平出奔を読む(0)「何も言えなさ」について

 平出奔の短歌のことは、表面的な部分を見て、長らくその表現に疑問を持っていた。例えば、私が平出を知って間もない頃に読んだ次のような歌を挙げてみる。

セックス・オン・ザ・ビーチ、俺がさいたまで飲んでもセックス・オン・ザ・ビーチなのウケるな
/平出奔『汽笛のふりをしている』

 この歌の意味的な眼目は、セックス・オン・ザ・ビーチというカクテルを「俺がさいたまで飲んでもセックス・オン・ザ・ビーチ」だと指示している点である。さいたまは海のない街であるし、この「俺」もおそらく「セックス・オン・ザ・ビーチ」というお洒落で開放的な名前が似合わない主体を想像する。そんな不相応な条件下であっても、あくまでこの飲み物はセックス・オン・ザ・ビーチなのだという気づきが、意味的には面白い。だが、この歌で気になるのは結句である。なぜ「ウケるな」と言わなければならないのか。私はずっと、作者が短歌にあまり見られない言葉遣いを導入してその奇異を面白がっているだけだと思っていたし、それはつまらないとも思っていた。しかし、平出にとってはおそらくこの「ウケるな」こそがこの歌の大事な部分なのだと思う。私は、歌の意味内容ではない、平出のこの「ウケるな」的なものについてもっと深く考えてみたいと思うようになった。

 本稿は序論として、平出の短歌作品を読むのではなく、彼がTumblrに書いたとある一首評に注目したい。それは「20201015」と題された記事である。この記事で平出は、青松輝の次の歌について評をしている。

冷房の効いてるところ独特の匂い ブラック・マジシャン・ガール
/青松輝「NAMING LIGHTS」(Twitter)
https://twitter.com/_vetechu/status/1315275981192458240?s=20

 この歌について、平出は記事の冒頭の文で「【何も言えなさ】がおもしろい」と述べており、より詳しくは次のように評している。

 少なくともこの一首のうえで「冷房の効いてるところ独特の匂い」と「ブラック・マジシャン・ガール」は、並んで、そこに在る。その並び自体に必ずしも意味を見出す必要はないんだけど、でも【意味の無さ】さえも断言できないくらいの書いていなさは、読者の側に可能性の薄膜を残す。結果、読者は、僕は、この「ブラック・マジシャン・ガール」に対して何も言えなくなった、んじゃないかと思う。

 そうなのである。この歌は一見すると二つの節(「冷房の~匂い」と「ブラック~ガール」)を取り合わせた二物衝撃の形をしているが、この歌に二物衝撃的な意味での衝撃はない。なぜなら、二つの節は衝突していないからだ。それは、二つの節のあいだに大きな詩的飛躍があるとか、意味の分からないなりに二つの節の取り合わせを味わうとか、そういうことではない。二つの節はただ歌の構成物としてそこにある。そこにもはや意味的なつながりによる面白さはない。

 私はここで抽象表現主義、特にカラーフィールド・ペインティング――私が思い浮かべているのはマーク・ロスコの絵画だが――のことを思い出す。抽象表現主義が、先行する諸派と決定的に異なるのは、対象を描き表すことを主眼としていない点である。例えば、先行世代で革新的であった印象派やキュビズムも、アカデミックな絵画の否定やその方法論という点では革新的であったが、結局は対象を描き表すという主眼からは逃れることができなかった。抽象表現主義は、描くという行為そのものや、絵画の生な構成物を鑑賞者の前に提示する。カラーフィールド・ペインティングで言えば、構成物は色である。鑑賞者は、キャンバス上の色の塊を(視覚的に)見るが、そこに何の具象も見出すことができないゆえに色の塊と対峙することしかできず、絵そのものではなく絵と対峙する自らの知覚の動き――色や形についての生々しい認識や、鑑賞者がそれぞれに想起するイメージ――を観ることになる。つまり、鑑賞者は絵を見ながらも、絵を観るのではなく、絵に対峙する自らを観るのである。

 ここで青松の作品に話を戻したい。青松の作品も、ただ構成物としてあるという点で抽象表現主義に似ている。つまり、読者は「冷房の効いてるところ独特の匂い」という節と「ブラック・マジシャン・ガール」という節を読みながら、それぞれの節を認識する読者自身を読むのである。読者によって印象が顕著に異なるのは「ブラック・マジシャン・ガール」という固有名詞だろう。懐かしさを伴って思い出す人、名前だけは知っている人、まったく知らない人、それぞれで印象は大きく異なる。しかし、この作品が提示している”認識そのものや印象を読むという行為”は、知識や思い出のいかんに関わらず変わることはない。それは意味ではないからだ。

 平出とはかなりアプローチが異なるが、ただ「そこに在る」感じに魅力を感じているのは同じだろう。繰り返すが、それは意味による面白さではない。意味ではない面白さを短歌でどう表すかは、平出の短歌作品を読む上で重要な手がかりになる気がしている。

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