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(映画鑑賞ノート)ホラー映画作品集『NN4444』の不条理世界とは?

文=間合建介
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 2023年12月8日、オンライン上で奇妙な試みが始まった。なんだこれは? という印象をまずもった覚えがある。下北沢にてVHSの視聴を行えるVHS喫茶「TAN PEN TON」があるが、これを運営している映画レーベル 「NOTHING NEW」のサイトにて、自動販売機を模したデザインの映画視聴サービスが始まったのだ(現在は停止)。尖ったクールなデザインのこのサイトでは、午前0~4時の間だけ、4本の短編映画が配信販売された。

 NOTHING NEW製作による、これら4本の映画は好評を博し、下北沢の映画館「シモキタ - エキマエ - シネマ「K2」」にて2024年2月末の2週間の上映が決まった。上映はその度にほぼ満員となり、すぐさま3月15日からの追加上映も決まった。何がこれほどまで人を集めてくるのだろう? 一体何が起きているのだろう? 

自身も自主映画作家である間合建介氏に、この短編映画集『NN4444』をレポートしていただいた。

『NN4444』鑑賞ノート 間合建介 2024/2/27

 確実に迫る日常の崩壊を前に忽然と現れた『NN4444』は、そもそも日常と非日常の境が最初から存在しなかったことを告げていくようだ。実際に、下北沢の映画館「シモキタ-エキマエ-シネマK2」の2週間の興行を連日満席にした盛況ぶりは、誰しもが抱く確実な胸騒ぎに直接に呼応しているように見える。

 オカルト探求サークル「未確認の会」を主宰する比嘉さんから『NN4444』のことを教えてもらった私は、暗号のようなタイトルとうつろなポスタービジュアルから、少なくとも現在進行形の興行へのアピールの在り方を思い知らされるような気持ちがした。企画を立ち上げた林健太郎氏と鈴木健太氏の両プロデューサーは、深夜にのみ出現する動画配信プラットフォーム「NOTHING NEW」の企みから一貫して、短編映画を世に打ち出すビジョンを明確に持っているのだろう。しかし、この動画配信プラットフォームの詳細はよく知らない。『NN4444』を構成する4本の短編映画のなかに、自意識だとしても作り手であろうとする自分が反応した瞬間のことを批評の形にならないように、覚え書き程度にまとめたい。

人間に似た何か。中川奈月監督『犬』

 最初に上映される中川奈月監督『犬』は、小川あん演じる主人公・楓が犬に似た存在、仮に「犬族」と名付けられるような存在への変容を受け入れるようにして、焼きそばパン片手にゆっくりと接近していく姿勢に惹かれた。この「変容の期待」に満ちた小川あんの芝居がジャンルとしての「獣人映画」のなかに位置付けられることで、ジャック・ターナー『キャット・ピープル』(1942年)でシモーヌ・シモンが見せた妙な歩行と連関される。『犬』は『キャット・ピープル』と同様に、その最も緊張する瞬間を、変容前でも変容後でもなく、その接近する過程のなかに持ち、犬族の少女に「こんにちは」と話しかけるその声さえ、まるで小川あんの口から発せられたものではないように聞こえる(この場面において、広場の中心に聖域のように佇む林の外観が非常に説得力を持っていた)。

 しかし境界線を隔てた向こうの光景を提示することは非常に難しい。ポール・シュレイダーによってリメイクされた『キャット・ピープル』(1982年)のナスターシャ・キンスキーは、シモーヌ・シモン以上に自分自身を否定されることによって立ち上がる「猫族」としての在り方を体現しようとしたに違いない。否定された身体のなかに見出される異種の「自分」の在り方を今こそ発見しなければならない。

