大きく絡んでいて、独り身ではあっても、自分だけの人生ではないと言う事に気付かされた結果として下した選択だったから、上手く行ったのだろうと思う。
で、現在ちょうど2ヶ月が経ったわけだが、フタを開けてみると懐事情や会社の忙しさもあり、結局フルタイムどころか残業までしていたりする。
9月からは正社員だ。
社員のみんなも殆ど同世代、これまでにないほど良い人たちで、毎日親切に教え、フォローしてくれて感謝しかない。
やはり自分はフリーランスよりも、軛を繋がれていなければダメなんだろうかと苦笑いもしたくなる。
まあ、noteを始めた頃がドン底だったので、いつかは体制を立て直さねばと思っていたから、良い機会だ。
" 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 "
と良く言われるが、私の人生には全く当てはまらないようだ。
いや、人生100年なんて言われる時代なんだから、もっと間隔は伸びていて、未だ猶予が有るんじゃないの?とも思うが、どちらにせよ天命を知って悟りを開くのは、残念ながら今生ではない気がしてならない…
人生の節目が訪れる度、こうした助けが差し伸べられ、五体満足で大病を患うことも無く今も生かされている事には感謝の他ない。
では残りの人生で何をするのか?
または、何をすべきでないのか?
いい加減、足るを知るべきで、色々な可能性を放棄すべきなのか?
今更そんな事、これまで散々考え尽くして来ている筈だが、解らない。
なぜ、こんなにも思い通りにならないのか、何がそれを押し留めているのか?
そう思わずにはいられない。
何か他に因果があるのではないか…
人間の行動は、顕在意識ではなく、普段は表に現れない潜在意識に支配されていると言われている。
その中には、動物的な防衛本能やトラウマによる刷り込みだけでなく、もしかしたら
" カルマ " も潜んでいるのでは?と、いつしか考えるようになった。
これは思い通りにならないことを、自分以外の何かに責任転嫁したくて言っているのではなく、真面目な話だ。
では、そのカルマはどこから来たのか?
それは、もしかしたら自分の家系、ルーツを辿れば何か解るかもしれない…
そうした思いから去年の春、長いあいだ気になっていたある場所へと旅に出たのだった。