「ほとりVol.5 塔短歌会三十四十代歌人特集」を読む

◆1枚目

海へ行くわけではないが或る冬の赤い電車は海へと向かう/大橋春人
置いてゆくものへの賛辞のようでしたうす雲を曳く橋の風景/中田明子
まだ役に立つよう防水スプレーを(窒息を思い出しながら)ふる/千仗千紘
コアラ館手前に広い休憩所巻きしっかりのソフトクリーム/佐復桂

大橋作品、意味あり気な「或る冬」という描写が物語を暗示する。「赤い電車」のアイテムが魅力的。

中田作品、「置いてゆくもの」≒今は用なしのもの(?)への賛辞という微妙な位置を、「うす雲を曳く橋」という静謐でファンタジックな景と取り合わせているところが絶妙。

千仗作品、残量の少ないスプレー缶の噴射の細さや缶自体の軽さに「窒息」を感じる感覚が、(読者である私にも)実感をもって納得できる。

佐復作品、「巻きしっかり」という形容に妙なおかしみがあって、不意を突かれて笑ってしまった。

◆2枚目

かもしかと見つめあいたいかもしかと見つめあうとき私はいない/青海ふゆ
ひとつだけ泣ける喫茶が仕事場の近くにあって今日も灯れる/山名聡美
徒歩ならば百八十日グーグルの赤きピン立つ喜望峰まで/佐藤涼子
敢えて海、汽車の窓から見せたくて山陰本線益田までゆく/丸山恵子
〈完成〉とレシピノートに記すのはちょっと違うと思い始めた/北山順子
何もかも差し出すような恋をしてきれいな丸になれない真珠/森山緋紗

青海作品、「かもしか」は直接的な意味としては動物のカモシカのことだろうけど、「~かも(しれない)」「~しか~(ない)」を連想させる。「たられば」の類型(?)みたいな。不思議な読後感。

山名作品、「ひとつだけ泣ける喫茶」は数ある喫茶店の中で1か所だけ私が泣くことのできる喫茶店と解釈したが、人によって解釈の幅はありそう。安心できる場所である「喫茶」に対して、中にいるのではなく外から見ている点に意外性を感じた。

佐藤作品、大松達知さんの「中野駅徒歩十二年」の歌を思い出した。ちょっとした違いで(この歌でいえば、移動手段が徒歩であるという点で)とんちんかんなスケールになってしまう可笑しさ。行先が「喜望」だというのも悲哀がある。

丸山作品、「敢えて海、」は「敢えて海”を”」の助詞抜きかなと思うけど、初句で「敢えて海、」とズバッと切り込んでいるのは格好いい。

北山作品、一見すると散文的な作りではあるけど、連作で詠われている母の不在と呼応して、下句に表面的な言葉以上の心の屈折を感じる。

森山作品、連作内には「つがうことないわたしたち一本のリップスティック分け合っている」などの歌もあり、「丸になれない真珠」に年齢を重ねたあとの恋愛のさみしさを思った。

◆3枚目

ブーゲンビリアところどころに咲いている宮崎ブーゲンビリア空港/宇梶晶子
リズムとは心のくぼみ 住み慣れた家に知らない扉が増えて/濱松哲朗
濃紺の皿にシチューを分けあって今夜とはいつも何かの前夜/魚谷真梨子
掃除機をかけるあなたが口ずさむそれはわたしの歌だったのに/toron*
今日咲いた百合のことからしたためる追伸までのぬるい前書き/榎本ユミ

宇梶作品、リフレインが面白い歌。連作の導入としてわくわくさせてくれる。

濱松作品、心のでこぼこと「リズム」を結びつけた点に、うまく言えないけど説得力を感じた。リフォームでもしない限り「扉が増え」ることはあり得ないが、それを認知できたりできなかったりする心のコンディションがあるのだろう。

魚谷作品、直前に「死者数の画面を閉じ」る歌があるので、「何かの前夜」はパンデミック下において明日何が起きてもおかしくない緊張を詠ったのかと思ったけれど、読み過ぎだろうか。

toron*作品、自分がよく口ずさむ歌を「あなた」が口ずさんでいる場面を想像した。それをうれしく思うのではなく、自分のものを取られたような負の感情を抱いている点が印象的。

榎本作品、「ぬるい」は洗錬されていないくらいの意味かなとも思うけど、上句に百合の開花という季節的なものがあるから温冷の「ぬるい」の印象を受けた。その意味で「ぬるい前書き」のフレーズが面白い。

以上、途中から疲れてきて後半失速気味ですが、気になった歌を簡単に引いてみました。

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