皆チガッテ、皆イイ:僕のヒーローアカデミア
皆
「皆違って、皆いい」というものが、金子みすゞの文言の中にある。
それは、個々人の個性を尊重するものか
はたまたある意味で、万物は等しく同じものだと暗喩しているものか
言葉というものは不思議なもので
捉え方次第で、どのようにも解釈できてしまう。
不図、この「皆違って、皆いい」という一言を、「僕のヒーローアカデミア」という作品に当てはめると、どのように解釈が可能なのか、ということに考え及んだ。
「皆違って、皆いい」。「個性」という要素が、作品の中で極めて大きな役割を担う「僕のヒーローアカデミア」だからこそ、余計に切り離せない気がする。(実際に、「皆個性的でいいね」という題の回があるくらいだしね)
僕のヒーローアカデミア
「僕のヒーローアカデミア」は、良くも悪くも、典型的な空想を描いている作品であろうか。
「個性」と呼ばれる、突然変異と言い表すことすらも不十分に感じられるほどの、超常現象。海を超え、山を越え、世界に蔓延する運命のいたずら
緑谷出久という小さな小さな少年が、No.1ヒーローを目指す作品であると共に、「個性」という違いが、社会でどのような意味を持つかを描いている作品であるとも考えられる。
では、「皆違って、皆いい」という言葉は、この物語において、どのように捉えられるか。
その前に、僕のヒーローアカデミア内の、「個性」に関わる諸々のことを書いていきたい。
「個性」
当然のことながら(?)
作品においては、「個性」は千差万別。
今思い出せるものを書いてゆくだけでも、例えば
無機物のサイズを可変させる。マングースっぽいことが出来る。髪を剣の様に扱える。腕を複製できる。身体を分割することができる。結晶を生み出すことができる。分解と修復。爆破。任意の場所から二連撃目を与えることが出来る。振動を発生させる。身体を折りたためる。物体をこねて固くすることができる。炎を操る。毒霧を発生させる。などなど。
実に様々だ。これらは私が今考えてテキトーに書いたものでははない。作品に実際に登場する。
しかしながら、これほど多種多様な「個性」が存在するというのに、社会そのものは、日本の現実のそれと大差はない。警察もいる。学校もある。民主主義に則っている。政府も存在する。例を挙げればきりがないが、兎にも角にも現実の日本社会との大差はあまり見受けられない。だが、「個性」というたった一つの超常現象の有無が、「現実」と「僕のヒーローアカデミア」という差を生み出しいていると考えると、これはやはり「個性」がいかに大きな存在であるかということを示す証左に他ならない、と感じられる。
「僕のヒーローアカデミア」」という世界では、「個性」に関わる事柄、団体、人間、価値観、多様性が、当然のことながら、現実社会とは異なっている。
ではだからとって、「皆ちがって、皆いい」という文言が、この素晴らしき架空の物語のように、そのまま反映されているかと言われれば、私はそうとは思えない。
「個性」は、まさに「混沌」「混乱」のさなかにある。
僕のヒーローアカデミアの作品内では、
民主主義のように、互いの利益を損なわないように公然での使用は禁止であるし、認可された者だけしか公共での使用は許されない。「個性差別」「個性婚」や、個性(異能)を解放しようという、どこかニーチェの現代の病理を批判するような態度に似ている組織や、はたまた個性(異能)の存在そのものを悪と見なす排斥集団もいる。まさに混沌。プルス・ケイオスって感じですね。
「個性」は、人々の可能性を拡げうるものであると同時に、人々の格差を引き起こしやすいものでもある。
「個性」には、「異形型」と「発動型」という大きく分けて二つの区別がある。(おそらく合っていた気がする・・・!)
