一首の「鑑賞の幅を広げる」とは?

 永田和宏『近代秀歌』を読んだ。近代短歌の入門編の読み物としてはちょうどよい書籍だと感じた。僕自身、知らなかった歌もあったし、読んでいない歌人や歌集についていつかきちんと読まなきゃいけないなと刺激をもらった。

 ところで、僕にはどうも鑑賞の仕方で納得のいかないところがある。永田さんは、島木赤彦の「隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり」(『柿陰集』)について次のように述べる。

 多くの鑑賞は、この一首を、隣の部屋で幼い子供が教科書か何かを声をあげて読んでいると解釈している。実は、私もそう読んできた。しかし、本林勝夫は、すでに子は青春期に入っており、これは無邪気な音読などではなく、「父の病気をはばかってひそやかな声で読んでおり、それがかえって作者の心にしみてくるととる方が自然であるかもしれない」(『現代短歌評釈』)と言う。
 私はこの解釈に目を開かれた思いがした。歌人研究において、その個人史のなかで歌を解釈することは意味がないとする立場がある。しかし、歌が詠まれた現場を知ることは、このように歌の鑑賞の幅を大きく広げることがあるのだということもまた、忘れてはならないことのように思われる。

(1)本例の鑑賞の拡大は適当か
 なるほど、確かに後で述べられた鑑賞の方が面白いかもしれない。ただし、それが妥当な鑑賞かどうかは微妙な感じがする。
 少し脇道に逸れるが、僕が思うに、歌の外の情報が鑑賞の幅を広げる妥当な例は、歌一首あるいは連作に含まれる情報から当然気づくべきだった解釈に(歌の外の情報という補助線によって)気づくことができた場合なのである。歌の外の情報がないと成立しない鑑賞はもはや鑑賞ではないし、そう読ませられない作品に傷があるとしか言えない。ただし、そのような鑑賞ではない鑑賞をすっかり否定したいわけではない。それらは歌人研究や作品研究として成立するし、その面白さも分かる。ただ、あくまで鑑賞とは分けて考えるべきだいう立場なのである。
 さて、元の歌の解釈に戻ろう。永田さんが「目を開かれた思いがした」解釈が微妙だと思う話である。僕はその解釈を面白いとは思うけれど、それを知ってから元の歌を読んでも「ああ、どうして初めからそう読めなかったのだろう!」とはならないのである。「書をよむ」という動作や「子らの声」という情報からは、やはり生き生きとした子供の声を想像してしまうのだ。ただし、僕は引用された一首しか読んでいないし、歌集として読めばまた印象が違うのかもしれない。ここではあくまで「微妙」だと保留しておく。

(2)鑑賞の幅を広げるとは?
 そもそも僕は「微妙」を言いたくて筆を執ったのではない。実は、僕は永田さんの言う「鑑賞の幅を(略)広げる」という文句にあまり乗れないのである。これ以降は主観的な話が多く含まれるので、永山の戯言だとご容赦願いたい。
 永田さんの著書や発言は(同じ結社ということもあり)よく見聞きするが、「鑑賞の幅を(略)広げる」からはどうしても「歌の背後にある物語を広げる」というニュアンスを感じてしまうのである(例えば、「塔」2019年7月号の塔短歌会賞選考座談会の総評で永田さんは「作者がその場でいろんなことを感じたり、悩んだり、もがいたり、そういう姿がこちらに伝わってくる。(略)それが本当の作者であるかどうかは別にして、作者像がどこかで見えてくる作品でないとなかなか選び切れない気はしますね。」と発言しているが、この「作者像」からは吉川宏志的な「なまなましさ」ではなく、作者の物語性を想定いているように思える)。僕は短詩型の強みは決して物語にはなく、立ち上がるイメージや関係性だと思っている。もちろん、そこから物語を想像することもできるが、それは鑑賞の範囲であって、鑑賞とは「読み」の二次的な産物なのである。「鑑賞の幅を(略)広げる」という文句も何も間違っていないのだが、そこに短歌を読むうえでの重点があるようで嫌なのである。そういった思想から、永田さんの似た文句を見聞きする度にもやもやしていたので、自分の意見を整理・表明するために筆を執ったのだった。

・補足
 「読み」「鑑賞」「研究」と似た概念が頻出しているので、僕の意図した語義を整理しておきたい。各語義がこうあるべきだと言っているのではなくて、上記の文章の補足としての僕の理解である。
 「読み」とは、短歌の一次的な読み方である。テキストに忠実に読んで内容や印象を言語化することであり、作品の評価はこれによっておこなわれるべきだと思う。
 「鑑賞」とは、短歌の二次的な読み方である。テキストから解釈しうるテキスト外の情報をも想像することができる。短歌を読んで楽しむうえでは有用だが、「読み」との区別は意識しておこなう必要がある。
 「研究」は、歌人研究や作品研究という形式を想定している。作者の他作品や作品外の情報から一首ないし作品群を読み解く場合がある。
 余談だが、例えば一首評には「読み」「鑑賞」「研究」どれもがありえてどれもに価値があるが、意識的に区別している書き手はそう多くない気がしている。

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