utayako

too fast to live,too young to die(生きるにはあまりに…

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too fast to live,too young to die(生きるにはあまりにも速く、死ぬにはあまりにも若い)

最近の記事

春になって君は

数年前、ずっと興味があった英語の勉強をして、その後につなげてみたい、と彼女は言った。 それを聞いた時、いつか、お互いのいる場所が離れる時が来るかもしれないな、と思ったけれど、言わなかった。言ったら、その日がすぐに来てしまいそうな気がしたから。 少し時間が過ぎて、まだ何も起こらないことに少し私は安心した。彼女と会って話したり、何かを計画したり、楽しい時間を一緒に過ごすことが、本当に大好きだったから。 でもそれは、留まってほしいとか、変わらないでほしいとか、そういう気持ちではない

    • 白い鳥青い箱の向こうで君は輝く

      20代からTwitterを始めた。 趣味に分けてアカウントは色々持っていたけれど、今も使っているアカウントは一つだけ。 その頃から相互フォローの方と、最近交流があった。 彼女は私より10近く若くて、会ったのはライブ会場だったドームで一瞬だけ。 控え目に笑う、とてもかわいいこだった。 お互いTwitterを使う時期には波があったから頻繁に交流はなかったけど、TLではいつも見かけていた。 初めの頃は、何があったかは知らないけれど、辛くなったり、逃げ出したくなったり、抱えきれなく

      • 誰も知らない

        「誰も知らない」という映画があった。 幼い少女が死に、兄とその友人がそのこを埋めた事件を題材に、長い時間構想が練られ作られた映画だった。 その事件の背景には親のネグレクトがあり、母親が帰らなくなったアパートで、一緒に暮らす幼い3人の弟と妹を、1番上の兄である少年が世話していた。まだ、義務教育さえ終わっていない年齢の少年だった。 お金も、生活能力もない子ども達だけの生活の中で、長男は外の世界と出会い、初めて友人ができる。 その友人との出会いによって冷たくなった妹を、埋めたのだ

        • River is like a life,sometimes hard,sometimes slowly(川は人生のようだ、時々激しく、時々穏やか)

          ある夏、ドイツの田舎町に行った。 そこには台湾人の友人が、ドイツ人の夫と暮らしている。 この時、私には、この2人の大切な友人のところに、どうしても行かなければならない理由があった。 彼女とはロンドンで出会った。 修道院が経営する女子専用のゲストハウス。学生というより、圧倒的に留学生が多い女子寮だった。 アジア人留学生には、共通する悩みが多い。 英語の発音、時差や母国と違う気候による体調変化、明らかに異なるアジア人の外見に対する無意識または意図的な差別、食文化の違い、とか。

        春になって君は

          わたしは言語を手に入れた

          私が英語を学んだのは、英語が好きだったからでも、英語が話せるようになりたかったからでもなかった。 ロンドンで暮らしていくためには、英語ができなければならなかったし、私がその国でやりたいことをやるためには、英語は不可欠だった。 イギリスで、英語を喋れない人間は、限りなく弱者だった。 語学学校に通っても、少し話せるようになっても、まあさっぱり分からなくて、習得には時間がかかった。 渡英前に申し込んでいた週5日の語学学校だけでは不充分で、私は滞在中、ただただスピーキングを徹底的に

          わたしは言語を手に入れた

          そのストーリーに君は

          「どんなモノにも、ストーリーがあると思うんだ」、と友人は言った。 彼女とは、ずっと若い頃に知り合った。 何かの話をしていたとき、彼女が、冒頭の言葉を言った。 仕事で他人の家を訪れる機会が多かった彼女は、その家にある写真ひとつ、カップ一つに、必ずその人だけの物語がある、という話をしてくれて、その話を聞いて、出会った頃からずっと、彼女がモノを大切に買ったり使ったりする理由を、ほんの少し垣間見た気がした。 私はこれまで、モノに執着しなかった。 大切にすることと執着することは違う

          そのストーリーに君は

          母国語を使う

          わたしのパスポートが眠りについてから久しい。 会いに行けない代わりに、海外の友人達とは、オンラインで会うようになった。 そんな日常に慣れた春、Yoonaの父親が亡くなった。 Yoonaは、ロンドンで知り合って以来、日本と韓国をお互い行き来しながら、 会ってはお酒を飲んだり美味しいものを食べたり、日常を報告したり大事な決断を共有し合う、大切な友人の1人。彼女が言うところの、precious friendだ。 その知らせはインスタのメッセージで届き、初めて彼が闘病していたこと

