近藤芳美と浦和

 近藤芳美の居住地といえば、岡井隆に「豊島園まで」という連作があるくらいで、豊島園にあった家が有名である。だが、戦中~戦後に約二年間、疎開で浦和(現・さいたま市)に住んだことはあまり語られていないような気がする。私は浦和出身であるので、このことに少しこだわってみたい。

 今、手元に『近藤芳美集』(岩波書店、全十巻)がある。第八巻に所収されている「青春の碑」は、自身の中学生~三十代半ばまでの自伝的な散文である。浦和に移り住むあたりの文章を引いてみる。

 B二十九の編隊が過ぎたのは空が白みかけるころであった。私たちは家を離れ、麦畑の中に抱き合って身を伏せた。神田の町々が焼夷弾で焼かれ、その炎が凍るような野のはてに見えていた。
 二人の家(引用者注:東伏見)が危険である事に気付かなければならなかった。次の日、とりあえず身のまわりのものをあずけるために浦和に出掛けた。浦和には妻の父が新潟の高等学校長をやめた後、しばらく前から移り住んでいた。その家に疎開しようとも考えていた。
(中略)
 十二月(引用者注:一九四四年)はじめの晴れた日曜の一日、私たちは馬車を雇って家の道具を浦和に運んだ。そのあいだにも、幾度も警戒警報が鳴ってはやんだ。
 浦和の、妻の両親の家にしばらくいた後、年のくれから北浦和駅に近い、義姉の借家の一部屋を間借りすることにした。結婚してはじめて上京した日に、柿の木坂のアパートで世話になった、妻のすぐ上の姉である。義兄は徴用技師として南方に行っており、私が兵隊に出たあとに生れた幼い男の児と留守を守っていた。
 十二月から翌年にかけて、敵機の来襲は毎日のようにつづいた。だが、浦和はまだ、空襲の恐怖を知らない平和な街であった。私は東北線に乗り、相変らず都心のつとめに通った。
/「青春の碑」第二部 二 野の警報

 同じころ(引用者注:一九四五年三月の終わり)、私は北浦和の小学校の隣の小さな二階家に転居した。住んでいた知合いの学校教師が応召し、一家が郷里に引き揚げたためである。崩れた壁から月がさして来るようなひどいあばら家であったが、とにかく又二人だけの家を持つ事が出来た。
/「青春の碑」第二部 三 天の火群

 引用したように、近藤は浦和で三か所に居住している。①妻の両親の家(浦和)、②妻の姉夫婦の家(北浦和)、③知り合いの学校教師が引き揚げたあとの家(北浦和)の三か所である。このうち、③の家に最も長く住み、一九四六年の秋の終わりまでの約一年半を住んだ。立ち退き時期については、『近藤芳美集』第九巻所収の「歌い来し方」から引く。

 空襲に焼け出されることもなくすんだ北浦和の家を立ち退き、東京世田谷の、千歳船橋に移り住んだのは一九四六年の秋の終るころであったのか。(中略)入居のときのいきさつから、浦和の家は早晩明け渡さなければならないこととなっていた。
/「歌い来し方――わが短歌戦後史」Ⅱ 七 麦畑の丘の家

 さて、近藤が浦和に住んだのは、歌集で言うと『早春歌』から『埃吹く街』にかけての時期に当たる。『早春歌』の後記に「この歌集は昭和十一年から昭和二十年敗戦まで、(中略)十年間の作品を集めた」と、『埃吹く街』の後記に「昭和二十年十月から二十二年六月迄の作品を集めた」とあるとおりである。『埃吹く街』の作歌期間が短いことから分かるように、この時期の近藤は非常に多作であった。これほど多作であれば、二年ほど住んだ浦和の街を詠っていてもおかしくないはずである。

