一首評

ぼくだけがだめみたいだよ。もう蟬が。時計を忘れて、時間もわからない。
/初谷むい「プールサイド/落鱗」短歌研究2019年9月号

 一読して、人間的なもの(社会的なもの?)からの遊離を思った。「ぼくだけがだめみたい」という文句もそうだし、「時間もわからない」のはきっと「時計を忘れ」たせいなのではない。そして、この歌が決定的に面白いのは三句目の「もう蟬が。」の謎具合である。

 「もう蟬が」と言うときは、おそらくは二通りの場面がある。(1)もう蝉が鳴いている、もしくは(2)もう蝉が死んでいる、の二通りである(認識として「もう蝉が鳴いていない」とはならない)。この歌では後者で取った方が、主体と重なる部分もあり面白いだろう(、と私は取った)。つまり、先日鳴きはじめたばかりの蝉がもう死んでいる、(それとは直接の関係はないながら)僕はもうだめみたいだ、と読んでみたい。

 私はここで『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)を思い出す。かの小説では、主人公はネズミ(=アルジャーノン)を見て自らの運命を悟るが、掲出歌の主体は蝉を見て自らの運命を悟るわけである。そう思うと、三句目の言い止しがより悲愴的に感じられる。精神的にであったり体力的にであったり、「もう蟬が。」と言い止さざるとえない状況が主体側にあるということを、文体が示している。

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