永山凌平

塔短歌会、gekoの会に所属して短歌を作っています。 noteでは思いついたときに短歌…

永山凌平

塔短歌会、gekoの会に所属して短歌を作っています。 noteでは思いついたときに短歌関係の書き物をします。 読書メーターで読書記録をつけています。 https://bookmeter.com/users/603893

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最近の記事

新樹集(塔2021年3月号)を読む(途中まで)

 「新樹集」とは、「塔」の誌面で主宰・吉川宏志さんが選ぶその月のベスト10人のようなものです。本稿では、各作品を読んで簡単にコメントします。 ◇魚谷真梨子作品濃紺の皿にシチューを分け合って今夜とはいつも何かの前夜  2つ前の歌が「死者数の画面を閉じた指先で子の頬のビスケットをぬぐう」、1つ前の歌が「イルミネーションやさしく光れ幾万の灯火あるいはこの国の嘘」と、ウイルス感染症の拡大や国への不信を思わせる歌が並んでいる。その流れで掲出歌を読んだとき、「前夜」が何か不穏なものの

    • 「ほとりVol.5 塔短歌会三十四十代歌人特集」を読む

      ◆1枚目海へ行くわけではないが或る冬の赤い電車は海へと向かう/大橋春人 置いてゆくものへの賛辞のようでしたうす雲を曳く橋の風景/中田明子 まだ役に立つよう防水スプレーを(窒息を思い出しながら)ふる/千仗千紘 コアラ館手前に広い休憩所巻きしっかりのソフトクリーム/佐復桂 大橋作品、意味あり気な「或る冬」という描写が物語を暗示する。「赤い電車」のアイテムが魅力的。 中田作品、「置いてゆくもの」≒今は用なしのもの(?)への賛辞という微妙な位置を、「うす雲を曳く橋」という静謐でフ

      • 丸の内とルドン

         昨年の11月、東京丸の内にある三菱一号館美術館へ「ルドン、ロートレック展」を観に行った。  そのときは知らなかったのだが、あとになって加藤克巳に次のような歌があることに気がついた。 寂として東京丸の内午前三時ルドンのまなこビル谷に浮く /『球体』(1969)  この歌では想像上で「ルドンのまなこ」(ルドンのいくつかの作品は大きな目が特徴的だ)を丸の内のビル谷に浮かせているが、現実世界の僕は、その「ルドンのまなこ」を丸の内で観られたことにちょっと感動した。  ところで

        • 平出奔を読む(0)「何も言えなさ」について

           平出奔の短歌のことは、表面的な部分を見て、長らくその表現に疑問を持っていた。例えば、私が平出を知って間もない頃に読んだ次のような歌を挙げてみる。 セックス・オン・ザ・ビーチ、俺がさいたまで飲んでもセックス・オン・ザ・ビーチなのウケるな /平出奔『汽笛のふりをしている』  この歌の意味的な眼目は、セックス・オン・ザ・ビーチというカクテルを「俺がさいたまで飲んでもセックス・オン・ザ・ビーチ」だと指示している点である。さいたまは海のない街であるし、この「俺」もおそらく「セック

        新樹集(塔2021年3月号)を読む(途中まで)

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        • 小論
          14本
        • 25本
        • 連作
          3本

        記事

          「ビルバーガー」のこと

           今まで観た美術の個展・企画展の中でいちばん面白かった――あるいは刺激的だった、印象的だった、好きだった、などに置き換えても同じことだが――ものは何かと聞かれたら、答えに困る。だが、いちばんスリリングだった個展・企画展は何かと聞かれたら、僕にはたった一つの答えが思いつく。Chim↑Pomの個展「また明日も観てくれるかな? So see you again tomorrow, too?」(2016.10.15~2016.10.31)である。とりわけここで考えたいのは「ビルバーガ

          「ビルバーガー」のこと

          近藤芳美と浦和

           近藤芳美の居住地といえば、岡井隆に「豊島園まで」という連作があるくらいで、豊島園にあった家が有名である。だが、戦中~戦後に約二年間、疎開で浦和(現・さいたま市)に住んだことはあまり語られていないような気がする。私は浦和出身であるので、このことに少しこだわってみたい。  今、手元に『近藤芳美集』(岩波書店、全十巻)がある。第八巻に所収されている「青春の碑」は、自身の中学生~三十代半ばまでの自伝的な散文である。浦和に移り住むあたりの文章を引いてみる。  B二十九の編隊が過ぎ

          近藤芳美と浦和

          「ポルト・リガトの聖母」のこと

           2017年の3月、僕はいろいろあって長崎の友人の家に1週間くらい居座っていた。友人は大学院生で昼間は研究室へ行っていたから、夕食を彼とともにする以外は一人で過ごしていた。最初の何日かは「せっかく長崎へ来ているのだから」と観光へ出たものの、長崎は決して広い街ではなく、数日で主要な観光地は周り終えてしまった。軍艦島、平和公園、グラバー園、大浦天主堂……。それぞれ魅力的な観光地であることは確かだったが、1日中暇を持て余していた当時の僕にとって1週間もつものではなかった。  滞在

          「ポルト・リガトの聖母」のこと

          一首の「鑑賞の幅を広げる」とは?

           永田和宏『近代秀歌』を読んだ。近代短歌の入門編の読み物としてはちょうどよい書籍だと感じた。僕自身、知らなかった歌もあったし、読んでいない歌人や歌集についていつかきちんと読まなきゃいけないなと刺激をもらった。  ところで、僕にはどうも鑑賞の仕方で納得のいかないところがある。永田さんは、島木赤彦の「隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり」(『柿陰集』)について次のように述べる。  多くの鑑賞は、この一首を、隣の部屋で幼い子供が教科書か何かを声をあげて読んでいると

          一首の「鑑賞の幅を広げる」とは?