異形型は、自分で意識していないくとも、目に見える形で、「個性」が表出しているタイプ。例を挙げるなら、USJ襲撃編で、イレイザーヘッドが捕縛していた相手や、鎌切尖のように、通常の人間からはかけ離れた人がそのタイプに区分できるかもしれない。
発動型は、自分で意識して、「個性」を発動することが可能なタイプ。ゼロ・グラビティや、反冷反熱、スティールなどが充たる。
しかし、今このように「異形型」「発動型」と大別したものの、これらの複合型や、意識的にその「異形型」「発動型」を操る特殊な「複合型」も一応存在する。
と、ここまで書いてきたのだけれども、畢竟私の言わんとしていることは、「個性」自体も、「個性」を取り巻くあらゆる環境も、極めて複雑であるということだ。
故にこの「個性」はある意味では、非常に恐ろしいかもしれしれぬ側面を持ち合わせている。それはやはりというか、人と人の「差」に連関してくるもの。私の目には時々、この「個性」という存在が人間を解り易く示す指標と成り得る、偏差値の如きものに思えてしまう。
個性の公共の場での禁止、すなわち(一つ一つは小さいかもしれないが)、抑制するには強大すぎる力の(仮初の)の抑制。それ故の、人ひとりを判断するには十分な指標。たった一つだが、どこかの国の偏差値のように、どういうわけか、人を見るために使われる傾向のある、一種の病理。
その病理の何相応しい、かどうかは断定しかねるが
「個性」によって、人々は判断されてしまう。
それはヴィランと”呼ばれる”側に居る人たちに多く見受けられる。
例えば、渡我被身子。彼女の個性は、他人の血液を摂取することによって、その人物に完全に紛れることができるという代物。(人間だけというが、これから個性が進化して、それ以外のものに変化することができたら、ものすごく強い)
彼女は、この「個性」と、周りの彼女の個性に対する対応や環境が原因となり、「ヴィラン」と呼ばれる、「悪」と”される”側にいる。
例えば、トゥワイス。彼の個性は、自分で具体的にイメージを思い浮かべることが可能な対象(人や物、そして・・・?)を、作り出すことができる「二倍」という「個性」。彼の場合は、そもそもの原因として「個性」が彼の人生を狂わせたというよりも、偶然起こった「ある一日の」出来事を境に、その個性の性質が彼の人生に深くかかわって来るというもの。
遅かれ早かれ、「個性」がその人間の評価に繋がるというだけではなく、その人間の静穏な?人生を剥奪するということもありうる。「個性」は確かにある人間の所有物であるかもしれないが、だからといって思うがままに操れるというわけではないことは、「僕のヒーローアカデミア」を読んでいると、火を見るよりも明らかに痛感させられる。
ヴィランは、「皆」に含まれますか。
ヴィラン、もしくは指定ヴィラン団体の「死穢八斎會」に居るような、窃野トウヤ、宝生結、多部空満などは、確か「個性」によって極端な評価を下されたり、人間関係が破綻してしまって、「個性」を悪用するようになる典型例である。(ヴィランはほとんどがそうであるけれども・・・)
ここで疑問である。
「皆違って、皆いい」に、「ヴィラン」と呼ばれる人たちは含まれているんだろうか?
あぁ、確かに金子みすゞが意図したものとは趣旨も解釈も異なっているかもしれない。しかし私は、現実のようでなくて、何処か現実味のある「僕のヒーローアカデミア」を通して、この文言を捉えたいということをもう一度書いておく。
ヒーローと対になってしまっているヴィランは、その「皆いい」には含まれてはいないようだ。
この「皆違って、皆いい」というのは、個々が能力を最大行使できるというわけではないのだろう。
「僕のヒーローアカデミア」という作品は、大好きだ。
でもその作品の裏にちらほらと見えてしまう、現実を反映しているような「皆ではない皆」が当然の如く無視されているということに、違和感を覚える。
「僕のヒーローアカデミア」という胡蝶の夢の誇張
この「僕のヒーローアカデミア」」という作品は、
もしかすれば、この日本においてだけではなく、現代の「民主主義」や「平等」、「同質」、「公平」が内包する、「格差(ヒーローとヴィラン)」を誇張したものなのではないだろうか。
是に関連させて、『ファクトフルネス 10の思いこみを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』から引用をしたいと思う。
人間はいつも、何も考えずに物事をパターン化し、それをすべて当てはめてしまうものだ。しかも無意識にやってしまう。偏見があるかどうかや、意識が高いどうかは関係ない。人が生きていく上で、パターン化は欠かせない。それが思考の枠組みになる。どんな物事も、どんな状況も、すべてをまったく新しいものとしてとらえていたら、自分の周りの世界を言葉で伝えられなくなってしまう。(ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド、2019、190)
引用文中の「パターン化」というもの。
人間には非常に必要になるものでありながら、同時に事実への理解を捻じ曲げてしまうほどの力をもつ厄介な機能。
ではこのいかにもビジネス書のような内容が、「僕のヒーローアカデミア」、そして「皆違って、皆いい」という文言にどうかかわってくるか。
先ほど、私は「僕のヒーローアカデミア」という作品を、「格差(ヒーローとヴィラン)」を誇張したものと書いた。いや正確には、格差や偏見や、先入観を生み出す「パターン化」のような性質を誇張していると言った方が適切かもしれない。
ここでまた「僕のヒーローアカデミア」の作品の説明になってしまうが、この作品の他にはない特異な特徴というのが、もちろん「個性」であり、さらにその「個性」を全世界の8割の人口が持ち合わせているということである。
多くの、というかほとんどすべてのヒーローものは、特殊能力はごくわずかな人間や動物にしか与えられていない。僕のヒーローアカデミアの今後は予想できないが、ベースの設定として、僕のヒーローアカデミアの主人公は、圧倒的無力である。特に初期のヒロアカは、実に特異だといってもいいと思われる。
さて、兎にも角にもこの作品で注目すべきは、「個性」を持ち合わせている人が大多数だということ。これが先ほど引用した文章を繋がってくると私は考え及んでいる。
8割 全世界 大衆 個性 本能
「個性」への判断基準の依存度の強さはいわば、ファクトフルネスでいう「パターン化本能」のようなもの。それ自体が能力であり、そして同時にその人の印象や価値をぶぶぶんと左右するものでもあると私は考えた。
確かに架空のお話の中の、それもおそらく我々人間が手に入れることはないものだろう。しかしそうだとしても、何処かで通ずるところがある気がする。
考えてみよう。「個性」は、先ほども書いた通り、一種の偏差値のようなもの、つまりあまりに大きな判断基準。受験生にとっての偏差値と言った方が、そしてその偏差値という基準がもし相当程度信用されているとすると、その裏返し的存在である僕のヒーローアカデミアの「個性」が、極めて巨大な存在に思えないだろうか?
