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「戦時の嘘」に描かれた戦争プロパガンダ⑨~悪魔化されたドイツ皇帝

前回はこちら。

 
 残虐行為にまつわる嘘は、「敵国の悪魔化」の延長線上にある。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に向けられた中傷も、同じメカニズムで説明できるだろう。


手のひらを返した英国メディア

 1913年10月17日の「イブニング・ニュース」では、こう書かれている。

「ドイツ皇帝は、他のどのような絆よりも信用に足る言葉を発する勇敢な紳士であり、我々が進んで招き、別れを惜しむ客人であり、我々と同様の正義に基づいて、ドイツ国民のために大望を抱いている君主であると、我々はみな認めている」

 皇帝に対して好意的でさえあったイギリスのメディアは、大戦が始まるとともに手のひらを返した。1915年5月14日、ヴィルヘルム2世のガーター勲章剥奪についての記事の導入で、「デイリー・エクスプレス」紙はこう述べる。

「この王冠をかぶった犯罪者の命令によって、街は焼かれ、老人や子どもは殺され、女性や少女たちは乱暴され、害のない漁師たちは溺死させられた。彼は『全世界が裁かれる偉大な日』に、ファラバ号とルシタニア号の犠牲者に対して答えなくてはならないだろう」

(※ファラバ号、ルシタニア号…ドイツの潜水艦攻撃によって撃沈された民間船)

風刺の標的になった皇帝

 特徴的な「カイゼル髭」を持つヴィルヘルム2世は、似顔絵の描きやすさから風刺漫画の格好の標的となった。1918年、「パンチ」は皇帝を聖書に登場する悪人・カインとして描写した。その下には、「14000以上の非戦闘員が、皇帝の命令で殺された」と書かれている。

 ヴィルヘルム2世は短気・傲慢なところがあり、敵をつくりやすい性格であったことは否定できない。彼が推し進めたドイツの強国化は、イギリスやフランスの警戒を招いたという事実は歴史の教科書にも書かれている。

カイゼルは戦争の元凶か?

 しかし、「ヴィルヘルム2世が第一次世界大戦を引き起こした」という理解は適切ではない。近年の研究では、ヴィルヘルム2世のドイツ外交に対する影響力はさほど大きくなかったことが明らかになっている。1905年、モロッコの支配をめぐってドイツとフランスが対立する事件が起きた(第1次モロッコ事件)。この時、ヴィルヘルム2世はフランスの駐在武官に対し、ドイツが武力行使に訴えることはないと保証した。皇帝は、むしろ他の列強との決定的対立を望まず、平和維持を望んでいたといえる(竹中2018)。

 大戦中に流された「犯罪者の皇帝」のプロパガンダを信じた連合国の大衆は、戦争が終われば、皇帝は当然絞首刑に処されるものと信じていた。だが、戦勝国の為政者たちは、もちろん彼が死刑に相応しいとは思っていなかった。ドイツ革命で退位したヴィルヘルム2世が亡命し、オランダで余生を過ごすことを許された時、大衆は自分たちが騙されていたことを悟ることになった。

(続く)

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