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短編小説集

84
短編小説を挙げています。
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#物語

トリップ

トリップ

 久々に歩く新宿周辺の夜の散歩は、気付けば二時間も経過していた。目的地を敢えて迂回して彷徨っているうちに疲れてしまった。大学生の頃は悩んでいることがあると、頭を冷やすために最寄りだった中野駅から東京駅まで夜通し歩いたこともある。あの時も疲れたけれど、今は疲れの質が違う。不用意な形で年齢を重ねていることを実感してしまう。
 腕時計を見て、時刻を確認する。気付けば、草木も眠る丑三つ時。言葉通り、街は明

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愚か者

愚か者

 キーボードを叩く音が狭い部屋の中に響く。多くの人が寝静まる丑三つ時、オフィス街の一角で眠りを忘れた愚か者は、社会に取り残されたように画面と向き合う。朝と夜の概念を忘れて生きるなんて、思えば大学生以来だ。
 酒とタバコを片手に夢や希望で溢れた明るい未来を語ったのは遠い過去。あの頃描いた景色をひと時だけ見ることはできたけれど、長くは続かなかった。現実は甘くはないと身を持って知った。夢見心地だった時間

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余波

余波

 同じ道を歩いている。いつもそうだ。オレは変われないのか?
弱々しく呟いても、声はすぐに消える。だから、いつも同じ姿がくっきりと脳裏に浮かんでしまう。反射的に目を瞑ってしまう。でも結果はいつも同じ、視界が奪われて真っ暗になるだけだった。気持ちを紛らわせてる為に覚えて数年が経つ青春の産物を取り出して火を付けて、息を吐き出す。先端はオレンジ色に着色され、ホタルのようにささやかな明かりを灯し、同時に浮か

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不用意な一言

不用意な一言

 風に含まれる冷たさには冬の匂いが紛れている。夜が来るのが早くなり、通勤通路の住宅街の外灯も合わせて点灯するのが早い。ひどく寒がりの僕には苦手な季節がやってきた。まだ吐息も白くならない季節の中間地点を歩きながら、今年も残り少ないことに自覚的になる。
 コンビニで買ったカフェオレで暖を取りながら歩いていると、幾分感傷に浸る。歳を取ったと自虐的に笑ってみても、年齢ほどの深さが皆無だからこそ、余計に虚し

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タイムトライアル

タイムトライアル

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の

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栓抜き

栓抜き

「冷た」
 思わぬ声が浴室に響いた。カランの時は温かかったはずなのにシャワーになった瞬間に冷たい水が流れるシャワーの構造を忘れていた。冷水を全身に浴びたことで、毛穴が閉まっていく感覚に思わず声が出てしまった。逃げ場のない狭い閉所で、何もできない姿は、なんだか今の自分を体現しているようで堪えた。
 本来の銀色を浸食する水垢だらけの蛇口を捻り、シャワーを止める。一気に冷え込んだ身体を温めたい思いを抱き

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シーラカンス

シーラカンス

「携帯ラジオ持ってる人、初めて見ました」
 無邪気に言う大学時代の後輩は、一目で結婚式帰りだと分かる格好をしていた。夜も浅い電車内には程よく遊び疲れたカップルや補導の時間とのせめぎ合いをする中高生の姿が目立っている。日曜日ということもあって、スーツ姿は少ない。幹生のように礼服であれどスーツを着ているのは少数派だった。
 同じようにドレス姿も少ない。結婚式会場からほど遠い都会に向かっているからだろう

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一通のメール

一通のメール

 言葉にならないような感情に陥るのは、どうでもいいことばかりを考えてしまうからだろうか。歳を重ねれば重なれるほどに考えることが増えていき、それでいて消化することが難しくなっていく。
 でも学校ではそんなことを黙っていて、夢を持つことを必要以上に強要する。大きければ大きいほど良いとされた夢を。それでいて叶わなかったことに関しては、妥協という使い勝手のいい言葉で誤魔化す。あの頃には気付くはずのない教育

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抜け落ちた記憶

抜け落ちた記憶

「あと、何回殺せば、救われますか?」
 誰もいない明け方の公園のベンチで誰に向けた訳でもない私の言葉は、頭の中で跳ね返ってくる。自棄にでもなりそうだ。いや、もうなっているか。
 殺して、殺し続けたのかを考えるだけで胸の辺りが締め付けられるような痛みが走ることにも慣れつつある自分がいる。心臓なのか心と言う未確認因子なのかは分からないままに、不意にやってくる痛み。付き合っていくことが宿命めいているのは

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ミスターいい人

ミスターいい人

「どう思う? ミスターいい人」
 いつの間にか浸透した二つ名は、僕を見事に形容している。受け入れるのに時間が掛かったのは、いい人という単語の中に組み込まれた幾つかの意味のせいだ。文字面は良いけれど、言ってしまえば蔑みに近い。
 優しいし、いい人なんだけど。
 そんな告白の断り文句は耳にタコができるほど聞いた。僕のことを傷つけないようにする彼女たちのぎこちない優しさには時差があって、時間が経つにつれ

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周波数

周波数

 家に帰ることには日付が変わっている。代わり映えのない日々を過ごしていると、感覚が麻痺してしまうことを社会人になって知った。学生時代、日付が変わる深夜の時間帯はワクワクしていた。ゴールデン番組とは異なる深夜番組、寝静まった街の景色、飲み会帰りの浮ついた足取り。どれもが同じ時間軸であると信じたくないほど、冷たくなった夜。そんなことも最近では慣れ始めている。静かで暗い雰囲気をぶち壊す明るい車内にいると

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夏空

夏空

 今日が猛暑日だとラジオで知った。スマホ一つで簡単に情報を調べることのできる昨今で、昔から存在しているツールを通して、かつ誰かの声で情報を得ることは時代錯誤のように思えた。
 窓辺の指定位置に置いたラジカセ。周波数を安定的に捉えるために伸ばしたアンテナは、少し前の携帯電話を彷彿とさせた。あの頃の携帯電話に収縮自由のアンテナが標準装備されて、笑ってしまうほど長いアンテナで電話をしている人がいた。多分

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観覧車

観覧車

 夏休みに入って、二週間が過ぎた。普段、キャンパスで顔を合わせる仲間との一時的な別れが寂しく思えるくらいに、僕の大学生活は鮮やかだった。
 久し振りの再会は、葛西臨海公園だった。リーダーが言い出したバーベキュー大会は、これで四回目。大学生活の夏はバーベキューという変な刷り込みに従順な僕は、良くも悪くも青春を謳歌していた。そうでもなければ、スーツ姿で京葉線に揺られることはなかったと思う。開始時刻は1

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きっと貴女は遠くで泣いているから

きっと貴女は遠くで泣いているから

 当たり前が当たり前じゃ無くなった。失って気付く幸せなんて、よく分からなかったけれど、突然目の前に現れると大きさに自覚的になってしまう。僕はきっと傲慢で、無頓着だ。
「今年の花火大会、中止らしいよ」
 電話口で彼女は寂しそうな声を漏らした。今年の春に上京した彼女は、地元に残っている僕よりも地元のことに詳しかったりする。不思議な感覚に陥るけれど、軽いホームシックのようなものに苛まれているのだと勝手に

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