          母国語を使う

          帰ってきた、と私が思う風景

          高校時代、バス通学だった。 キリスト教育を取り入れた女子校で、スクールバスが市内を走っていた。 自転車で通った時期もあったけれど、 疲れるし、日に焼けるし、受験勉強時間に響くので、途中からバス通学になった。 スクールバスといっても、車体も運転手さんも県交通、 普通だった。 おじさんが運転して、小学生から高校生までが一斉に使っていて、普通だった。 テスト期間中、普段は部活の生徒も使うと、急に平日ラッシュの山手線みたいになることはあったけど。 大人になると、当時は知らなかった

          帰ってきた、と私が思う風景

          日本人としてのアイデンティティ

          Eunmiは、韓国人の友達だ。 ロンドンの語学学校で、私がPre-elementaryクラスの時に入校した。 私より少し年上で、イギリス人と結婚し、ロンドンで暮らしていた。 中国語もできて、韓国以外の国でも働いたことがあって、たぶんすごく頭が良かった。 私達のクラスは朝からだったので、いつも朝食を作ってきていて、よくサンドイッチやフルーツを私にくれた。 お金がない留学生だったから、いつも喜んでもらって食べた。今思うと、私が初めて食べたキンパは、Eunmiが作ったキンパだった。

          日本人としてのアイデンティティ

          未完成の完成

          この記事は、リプライだ。 親しくなるほど避けられない話題は、歴史と家族の話だと思う。 日本人同士でも、異国の友人でも、そう思う。 長い、過去の私の時間の中で、 どんなことも、一部分だけを切り取れば、面白く話せた。 まるで普通の話に。 まるで素敵な話に。 本当を嘘のように。 これは、もう私がそれをしないと決めた話。 18年間の子ども時代は、私をいつまでも未完成にする。 けれど、それがあって私に巡ってきた人や決断、考え方は確実に私を幸せにしていて、もう手離すことはできないもの

          未完成の完成

          その瞬間はいつ

          ロンドンで語学学校に通っていた。 英語が分からなかった私は、初級クラスからスタート。 そこでできた初めての友達が、ブラジル人のJoelsonだった。 話した内容は覚えていない。 そもそも、英語が話せないから会話ではなかったと思う。 でもなぜ仲良くなったかはよく覚えている。 きっかけは課題だ。 語学学校だから、みんな英語の勉強をする。 初級クラス担当のKellyが、今からやる課題を説明して、 みんながそれに取り組む。 内容は、プリントだったりペアワークだったり、まあ色々。 私

          その瞬間はいつ

          わたしの幸運とエンターテイメント

          「ああ私は運がよかった」と思うことがある。 一つの事象には様々な角度があって、角度を変えれば見方は変わる。 角度をどう変えるとどんな見方ができるかは、なかなか気づかないし、それを知る機会は人間によるところが大きい。 だから私は、運がよかった、と思うことができたわけだけど。 子どもに対して、家族や親の大切さや重要性を説く人は多い。実際、そのとおりなのだと思うし、時代が進んでも、それは変わることはないとも思う。 でも、当時14歳の私にとっては全く関係ない話で、それを言われれば言

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          忘れてはまた、思い出す

          アジア人差別、アジア人女性への差別。 私がそれに出会ったのは、やっぱりロンドンだった。初めはそれに気づかなかった、それが差別だと。だって、日本にいた時は経験したことがなかったから。 そして自分達が差別される側であることも、自分自身も人種や国籍に対して差別していることも、私はずっと知らなかった。 目を横に引っ張り細くして、アジア人の容姿の特徴を真似する行為をされたとき。「嫌な感じだからやめて」と言っても、ふざけているだけ、事実でしょう、と言われたら、何も言えなかった。 私はそ

          忘れてはまた、思い出す

          わたしと日本語と英語

          26歳でLondonに行って、27歳の時に盛岡に帰ってきた。 英語は使って生活していたけれど、たくさん話せるわけではないし、暮らしている間、私はずっと英語が下手な日本人だった。 英語以上に、相手を理解しようとする気持ちと、「わたしはわたし」、とどう思われるかを怖がらない気持ちばかりが育って、帰国した。 それでも、その後の生活で英語や英語で考えた時の日本語にはない思考、それらをツールとした人間関係は私に影響を与え続けた。 最近になって、それを知る、ものづくりをする友人達に、あ

          わたしと日本語と英語

          「何もできなくていいから、ここにいてちょうだい」と言った人

          昔、保育士をしていた。 大学を卒業し、取得した資格の一つ。 保育園で働こうと思ったのは、「本当に助けなければいけない人は、地域の中にいる」、そう思ったから。 だから、子どもが大好き!とか、子どもと遊ぶのが大好きこんなことをしたい!とか、そういうものはまだ持っていなかった。 1年目は散々だった(2年目も3年目も散々だったけれど)。 同期の中では、たぶん困った新人だった、他の先生達から見たら。 それまで、「できない」カテゴリにあまり入れられたことがなかったから、そういう意味でも

          「何もできなくていいから、ここにいてちょうだい」と言った人