新樹集(塔2021年3月号)を読む(途中まで)

 「新樹集」とは、「塔」の誌面で主宰・吉川宏志さんが選ぶその月のベスト10人のようなものです。本稿では、各作品を読んで簡単にコメントします。

◇魚谷真梨子作品

濃紺の皿にシチューを分け合って今夜とはいつも何かの前夜

 2つ前の歌が「死者数の画面を閉じた指先で子の頬のビスケットをぬぐう」、1つ前の歌が「イルミネーションやさしく光れ幾万の灯火あるいはこの国の嘘」と、ウイルス感染症の拡大や国への不信を思わせる歌が並んでいる。その流れで掲出歌を読んだとき、「前夜」が何か不穏なものの前夜である気がして、上句の穏やかな情景がにわかに嵐の前の静けさのような不気味さを帯びてくる。

頬あかく染めながら子は眠りゆく今日という日にかぶれたように

 最初は「かぶれた」は”頬が赤くなる”くらいの意味で流してしまったが、塔の松本志李さんが「子の許容範囲を超えて行動した一日」という旨の発言をされていて、なるほど本当に「今日」の刺激にやられているのだなと気づいてから面白くなった。

◇渡部和作品

「磐梯山白くしたぞ」と雪側に立ちて言うなりこの地の人は

 「雪側に立ちて言う」のが面白い。本当に言うのかしら。私は母が会津出身なので、会津の人の磐梯山好きはなんとなく知っているのだけど、磐梯山が冠雪したかどうかで季節を知ることは確かにありそう。「雪側」は動作主のニュアンスだろうけど、物理的な位置としての「雪側」がありえるから少し歯痒さがある。

◇永久保英敏作品

山襞に溜まれる雲が夕空に斥候のごときをちぎりて吐けり

 この作者の歌は自然詠が多い。静岡の自然豊かな土地に住んでいるからというのもあるけど、作家意識として容易に景と感情の取り合わせに逃げず対象の描写に徹している点がすごいと思う。掲出歌は「斥候」の比喩によって歌が大きくなっている。ちぎれた雲の断片が少数の部隊なら、残った雲は巨大な本隊だろうか。戦国時代の合戦の様子とか、そんなものまで思わされる。

◇千葉なおみ作品

水のおもて蹴りて飛び立つ白鳥の脚のちからや羽のちからや

 他の歌に「仙台平野」や「大津波(おほなみ)」とあるので、震災以降(10年経っても「震災以降」なのだ)の仙台平野が舞台だと分かる。それを踏まえて掲出歌を読むと、白鳥の力強さを詠いつつも、水から飛び立って遠くへ行ける白鳥への羨望混じりの悲しみが読み取れないだろうか。

◇飯島由利子作品

オリオンの三つ星わが手にとどくほど夜空の低し森の跡地に

 今月の飯島作品は、1首目の「白ぎつね女(をみな)に化けたる伝承に女化(をなばけ)といふわが町の名は」からグッと引き込む、土地を詠った一連だ。1首前に「白蛇すむ沼を抱ける女化の森の北の端(は)二十日で消ゆる」とあるので、開発か何かで森が削られてしまったのだろう。森がなくなったことで遮るものがなくなり、「わが手にとどくほど」低いところに星を見つけられるようになったが、そういった形で森の喪失を実感してしまう様は悲しい。

 余談だが、5首目に「月の夜に森の椎の実ほほばりし狸に遇へることもう無けむ」という歌がある。「無けむ」って何だと思って調べてみたら、上代には形容詞の未然形に「-ケ」の活用があったらしい。つまり、形容詞「無し」の上代の未然形「無け」+助動詞「む」ということだ。勉強になった。蛇足だが、助動詞「けむ」は連用形接続だから「無し」に接続すると「無かりけむ」になる。

◇大森静佳作品

寝室の埃を見つめているうちに寄り目になった、みたいな秋だ

 寄り目になると焦点が周りに合わなくなるし、視界が狭くて暗くなる。その状況が、日脚の急に短くなっていく「秋」の比喩として抜群に効いていると感じた。そう捉えると、「寝室」も朝陽の明るさやカーテンを閉めたときの暗さを思わせる素材であり、初句から「秋」の”明暗”を意識させる構造になっていないか。ところで、6首目は「もう誰にも会えないような気がしてる視力の果てに冬星冴えて」という歌で、この歌も視界の微妙なところを比喩として機能させている歌である。

◇姫宮藍作品

悩み事特にないです昨晩の夜空が全部吸い込んだので
あ、チョークの持ち方違うからここは夢だと気付く2年A組

 簡明な言葉遣いでのびのびとした作品だと思った。掲出1首目の「悩み事特にない」ことの説明(言い訳?)は、綺麗すぎても突飛すぎても上手くいかないが、「夜空が全部吸い込んだので」という説明は絶妙に成功している感じがする。掲出2首目などは、「あ、チョークの」という工夫した出だしや「2年A組」の具体に落とす構造に、作者のバランス感覚の良さを感じる。

◇池田行謙作品

竹林の稈手伝いにくだるとき背後に空の空気が揺れる

 「稈」を辞書で引くと「竹・稲・麦・黍などイネ科植物の茎に見られるような、節と節の間が中空の茎」とある。「竹林の稈手伝いにくだる」は竹の稈を手で伝ってくだっていくのかと読んだ。あるいは、ある分野の用語として「稈」という名の作業があって、それを手伝うためにくだるのかもしれない。真意が気になる。

棚上の広告欄は広告を失いながらひかりに触れる

 視点と把握の仕方が面白いと思った。広告欄は広告が収められているのが本来の姿だと思いがちだけど、むしろ広告がない状態が裸の状態であって「ひかりに触れ」ているのだという把握は盲点だった。


 あと2名にも触れるつもりでしたが、今日は力尽きました。ここまででいったん公開しておきます。

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