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地球を告訴する種族 《 3.11後からの日本を案ず(4)》

── 前回「加害者なき提訴と被害者ありきの正義」の続きです

天災を批評する滑稽さ

どんなものでも…こんなものでも、一応文章というものを書くのは久しぶりのことなので、こんなまとまりのないものでも、書いていくうちにだんだんと自分の特徴を掴めたり、肩慣らし的な練習のような気持ちでいます。

そうこうして今回で第4回目です。特にふたつ感じることがあります。ひとつは「本当に集中できていない文章だな」というのが嫌になるくらい自分で把握しています。このことはまた、次の機会になんらかの検証をしてみたいと思っていますが、いまの自分では確かに、そこまで集中は難しいというのも認めざるを得ません。

ふたつめが重要で、それは「私は鬱憤が溜まってしまっている」ということを感じています。これはよくないと思います。そもそもはじめの回の冒頭で「ドラマ『監察医 朝顔』を見ていて、自分の中の3.11のわだかまりが解けている自分に気がついた」と書き出しているはずが、書き進めているうちに、どこか否定的な観点からの言葉が多いことに気がついてきました。

そう、これはよくないです。というか、私はべつに「批評」や「評価」をしたいわけではないのです。そのことを生活の中で考えながら、この際だから今回を最後に書き出してしまおうと思うことにしました。そうしたら、その次から書くものは、新しい気持ちで書き始められるだろうと。または、たとえ癖のように批評的な思考や表現が出てしまったなら、その都度に強く改めようと。そう思っています。

実は、それには理由があるのです。ある方に言われたのですが、とても大事に思っています。それはその新しい次の機会にご紹介しようと思っています。—— ただ、あのような大きな天災という出来事に対して、あれがこうでこれがああでとかって、言い出しても、私はあまり意味をなさないと思っているんです。むしろよくないとさえ思っています。

もう震災直後から、どこもかしこも、あれがこうで、それがだめで、ここが悪い、どこの責任で、とかって、もうみんなで言い合ってたでしょう。マスコミの構造がそういう構成だから、世間もそうなっちゃうのはある意味で仕方のないことだとは思いますけどね。結果、そうなんです。みんな「評価」つまりは「批評」をし始めちゃうんですよね。

大地震も大津波も、発端は天災ですからね。これは批評できるものではないのです。批評をはじめちゃうと、それこそが二次的な災害や混乱を巻き起こしたりします。本当の全体としては人間同士が分離してしまうからです。批判をもとにある程度の一部の者たちは結束を強めることは可能です。しかし、必ずそこには「イイモノ」と「ワルイモノ」と分けて対立や分離が生じてしまう。

あの頃も、私はそれを見ていました。大きく分けたなら、まるで「国民VS政府」や「市民VS電力会社」、小さくは身近の被害の責任の所在についての押し付け合いや、もっと小さいところでは、まったく被災地からも遠いところに住んでいる個人、例えば北の果てと南の果てにお住まいの方のネット投稿による正論のぶつけあいとか。もう、あらゆるところでそのような、謂わば人災が勃発していて、それがとても滑稽に思っていた私がいました。


みんな情緒不安定だった

震災のあと友人の引越しの手伝いで旧友たちが集まった時があったのですが、そのあと数名で居酒屋で飲んで帰りました。その時、男だけで皆、それなりには少しずついい歳になってきているので、昔のようにはしゃぎすぎたりもせず、落ち着いて時間を過ごしていたのですが、私は途中からほとんど居眠りをしていて、あまり覚えていません。

過去には人一倍はしゃぐタイプだったのですが、そんな私が、なぜ居眠りをしていたのかだけは覚えています。率直に「つまらなかった」です。もう、ある一定の年齢を越えた日本社会の男性が集まると、時事ネタ的に政治や社会情勢、云々、そういう話題がどんどん入り込んできます。もうこれは中世の時代からの男性脳及び男性社会の定番だと私は思っています。

その日は、ニュースや雑誌にある震災や原子力についての話ばかりだったんです。皆、本当のことなんてわからないですし、だからといって深刻な問題について、あまり無鉄砲な仮定なども言いませんから、結局、ニュースの上塗りをしているような話題ばかりになっていて、もう、私の脳は眠ってしまったんです。「それ、話し合って、なんになるんだよ」本音はそう思っていました。

テレビを見ても、なんにも知らないようなタレントコメンテーターがヒステリックに発言しているし、ネットを見ても、なんだかみんな情緒不安定な人多いし、悲劇的すぎてもはや猟奇的なポエムから、なぜかやたら天使的なスピリチュアルさんたちとかは浮世離れ以上に浮きまくってるし、訳知り顔で政治的発言している人や異常なほどに恐怖を煽る人とか、大人がおとなじゃなくて子供も子供でいられなくて、芸能人はどのような言動を発信するのかに必死っぽいし、、、もうみんな一回、一斉に口を塞ごうよっていう、なんかしょうがない世界を見ていた。