          定型詩は「文字数合わせゲーム」なのか

          (0)前置き 瀬川深氏のツイートとそれが生んだ流れで気になることがあった。瀬川氏のツイートに言及する前に、瀬川氏が最初に引用したツイートを共有する必要がある。次に引く。 日本の首相の演説などを「ポエム」と形容する評言に出くわすと詩の研究から出発した学者としては我慢がならない。 「ポエム」という語の誤用はぜひやめていただきたい。 日本語にはもっとふさわしい由緒ある表現があって、それは「ネゴト」である /石田英敬(@nulptyx) 午前7:10 · 2020年4月8日 この

          定型詩は「文字数合わせゲーム」なのか

          覚え書き(『感傷ストーブ』批評会をきっかけに)

           先日の『感傷ストーブ』批評会では、パネリストの花山周子さんの発言に頷くことが多かった。ただ、疑問だったのはレジュメで「価値の創出」とした箇所である。  『感傷ストーブ』では、ギャグや自虐の歌が多く含まれる。ギャグも自虐も、ある知識や価値観を共有するからこそ成立するものである。それらの面白さは周子さんも指摘していた。一方で、さらに突き抜けた「何かを突破している」と感じさせる歌は、既存の価値観とは異なった作者独自の価値観の上で詠われている……というのが、私の理解した周子さんの指

          覚え書き(『感傷ストーブ』批評会をきっかけに)

          『シロツメクサを探すだろうに』を読んで

          山内頌子第二歌集『シロツメクサを探すだろうに』(2019,角川書店) タイトルは次の歌から。 こんな風が吹いているなら御所にゆきシロツメクサを探すだろうに 著者略歴やそれまでの歌から、夫の転勤で京都から東京へ引っ越したことが分かる。タイトルからは、京都への愛着を諦め切れていない気持ちが読み取れる。 おしゃれして歩いた街は遠くなる遠くてそこで輝いている 歌集の最後に置かれた歌。この歌もまた若い頃に親しんだ街(=京都)への愛着の歌であり、印象的な場所に置かれている。 だ

          『シロツメクサを探すだろうに』を読んで

          一首評

          ぼくだけがだめみたいだよ。もう蟬が。時計を忘れて、時間もわからない。 /初谷むい「プールサイド/落鱗」短歌研究2019年9月号  一読して、人間的なもの(社会的なもの?)からの遊離を思った。「ぼくだけがだめみたい」という文句もそうだし、「時間もわからない」のはきっと「時計を忘れ」たせいなのではない。そして、この歌が決定的に面白いのは三句目の「もう蟬が。」の謎具合である。  「もう蟬が」と言うときは、おそらくは二通りの場面がある。(1)もう蝉が鳴いている、もしくは(2)もう

          毎日一首評⑤

          抽斗しの鋏錆びつつ冷えていん遠き避暑地のきみの寝室 /寺山修司『血と麦』  景は単純である。抽斗の中で鋏がだんだんと錆びながら冷えているだろうという推量と、遠い避暑地にあるだろう「きみ」の寝室というアイテムの取り合わせの歌である。だが、それ以上深く読もうとすると、取り合わせの必然性を解決できずに深入りすることができない。寺山の歌は暗喩に長けており、それを読み解かないと先へ行くのは難しい。  さて、歌集中でこの歌の前後に置かれている歌に目を向けてみよう。 遠く来て毛皮をふ

          毎日一首評⑤

          毎日一首評④

          はこばるる母の鏡に廃屋の隣家のさくらあふれゐたりき /小林幸子『枇杷のひかり』  何を隠そう私の愛唱歌の一つである。母の亡くなったあとの場面と読んだが、鏡が持ち主を失って(ゴミとして)運ばれてゆく状況がなんとも言えず悲しい。特に女性にとって日々装いに使用する鏡は特別な意味を持つ。鏡が運ばれてゆく様をみて、母が本当に亡くなってしまったことを主体は実感したのではないだろうか。その運ばれてゆく鏡に、最後に隣家のさくらが写りこんだ。しかも、溢れるほどに、である。それは鏡が、いや、母

          毎日一首評④

          毎日一首評③

          あかときは永遠の泉絕ゆるなき連續殺人おもほゆるかも /水原紫苑『えぴすとれー』 ※原典では漢字は全て正字です。  大掴みに読めば、暁が永遠の泉であるという見立てと絶えることのない連続殺人を思う主体を詠った歌である。しかし、この歌から感じられる印象はそう単純ではない。それは、歌が多層的な構造になっているためである。その構造を詳しく見ていきたい。  この歌を次のパートに分けて考えてみる。 (A)あかときは永遠の泉 (B)永遠の泉絕ゆるなき (C)絕ゆるなき連續殺人おもほゆるか

          毎日一首評③

          毎日一首評②

          人見知りはあなたの長所 買ひたての醬油を暗い涼しい場所へ /石川美南『架空線』  一読して面白い歌だ。ただ、意味内容で迷うところはないのだが、二句目までのニュアンスを私は少し迷った。具体的には以下の(1)(2)である。 (1)(一般的に短所だと言われる)人見知りが「あなた」の場合は長所なのだと、主体が本気で思っている。 (2)「あなた」は人見知りゆえに交友関係を広げないから、主体は「あなた」の数少ない深い仲でいられることをうべなっている。  (1)の読みが素直なのかもし

          毎日一首評②