 だが、浦和を詠っていると感じさせる歌は意外と少ない。当時近藤が仕事をしていた銀座や羽田、乗換駅の上野だろうと思える歌はいくつもあるのにも関わらず、だ。前の二歌集の歌は、都市を詠った歌、仕事を詠った歌、家族を詠った歌、思想を詠った歌が大部分なのである。ちなみに「都市」の判断は、ひとつは人の行き来の多さに依る。また、海や川、焦土の歌は浦和の歌ではないと外していた(北浦和駅の近くに海や川はないし、浦和は最後まで空襲に遭わなかった)。強いて挙げれば、次のような歌が浦和の街として読みうるか。

毀れたる樋より落つる雨水が光りて高き壁を流るる
降り出でて曠野の如き雨の中掘りし街路樹の根株は並ぶ
灯ともして東北線の過ぐるとき埃はあらし陸橋の上
顔青くなる迄製図して帰る傘さげて妻は今日も駅に待つ
茂り合ふ木下の路の水たまり固くあれたる掌をとりて行く
えにしだの花しだれたる夜の部屋ふすまも壁もただ白くして
草原に昏るる霧雨次々に落つる雲雀に妻と立ちたり

 一首目は例の「あばら家」かもしれない。三首目は「東北線」とあり、北浦和の近くだと言われれば頷ける。他の歌もそうと読みうるものを引いたつもりだが、浦和という土地柄と結びつけて読むことは難しいし、引っ越したあとの千歳船橋の歌も交じっているだろう。そのくらい浦和という土地は近藤の歌からは遠かった。

 近藤が浦和をあまり歌にしなかったのは、近藤の歌への向き合い方とも関係するだろう。『近藤芳美集』第六巻「新しき短歌の規定」から引用する。

 最も誠実に今日に生きて居る人間こそ新しき短歌作者だと言ふ。誠実に今日に生きるとは何を言ふのか。
 それは、吾々の今居る現実を直視して眼をそらさない生き方のことである。弱々しく背をむけない、逃避しない生き方である。今ほのぼのとした眼をして天を見てはいけない。
/「新しき短歌の規定」新しき短歌の規定

 つまり、近藤にとって「現実」とは、戦後の都市であり、仕事であり、家族や生活などであって、結果的に空襲に遭うこともなく戦争から遠かった浦和という街ではなかった、ということではないか。そう考えれば、近藤が多作な時期に浦和に住みながら、浦和を詠わなかったことは当然ともいえる。

 さて、近藤が浦和で最後に住んだ③の家については、さらに他書に詳しい。次の文は加藤克己著『新歌人集団』からの引用である。

彼(引用者注:近藤)の家は(中略)二階建の小さな借家だったが、当時の常盤小学校(現在は埼玉銀行本店)と道路をへだてた南側にあった。
(『新歌人集団』七 新歌人集団の人たち)

 「埼玉銀行」は何度かの合併を経て、現在は埼玉りそな銀行という名称になっている。当時の「埼玉銀行本店」は、現在は「埼玉りそな銀行本部・さいたま営業部」として同じ立地で存在している。つまり、かつて近藤の住んでいた場所は、現在では埼玉りそな銀行と道路を隔てた南側、ということになる。私は地元なのでこのあたりは何となく分かる。確か、十~二十年くらい前に道路の拡張工事がおこなわれ、今では綺麗で広い道になっている。あばら家は当然見当たらない(下図参照:現在の様子)。もう近藤が住んでいた頃の面影はないのだが、私はこのあたりを通るたび、かつて近藤芳美が住んだ土地として思い出すのだ。

芳美の住んでいただろう場所

◆補足1
 当時北浦和に住んでいた近藤が玉田登久松とともに与野の加藤克巳を訪ねたところから始まった新歌人集団という運動は、すでに他書に詳しいのでここでは触れなかった。

◆補足2
 最近入手した日本現代詩歌文学館の特別展「近藤芳美展――戦後短歌の牽引者」の図録を見てみると、近藤芳美略年譜のところに上記①~③の家の住所が記載されていた(たしかに死者には個人情報はないけれど……)。そのうち当時の地図と照らし合わせて、こんなところに住んでいたのかと思いを馳せるのもよいかもしれない。

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