毎日一首評③

あかときは永遠の泉絕ゆるなき連續殺人おもほゆるかも
/水原紫苑『えぴすとれー』 ※原典では漢字は全て正字です。

 大掴みに読めば、暁が永遠の泉であるという見立てと絶えることのない連続殺人を思う主体を詠った歌である。しかし、この歌から感じられる印象はそう単純ではない。それは、歌が多層的な構造になっているためである。その構造を詳しく見ていきたい。

 この歌を次のパートに分けて考えてみる。
(A)あかときは永遠の泉
(B)永遠の泉絕ゆるなき
(C)絕ゆるなき連續殺人おもほゆるかも
(D)あかときは(絕ゆるなき連續殺人を)おもほゆるかも

 (A)については、比較的にシンプルな見立てである。おそらく、太陽が何度でも昇ることの永遠性や空の低いところから徐々に白んでゆく様子を「永遠の泉」と見立てたのだろう。言い切りが美しく、格好良い。
 (B)の接続は序詞に他ならない。歌は意味的には二句目までの見立てと三句目以下とに分かれるのだが、序詞があるからこそ二つの節の接続は自然であり、かつ、ねじれのあるものとなっている。
 (C)よりも先に(D)を扱いたい。上述では二句目で切れる読みをしたが、異なる読みもある。つまり、二句目は序詞のためだけに挿入されたものであり、意味としては「あかときは(絕ゆるなき連續殺人を)おもほゆるかも」だという読みだ。ただし、どちらが誤っているということもないと思う。片方が地表を流れる川なのだとしたら、もう一方は地下を流れる水脈のようなものだ。一方の読みを採用しながら、もう一方の読みを背後に感じ取ることができるだろう。
 さて、(C)についてである。意味としては絶えることのない連続殺人を思った、というだけに他ならない。では、それが指す意味は何なのか。通常ならば警察などの統治によって絶えることのない連続殺人などありえないはずである。ただ、統治されがたく、ときに正義として行われる連続殺人がある。戦争である。そう読むとどうだろうか。初句の「あかとき」という語からは朝焼けも想起することが可能だが、地平付近が赤く燃える朝焼けである。空襲のイメージとも結びつかないか。結句の「おもほゆるかも」も自発なのである。本来なら思いたくないのに戦争を思ってしまう、思わざるをえない、そんな状況に(主体の視点を借りた)作者はいるのかもしれない。

 上に述べてきたように、序詞、読みの同時存在性、換喩がこの歌に多層性をもたらしている。この技巧(と、技巧の駆使のみにとどまらない歌の意味性)は見事だと言える。

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