第三の道は、信念のおうちの裏口に 【じぶんのクセを好きになる】
第三の道は、信念のおうちの裏口に
さて、今日は「待つ」ということが具体的にどういう効果をもたらしてくれるのか、Kくんの事例を踏まえて考えてみようと思います。
Kくんの悩みは、上司からのモラハラ気味のノルマ設定によってストレスを感じていることでした。
このときKくんの中では、「仕事を辞めて転職をする」または「仕事を辞めない」という二つの選択肢が生まれています。僕はその選択肢のどちらをとるべきかと悩んで、相談をされたわけですね。
Kくんはすぐにでも決断したくなっているわけです。こういうときはいつでも、すぐに次にいきたいんですね。今受けているストレスがものすごく苦しいわけですから。辛いわけですから。早くこの現実を、打ち倒すか、とっとと逃げ去るかしたいわけです。
実は現実の解決策は基本的に、この二つのうちのどちらか、またはその二つの混ぜ合わせによって意思決定をしています。僕もそうです。みんなそうなんです。
何か自分にとってすごく嫌なことが起こったとき、それを打ち倒すために闘うのか、またはそれと出会わないように避けるのか。このどちらかを選ぶということです。
人生における不本意な出来事との出会いにおける解決策は、この「闘争」か「逃走」の二つしかないんですね。驚きですね。多彩な選択肢があるように見えて、根本を辿れば二つだけなんですね。
そして、この二つの選択肢とは別に、裏口のようなものが存在しています。それが「第三の道」です。
人は問題に直面したとき、「前に進む」ことを考えるわけです。闘うにせよ、逃げるにせよ、現実を前に進ませるために思考し、行動します。
ですが、この「第三の道」は”後ろ”ににあるんです。根本とも言えるかもしれません。ちょっと手前に戻る感じなんですね。ちょっと自分の深いところに立ち戻る感じです。だからすっごく見つけづらいんです。
そこに「第三の道」があるわけですから、「待って、感じる」ことが必要なわけです。ストレスを感じたときにそれに対処しようとするわけではなくて、その震源地に降りていってみてあげるわけです。
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現実で起こっていることをストレスだと感知しているのは、自分自身なんですね。
現実では、色々な出来事が起こります。両親の死、最愛のパートナーとの別れ、仕事における苦難、親友との喧嘩…。
僕の場合は、高校の頃に付き合っていた彼女との初デートで、朝起きれずに三時間待たせてしまったことがありました。岡山の田舎だったので、何もない駄菓子屋さんの前で三時間です。
その後、その彼女とは結構長くお付き合いしたのですが、付き合った最初のデートという最も大切な最初の局面で困難を迎えてしまったわけです。いや、僕が引き起こしたことなんですけどね。
と、そんなこんなで現実では色々な出来事が起こりますよね。ですが、それを「嫌だなぁ」と感じているのは、あなた自身の内側なんです。現実に嫌なことが起こっているわけではなく、現実で起こったことを嫌だと感じているんです。その順番がすごく大切です。
嫌って感覚は、あなただけのものだったんですね。あなたが嫌だと思っていることは、実は他の人はそんなに嫌だと思っていないかもしれない、ということです。
例えば僕は、電車の中でおしゃべりをしてる人たちのことが気になりません。むしろみんな静かに下を向きすぎだと思ってるくらいです。
もうちょっと楽しくなりたいんです。だからみんな、喋ってください。僕も喋りたいです。むしろBGMとか流してください。電車の中でギターを弾いて歌ってる人がいてもいいくらいに思ってます。
ですが、そんなの嫌だよ、って人もたくさんいますよね。その気持も分かります。理解はできますが、僕は結構違うかもしれません。理解はできても、体感はできないわけです。
そんなすれ違いが、この世界にはたくさん起きているわけです。クセの違いによって、嫌だと感じる部分が異なるわけです。
その違いを自分のこととして体感できないから、戦争が起こるわけです。喧嘩が起こるわけです。その部分の相違によって、争いはいつも起こっています。
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危ないです、戦争の話になるところでした。世界平和の話もしたいですが、この本ではそれよりも、あなたのごくごく個人的なクセの話がしたいんでした。そうでした。
あなたが「嫌だ」と感じる出来事は、あなたの内面が引き起こしていることだ、ということを書きました。
それが何を意味するかというと、「嫌だ」という感情は、あなたにとってすごく大切なことが今まさに起こっていますよ、という合図なんですね。心からのメッセージなんです。
それを受け取れるか受け取れないかが、「第三の道」を発見できるかどうかの大きな境目なんですね。