もうあの頃の私は人間が嫌になりかけていましたね。だけど、個人をそれおれ見ると、みんなに少しずつ共感していました。そのくらいに、つまりは人間は一体化し群衆になると滑稽で愚行が目立つということなんだと思います。全体的意見ほど的外れな危険なものはないのかもしれません。しかもその全体というのは、必ず大多数という多数決の割合ですから、実は、このような現実の通りに、実際は時代に翻弄されている大勢の割合なんだと思うのです。

こういう時勢の時は、大多数は大抵、敵か味方に分かれて二分します。そして多数決が起こるわけですが、その両派ともに同じ場所に生息する似たものというか、同じひとつの大多数の顔を持たない塊なんです。本当の少数派はその正義にも悪にも該当しない者たちなのだと思います。って、話が逸れていますよね。戻しましょう。

そうなんです。そんな私は、こういう人間の性質自体を批評し、またこうして批判していたんですよね。私も情緒不安定だったんですよね。


地球を告訴するほどまでになった種族

震災直後の頃ですが、私がよく使っていた比喩がありました。当時は世間も社会も、個人的な身の回りでも、過剰な様々な反応が前述のように多くありましたので、どうもこれって違うよね?っていう気持ちとして、私なりの表現であり発言でした。



—— 胃腸の調子が優れなくて、虫下しや下剤的な処置をして激しい下痢になり、腸内の細菌やウイルスが排便されて、その菌たちが…

「なんてむごいことを!神も仏もないばかやろー!」「罪ない者たちが大勢流されて死んだ!いったい何をしたっていうんだ!なぜこんな目にあわせるんだ!」とかって、大騒ぎしている。
でも、人間はスッキリ!キレイになってイライラもなくなりご機嫌だよね。


当時このような表現をしていました。


それを聞いた友人が教えてくれたのが、映画「クロコダイルダンディー」のワンシーンでの田舎育ちの主人公のセリフでした。


—— 犬についたノミが「この犬はおれの犬だー!」って言ってるようなもんだ…


そのセリフを聞いて、自分の比喩が恥ずかしくなったのですが、そうまさに私が言いたかったことを代弁してくれました。


私も子供時代は田舎の自然の中で育ちました。家業である農業を手伝いながら、自然と遊ぶ。それが普通の暮らしでした。そういう私だからでしょうか?私にも本気で心底わからないんです。理解ができないのです。たぶんこの地球という星で「生きる」という基本のベースが全く違っているのだと思います。

「海のばかやろー」「罪もないのに神様ひどい」などということを本気で言っている人間の思考回路。その心理そのものが私とは全くことなっていて理解不能なんです。

そして、私が知る「日本」という国にあった民族的な思考回路や理念や信仰心などと、全く異なる人々に思えて、とても不思議に思うのと同時に、私が勝手に日本という国を見誤って間違っていたんだなって、思ったほどでした。

もはや「地球にクレームをする」という、地球を告訴するほどまでになったこの人間という種族。

正直、こんな国になってしまっていたのかって思いました。いったいいつからこうなったのだろうと不思議に思ったりもしましたが、こういったケースはマスコミや報道を中心に、またそれを見た方々へ伝わっていくと考えると、まる1億人以上がこのような思考なのではないかと思えてしまうのですが、きっと実際はそこまでは多くないと考えています。


地球というサービスを消費する者たち

報道としてワイドショーやニュースショーや週刊誌が代表的な例ですが、結局、不満や不安、そして非難や批判の声を取り上げたほうが、視聴者になる一部の層が視聴したがるのだと思います。

正論でも言いがかりでも偏見でも嘘でも、声にあげたがる人の声だけが聞こえますし、どんなに真理を説こうが、悪意と策略をもって人民を欺こうが、どっちにしろ、テレビを見たがる人だけがテレビを見るのです。そういう傾向の人の声が代表となっていく、それが民主主義であり多数決であり、それらの皮肉としての正体であり、正義の欠点と言えます。

したがって、声なき声や、ただ黙って地道に活動する者にスポットがあたることはまずありえません。なので、私があの当時見ていた日本人は、本当は一部の者たちだったのだろうと言い切れると思っています。

しかし、あまりにもそういう方向へ日本は傾いたことは事実だと思います。そしてあれからはどんどん社会全体がそういう、クレームを言う権利をもった、サービスを受ける権利をもった、謂わば「消費者」意識のような国民が大多数になってしまった気がします。

そう定義すると、まるで現代では、地球の自然である風も生命も土も空気もなにもかもが、まるで「サービス」で、税金を払った当然の権利だと思ってしまっているかのような、いつのまに資本主義などに完全に飼いならされてしまった国民なのかもしれない。過激かもしれませんが、本当にそう思えてきます。

だって… 地震や台風で例えば土地が崩れたら、役所や政府に文句を言う。このようなことを当たり前のようにしている住民。本当にそういう人が実際にいっぱいいるんですもの。そりゃあ驚きますよね。それを先進国だとか都市化だとか、理論上は呼ぶのです。そういうのを文明だとか呼んでいるんです。

ちょっと話が一方向へ進みかけてますが、話を戻します。私は田舎育ちで、それだけが理由ではないのですが、とにかく一番驚いているのは、多くの現代人は地球に生きていることをどのように捉えているのだろう?ということなのです。今日も長くなってしまったので、また次回へ。

つづく ──

20210316



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