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不用意な一言

 風に含まれる冷たさには冬の匂いが紛れている。夜が来るのが早くなり、通勤通路の住宅街の外灯も合わせて点灯するのが早い。ひどく寒がりの僕には苦手な季節がやってきた。まだ吐息も白くならない季節の中間地点を歩きながら、今年も残り少ないことに自覚的になる。
 コンビニで買ったカフェオレで暖を取りながら歩いていると、幾分感傷に浸る。歳を取ったと自虐的に笑ってみても、年齢ほどの深さが皆無だからこそ、余計に虚しくなる。押しているロードバイクがなんだか重たく感じた。
「今日はありがとう」
 そんな僕を現実に戻したのは、横を歩く同僚の声だった。スーツの上にコートを羽織い、マフラーを首元に巻いている自分とは同じ季節にいるとは思えない秋のファッションを着こなす君は、感謝の意をい表情に出しながら訊いた。君も僕と同じように自転車を押している。街乗り用のシティバイクだ。
「そんな大したことしてないよ」
「私だけだったら直せなかったし、何より手が真っ黒だよ」
 僕はその言葉で右手を確認する。確かに夜でも分かるくらい手が黒くなった。

 帰宅途中、君に声を掛けたのは、速度の出せそうな国道なのにも関わらず、綺麗に整備されたシティバイクを押していたからだ。別に声を掛ける必要性などはなかった。でも気になる相手が目の前に居れば、声を掛けたくなるのは男性の性のせいだろう。それに今日は満月。少しはらしくないことをしようと背伸びをした結果だった。僕の顔を見て開口一番「パンク直せる?」と訊かれた時は面食らったけれど、君の頼みならば断る理由はなかったし、幸い、自転車に飲め込んだ時期に身に付けたスキルがあった。
「簡単なパンクくらいなら」
「じゃあ、お願いしていい?」
 僕らは目に入ったコンビニの駐車場に向かい、歩き出した。5分も満たない僅かな時間で事の顛末を確認した。どうやら道の段差を通ってしまったようだ。しかも昨日タイヤの空気圧を少し多めに入れたと早口でしゃべる君の声は、新鮮だった。トラブル自体そこらへんに転がっている路傍の石のような自転車トラブルだ。視界が制限される夜には多いし、何度か僕も同じトラブルに出会ったことがあった。
 コンビニに着き、明かりが差し込む駐輪場で、君のシティバイクを確認する。見た目でも分かるくらいに空気の抜けたマヌケな姿をしたタイヤに触れる。どうやらガラスの破片などの鋭利な物を踏んだ様子はない。
「換えのチューブ持ってる?」
「持ってないな。いつも修理するときは自転車屋さんに行っちゃうから」
「そうだよね、それが一番正確だもんな」
 僕は背負っていたカバンを下ろして、中身を確認する。パンク用に持ち合わせているチューブとコンパクトな空気入れを取り出した。
「多分、サイズは合うはずだから10分もかからないうちに直せるよ。寒いからコンビニの中に入っててもいいよ」
 マフラーを外し、スーツの上着を自分のロードバイクのサドルの上に置く。ワイシャツ姿ではやっぱり肌寒い。でも作業効率と汚れる可能性を踏まえて、袖を捲る。そしてシティバイクを逆さにした。サドルとハンドルを支点にした姿は、僕にとっては見慣れた光景だったけれど、君は心配そうな表情を浮かべていた。でも何も言わずに作業を始める姿を確認してから、僕の言う通りにコンビニの店内へと足を運んだ。その後ろ姿を見つめながら、ひとつ深呼吸をする。安堵の深呼吸だ。君に見られた状態では、思うように手が進まないと思える程度には僕の恋愛偏差値は低い。中学生にも負けそうな程度に。
 誰もいない駐輪場で、店内の光だけを頼りに作業を進めていく。タイヤを外して、専用の道具を駆使して、タイヤとホイールの間にあるチューブを抜き取る。少しずつ気持ちが高揚していく。きっと、久し振りの修理だからだろう。自転車の修理や電子機器の配線などの作業は楽しいと感じるなんて一人暮らしをするまでは知らなかった。因果なもんだと思う。もし知っていたら、人生は違ったものになっていたはずだ。のめり込んだら長い性格であり、苦手だった理系の授業もちゃんと受けていたかもしれない。どうでもいいことを考えながらも、慣れた手つきで工程をこなしていく。
 宣言通り、10分も経たないうちに修理は完了した。君が両手に紙コップを持っていることに気付くのは、その時だった。

「カフェオレご馳走様です」
「カフェオレで解決するなら、安い修理代だよ」
 君は笑って、紙コップを口に近づける。緩やかな上り坂を進みながら、僕はラッキーな展開であることを本当の意味で自覚する。そしてトラブルが近づけた好機に浮かれてしまったのだろう。夜空で存在感を放つ満月を見て、思わず口が動いた。
「月が綺麗だね」
 不用意な一言だった。僕が口にした言葉に隠れた意味を君が知らないことを隣で歩く君が知らないことを願った。僕は臆病者であることを再認識して、そして妙な和訳をした夏目漱石を恨んだ。
「そうだね」
 君は普段と変わらない声で答えた。どうやら知らないらしい。或いは知っていても、隠れた意味を掬わずに、事実として受け取ったみたいだ。僕は君にバレないように胸をなで下ろして、君の横顔を盗み見る。君は僕の言葉に誘われたようで、夜空を見上げていた。丁度、坂の頂上だった。平坦な道が続くベッドタウン、きっとこの辺に君の家があるのだろうなと推測する。僕の部屋がある場所は、もっと先にある丘の入り口だから、この辺で別れるのだろうと思った。
 夜空を遮る障害物のない場所で光る満月が二人を照らす。ふとした瞬間、君の右手が僕の左手に触れた。「死んでもいいわ」と口にしながら。
 僕は混乱した。そして不用意に口にした言葉が粋な返事で肯定された。
 どういうこと? えっ、もしかして? 次々と頭の中で疑問文が錯綜する。
 整理の追いつかない僕の姿を見て呆れたのか、君は僕の油で黒く汚れた左手を握った。もう言及するのは無粋だった。僕は君の右手を握り返した。君の手から伝わる温度を感じながら、ゆっくりと歩き始めた。そんな二人を静かに祝福するように夜空は澄んでいて、綺麗だった。

 文責 朝比奈ケイスケ

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