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タイムトライアル

 目覚まし時計の音が部屋に響いた。布団から出たくない思いを抱きながら、音の鳴る方へと右手を伸ばす。スイッチの感触を感じながら、弱々しい指の力で押す。音が止まり、静まりかえる部屋。眠気眼をこすりながら、止めた時計の時刻を確認する。八時半を少し過ぎた時刻を示す二本の針を見た途端、さっきまでの弱々しさが嘘のように、身体を起こした。
「やべー」
 放った独り言に追いつこうとするように、ベッドから出る。冬の入り口に入った部屋は思っていたよりも寒い。そんなことを気にしている暇も無い。僕は普段の三倍程度の早さで着替えを済まして、昨夜に食べようとしてテーブルに置いた封の開いていない菓子パンを口に咥えながら、リュックを背負い外に出た。朝日が眩しい。まだ起きてから五分も経過していないからこそ、その光は暴力にすら感じた。
 小走りで駐輪場へと向かう。チェーンが錆びて、カゴもボロボロの高校時代からの愛車のステップを上げる。自転車を取り出してすぐにサドルに跨がり、ゆっくりとペダルを回す。アパートの駐輪場を出て、すぐの通りの状況を確認する。車やバイク、自転車、そして歩行者の確認をしてから、一気にペダルを踏んだ。耳障りな音を鳴らす。どんどん目が覚めていくのを感じる。全身が固く、起き抜けの状態にも関わらず、自分の身体に鞭を打つ。まっすぐな一本道を進みながら、道沿いに店を構える床屋の時計を一瞥する。
 八時四十三分。出勤時間まで残り十七分。
「ギリギリだな」
 静かに呟きながら、速度を上げるようにサドルから腰を上げた。立ち漕ぎの姿勢で、身体を前傾させる。冷たい風が無防備な顔に触れたことで、速度が速くなったことを自覚する。積み重ねてきた経験値は、いらない場面や不意に急に顔を出した。
 ったく、久し振りのタイムトライアルじゃねぇか、と心で毒づきながら、高校時代の朝を思い出していた。高校生の頃から朝が弱くて、起き抜けで自転車を漕いでいた。いつもギリギリで生きていたけれど、無遅刻無欠席の三年間だった。そして毎朝のタイムトライアルは生きていることを体感できる数少ない機会だった。社会人になってからは歳を取ったせいなのか、朝、寝坊することはなくなった。代わりに十分前には目的地にいることが当たり前になった。それなのに、今日は寝坊した。不思議な違和感を抱いていることに自覚的になったとき、目の前の信号が赤になった。条件反射で両手を握る。チェーンよりも甲高い錆びたブレーキ音が聴覚を刺激して、そして道中に広がった。でも誰も気にしない。そんなもんだ、社会なんて。
僕の前を過ぎ去る車の窓に自分の姿が映る。跳ねた寝癖は、自分の状態や体調とは裏腹に、元気だった。滑稽な状況に笑いが込み上げる。でも押さえ込む。ブレーキ音のように誰も気にしないなんてことはないからだ。きっと変人か何かに誰かの目には映るだろう。ブレーキ音と自虐的な笑い。音声という共通点があるのに、物か人間かで見方は大きく変化を生む。自由なんてないように思えた。多分、自由に見えるものも、きっと不自由さを孕んでいるのだろうな。憂鬱な朝、まだ冴えてない頭は本質を無防備にさせる。整えなきゃ、まっとうな人間になるために。
 信号が青に変わった。僕は無表情でペダルを回した。マヌケな音を全身に背負って。誰かの目を気にして怯えることで得る心地悪い生きた感覚よりも高校時代のように純粋に生きていると体感できる機会が欲しいと思った。切に、強く思った。そしてそんな自分を振り切るように、全力でペダルを回した。何かかか逃げるように。ただ、目的地は職場だ。何かから逃げようとしているのに、その先は労働という逃げられない義務だ。あの頃は教育であり、目的地は学校だった。おおよそズレていないのに、印象は大きく違う。改めて、成りたくない大人になっちまったなとため息をこぼした。
 職場の外に設置された時計は八時五十五分を示していた。間に合ったと思った。でも扉は閉まったままで、電気は付いていない。その時、僕は気付いたんだ。今日が定休日の土曜日であること、そして、自由よりも習慣と義務に従順だったことに。

文責 朝比奈ケイスケ

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