上下階の儀式。佐久間啓輔監督『Rat Tat Tat』 

 佐久間啓輔監督『Rat Tat Tat』は、この次に上映される『洗浄』と同じく、一つの画面内で一階と二階の上下の構造を見せることで、歪なパワーバランスを現出させる試みを持っているように思えた。『Rat Tat Tat』の擬音が示す劇中の儀式は、錫木うり演じる不妊症の主人公と上階の一組の夫婦がその上下の構図のなかに配置されたときに口火が切られる。この儀式において両者の影響関係を見たいと強く感じたのは、以前に私が画策して実現に至らなかった脚本のなかに、姉妹間で行われる胎児のテレポーテーションの儀式のシーンがあったためであろう。『Rat Tat Tat』で行われる儀式は決してテレポーテーションを意図するものではないのだろうが、私の企画において障碍を抱えた姉と健全な妹の間で変容するパワーバランスは、楳図かずお『おろち』(1969年~1970年)の階段や、スティーヴン・キング原作、メアリー・ランバート監督『ペット・セメタリー』(1989年)のエレベーター同様、その特別なロケーションと結び付く必要があった。『Rat Tat Tat』が見せる浮世離れした豪勢なロケーションは、その儀式によって歪な何かが産まれる代償をその上階の夫婦に用意していたのではないか、と妄想する。

水がヤバい……。宮原拓也監督『洗浄』 

 宮原拓也監督『洗浄』は湖の底に潜むであろう意思によって引き起こされる呪いを描いている。田中啓文『水霊 ミズチ』(1998年)でも問われたように、呪いの効果が水中毒・多飲症といった実際の症状を想起させるあたりに、『洗浄』の呪いの正体は水系感染の細菌による可能性も考えられる。どちらにせよ、湖を俯瞰するカットに人を水底へと引き摺り込もうとするかのような引力が感じられた。

 映画はその誕生当初から、心的影響を及ぼす忌まわしい水の表現に果敢に挑んできた。広く知られる例に中田秀夫『仄暗い水の底から』(2001年)の水を滴らせながら広がる天井の染みが挙げられる。人を溶解する液体の表現に、本多猪四郎『美女と液体人間』(1958年)、ロバート・フュースト『魔鬼雨』(1975年)等も印象深い。『洗浄』もまた毛布に染みていく水の表現などじっくり撮られているが、何よりひたすらに水を体内に摂取するという表現が、あらゆる生命と永遠の関係を持ち続けるであろう水の異様さを引き立てる。若者4人が呪いによって人間性を剥離されないのであれば、また生命と水の官能的な関係もそこに見られただろうと惜しむ気もした。夏子演じる主人公が突如として二階から拳銃を向けるとき呪いの求心力はどこかパーソナルな問題に収束されてしまうのだが、それでも「眼がきれいだ」と告げた男に向ける夏子のうつろな視線は、どこか引力を持つ湖と呼応しているようで怖い。

見てみぬふりはできない。岩崎裕介監督『VOID』 

 4本の上映を締め括る、岩崎裕介監督『VOID』は日常の崩壊前夜を舞台に進行する「日常」のドラマである。何気ない町の景観のなかに浮かび上がる光点は、映画を3つの章に区切る役割を超えて、この日常が「異物」によって侵略されつつあることを告げている(ただし、そこに明確な攻撃は含まれない)。

 果たして岩崎監督が、メインキャラクターである高校生たちに、忍び寄る崩壊を意識して芝居をするように告げたのか分からない。しかし「この世から豚が消えたなら」などの他愛ない会話が示す、見てはいけない異物に対して素っ気なく振る舞うように進行される様子こそ、現代のあらゆる芝居が意識しなければならない事態に違いない。主人公が、自殺した生徒の机に座って雑談する女子高生に対して、そういうのはよくないと思う、と注意すると、相手が「たしかに」とすぐに納得して机から離れる様子もまた新鮮なリアクションに感じられた。あらゆるドラマで行われる問いかけと応答があなたと誰かの間で交わされる会話のように今や異化されて、不気味な通奏低音を響かせている。創作する者はより自覚的にならねばならないことを思い知らされるだろう。

出典:
「深夜にのみ現れる“映画自販機”「NOTHING NEW」オープン 第1弾作品集『NN4444』解禁」
https://spincoaster.com/news/nothing-new-nn4444 

「映画自販機「NOTHING NEW」がスタート、販売される4作品の詳細も明らかに」https://branc.jp/article/2023/12/08/872.html

(書いた人)
間合建介
映画美学校フィクション・コースで映画の演出を学ぶ。
中央大学映画研究会で『再演』(2022年/34min)を制作。
『再演』予告→ https://www.youtube.com/watch?v=NDakTPiAC0Q
今年中に新作中編ホラー(?)『ひとがたに流れる血』を公開する見込み。

企画・編集=比嘉光太郎

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