定型詩は「文字数合わせゲーム」なのか

(0)前置き

 瀬川深氏のツイートとそれが生んだ流れで気になることがあった。瀬川氏のツイートに言及する前に、瀬川氏が最初に引用したツイートを共有する必要がある。次に引く。

日本の首相の演説などを「ポエム」と形容する評言に出くわすと詩の研究から出発した学者としては我慢がならない。
「ポエム」という語の誤用はぜひやめていただきたい。
日本語にはもっとふさわしい由緒ある表現があって、それは「ネゴト」である
/石田英敬(@nulptyx) 午前7:10 · 2020年4月8日

このツイートを引用して、瀬川氏は次のように述べた。

まったくの同感で詩を愛する者としては看過できない。詩は言語の王者なのに。むかしバルガスジョサの講演を聴いたとき「私には詩を書くほどの才能がなかったので小説を書いています(大意)」と言っていたのが印象的だった。同感である。
/瀬川深 Segawa Shin(@segawashin) 午前10:07 · 2020年4月8日

だいたい日本は短歌に俳句という文字数合わせゲームがやたらに流行ってるからまともな散文詩が書かれにくいんじゃないかと思っている。
/同上 午前10:10 · 2020年4月8日

承前)短歌俳句への批判は評判悪いとは思うんですが、あれが「短い言葉でスパッと本質を言い取ることこそ素晴らしい」という(個人的にはあまり魅力を感じない)価値観の固定化にもたらしている影響はでかいと思うので敢えて強い言葉を使っています。名句名歌があまたあることは承知の上でですよ。
/同上 午後2:21 · 2020年4月8日

これに対して、短歌・俳句作者からいくつかの直接的な批判があったことを確認した。

(1)「文字数合わせゲーム」は貶しなのか

 瀬川氏の引用したツイートは、「ポエム」という語が「ネゴト」(=筋の通らない言葉)と同一視されて貶されることへの憤りである。この文脈から考えると、瀬川氏は「文字数合わせゲーム」を当然貶しとして使用しているようだ。ただ、本人へ直接批判するほどなのか、という疑問が沸く。かつて第二芸術論がそうであったように、定型詩蔑視は何も珍しいことではない。可能性としては次の三点を考える。
1. 「ポエム」を蔑視するな、という主張に対して定型詩蔑視の矛盾
2. 瀬川氏がフォロワー10,000人を超える小説家であり、影響力が広大
3. 定型詩蔑視への後ろめたさ
何人かから受けた指摘によると、十中八九は1.のようである。ただ、私は最初3.に思えてならなかった。「貶しなのか」という表題からは逸れるが、3.の背景について少し述べたい。

 上で私は「当然貶しとして使用しているようだ」と書いた。「ようだ」というのは、私にはどうも貶しとして読めなかったからである。文脈的には貶しであることは分かるのだが、「文字数合わせゲーム」という語は貶しとして機能しているのか。これを貶しとして捉える心の動きには二通りあるのではないかと思う。一つは「ゲーム」がくだらないことの代名詞であり、定型詩を「くだらないこと」と同一視されたと感じる心の動き、もう一つは「文字数合わせゲーム」と一言で片づけられてしまうことに対して、そんなに単純なものではないと反発する心の動きである。ここまではよい(と思う)。おそらく、ここからが私の論の飛躍のあるところである。
 「くだらないこと」と同一視された、あるいは「文字数合わせゲーム」と一言にされてしまうことに多少の憤りを感じる気持ちは分からなくない。ただ、繰り返すようだが、本人に直接批判を加えるほどなのか。その背景に私は「後ろめたさ」を感じたのだ(「感じた」のは、きちんと筋道立てて考えたのではなく、自分の読みたいように読んでいる証左でもある)。つまり、本当は定型詩は「くだらないこと」や一言で片づけられうるものではあると自覚しながら、自分はそう信じない(信じたくない)、つまり根拠には乏しいながら定型詩はもっと素晴らしいものであるはずだと思い込む気持ちがあり、本人へ批判を加えることで自らの主張を強化しようとしているのではないか(と、ある時点での私は感じたのだった)。
 私はたぶん、定型詩を素晴らしいと思い込む精神に憧れと批判を同時に持っており、その心が上のような幻視をさせたのだと思う。当初の話題からはかなり逸れたところへ来てしまったが、私はどうやら定型詩に安住することなく、定型詩が定型詩たる必然性や強みはジャンルとして持ち続けなければならないと思っている。だからこそ、「定型詩を素晴らしいと思い込む精神」に強い批判を覚える。ただ、結論を言えば、それは私が独立して持っている主張であって、今回の流れとは一切関係がなかったことになる。当初の私のツイートで不快にさせた方々には申し訳ない。

(2)定型詩は散文詩の機会を損失しているのか

 それはそれとして、瀬川氏のツイートには興味深い問題の種がある。「文字数合わせゲーム」という貶し言葉は措いておいて、瀬川氏の二番目のツイートは、日本には定型詩があるから散文詩の機会が損なわれている、と読める。短歌作者である私が自身に引き付けて問題をすり替えて考えると、例えば定型詩作者は定型詩の作者ゆえに定型詩以外の形で完成しうる作品を定型詩にしてしまう、という問題もあるかもしれない。それもまた(瀬川氏の主張する内容とは異なるが)定型詩畑の私としては大きな機会損失だと思うし、問題である。定型が詩をある形に吸着してしまう、という問題についてはじっくりと考えたい。それを考えることは、(瀬川氏の主張するように)定型詩外部からも(私がしたように)定型詩内部からも考える必要があると思う。

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