僕のヒーローアカデミアの世界観の人は、多かれ少なかれ、偏差値に囚われている、あるいはそれを信用している受験生と似ているのではないだろうか。
人間の「パターン化本能」、ヒロアカの「個性」と「個性による判断」。
こう考えたときに、ヒロアカはどこか遠い次元のお話ではなく、ひどく人間らしさを表象しているように見えてしまった私がいる。
「個性」というものが現れ始めたころ、「持つもの」と「持たざるもの」との対立がかつては存在していた、と僕のヒーローアカデミアの中では言われている。
これはまさしく、「個性」を持っていることが、人間のパターン化本能に作用して、「持つもの」と「持たざるもの」同士の対立を激化させたのではないだろうか。
「個性」を持っているものは、皆異常、危険。
その「個性」を敵視するあいつらは、無能、理解不能、敵。
はたまた、「つかめガキ心」と言う回に登場する、間瀬垣小学校(ませがきしょうがっこう)の小学生たちは、自分たちの「個性」を異常に信用している。ヒーローと呼ばれる人たちが弱くなっているとかなんとか、個性特異点とかなんとか色々あるけれども、
この小学生の例から見えることは、「個性」が人を見下し、敵視し、奢り高ぶる直接的な原因になりやすということである。
そして「持つもの」と「持たざるもの」との、ヒロアカ内での対立もまた、その「個性」を起点として、相手の特徴のパターン化、一つの部分を帰納し、全体的な特徴であると勘違いしてしまったがゆえのものではないだろうか。間瀬垣小学校(ませがきしょうがっこう)の小学生たちもまた、これと同じようなことが原因であろう。
個性は確かに夢物語の、創造の産物。
しかしながら、その「個性」を取り巻く環境や、出来事、対立、集団の在り方を見てみると、その「個性」とはどこか、我々が持ち合わせている、パターン化本能が作用してしまう、先入観のようで。
「皆チガッテ、皆イイ」
ここでタイトルにある
「皆チガッテ、皆イイ」という言葉について見ていこう。
「個性」の溢れる、僕のヒーローアカデミアの世界観、社会、人間関係。
でも、「皆違って、皆いい」と、そのまま言い切ることが出来るのかということについて私は最初に問題提起をした。
しかしよくよく考えていくと、
「個性」の溢れる、僕のヒーローアカデミアの世界観は、現実世界以上に、「皆違って、皆いい」と言い切ることが難しい気がしてきてしまう。
解り易い指標、「個性」。
人びとの第一印象、先入観、偏見を引き起こすには、十分すぎるほどの。
でもこれは我々の世界での、延長線上にあるものでしかない。
われわれが持ち合わせているはずのない、「個性」ではなく、むしろわれわれが持ち合わせているものと近い存在。その特異な能力以上に、「個性」そのものと人間の関り合いが、我々の世界より少し誇張されているだけで、本質的にはなんら変わりはないのかもしれない。
終着点のようなもの
さて
ここまで、金子みすゞの有名な一言を、「僕のヒーローアカデミア」という大好きな少年ジャンプの漫画から考察というか、色々見てきた。
それに伴って、僕のヒーローアカデミアの「個性」がどういったものであり、「個性」が僕のいる世界と断絶したものなのか、「個性」がどう種々の事柄にかかわって来るのかなど、引用をしながら、考察してみたー。
やはり、好きな漫画について文章を書いている時ほど、時間を忘れられて、幸せだと感じることの出来る時間はないのではないだろうか・・・。というか文章を考えることが楽しいな。
まあ
色々かいてきたけれども、答らしい答えが出たとは思っていない。
大学生という本来は無駄な存在の、勢いに任せただけの文章のようにも思える。
ちょっと頭に浮かんだので、書こかーーーと、想って書きなぐっていただけかもしれない。或いは答えなどどうでもよいのかもしれないけれども。
まぁ、つまり何が言いたいのかというと
あぁ・・・ヒロアカ愛している
っていうことだけなんだが。
「僕のヒーローアカデミア」という作品が終わっても、誓って、ファンで居続けよう
と
今日も大学生は惟っている。
参考文献のようなもの
堀越耕平. 僕のヒーローアカデミア.(2014).集英社
引用文献
ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド.(2019).ファクトフルネス 10の思いこみを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣.(上杉周作,関美咲).日経BP社.
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