大抵はそれを丁寧に受け取る前に、対処しちゃいます。嫌なことの発生源になっている原因をなくそうとします。闘争するか、逃走するわけです。
コツは、嫌なことを現実から取り除こうとするわけではなく、自分の中にある嫌さを溶かしてあげるという感覚です。第三の道が発見されたときには、もうその嫌さはちょっと溶けています。
そして自然と変わっていきます。その内面的変化が、自然と自分の在り方を変えて、周囲を変えていくんです。doではなくbeになるという感覚です。
それを本当の熟練度で習得してしまったら、もうそれは、神の力みたいな、魔法の力みたいな感じです。自分の在り方だけで、周りの現実が自分にとって望むものだけになっていくんですから。
それが自然体のクセの力であり、才能の本来持っている力なんです。
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では、Kくんの上司との関係性におけるストレスを紐解いてみましょう。
まずは、「どうやったらその状況を打破できるか?」と考えるのではなく、一旦待ってみて、そして感じるんですね。
「どうやったら現実を変えられるか?」という問いから「私の心は何を感じようとしているのか?」という問いに置き換えてあげるような感じです。
問いは自分に合ったものでいいです。自身の自然体のクセに合った言葉が、一番いいです。僕なら「僕の中の何が反応しているんだろう?」という感じできいてあげると思います。
言葉は自分が感じることができれば、なんでもいいです。でも最初は自分のクセに合った言葉があまり分からないと思うので、そのためにお試しとして、第二章のワークで具体的に設定してみたということなんですね。
さてKくんの場合は、上司に厳しいノルマを設定されること自体というよりも、むしろそのノルマを達成できない自分自身が嫌になっているということを話してくれました。
そしてそのノルマを達成できない自分になってしまうと、他人(例えば今回なら上司)から怒られてしまう。怒られてしまうことは、自分を否定されているように感じる、という感覚になるらしいです。
ノルマを達成するかどうか、がKくんにとって大事だったんですね。もう少し踏み込むと、会社やそこにいる人たちに価値を発揮できていることが伝わっているかどうか、みたいなところが、Kくん自身が他者に自分を否定されないために大切なことだと感じているようでした。
すごい発見ですね。Kくんのすごく素敵なクセが見えてきているような気がします。分かるようで、分からないような。他人ですから、理解はできても最後には彼の嫌さを僕が感じ切ることはできません。面白いですね。
ということで、Kくんが抱えている課題は「モラハラ上司」ではなくて、「ノルマを達成しないと自分の存在を否定されてしまう」という観念だということが分かりました。
これ、読んでいるだけだと割とシンプルに感じちゃうかもしれませんが、すごく根深いですよ。
もしかしたら、その「モラハラ上司」も実は、Kくんに似た観念を持っているのかもしれません。処世術のクセは、言い換えると「信念」とも言えちゃうんです。その人にとっての正義なんです。だから怖いんですね。根深いんですね。
例えばKくんの上司は「己の限界を超えていくことのできる人は、社会や他者に貢献できる存在になれる。」という信念を持っているのかもしれません。
そう考えれば、このモラハラを上司自身は「これは愛のある厳しさだ」と考える理由も分かってきませんか?優しさだと考えているわけです。
Kくんに、社会や他者に貢献できる人間に成長してほしいと思っているわけです。だから厳しくするわけです。限界を超える必要のあるノルマを設定するわけです。
Kくんの上司に関する考察は、全て偏見と先入観なので、ひとまずここまでにしましょうか。
Kくんは、これまで「目標を達成していく」ことを頑張ってきたわけです。それは「自分の存在を否定される」ようなことを避けるためでした。
逆に言い換えれば「自分の存在を認めてもらう」ために、目標を達成していく能力とそのベースとなっている危機感を身に付けてきたわけです。
これが第二章で書いた、Kくんの処世術のクセです。
処世術が発動しそうになるとき、そこには「嫌だなぁ」と感じるような、自分にとって望まない現実が起こっているわけです。それに反応するんですね。
その「望まない現実」が、Kくんの場合だと「怒られる = 自分の存在が否定されてしまう」というようなことなわけです。
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では、Kくんにとっての第三の道は何なんでしょう?
第二章で書いたように、その人の自然体のクセ(才能)は、処世術を裏返すとヒントが得られます。
Kくんの自然体のクセは「目標を達成しなくても、自分の存在が認められる世界」に生きることです。
処世術と、ちょうど逆ですよね。これまで頑張ってきたことと、逆みたいになっちゃうんです。信念の裏返しです。
だから、これを受け入れるのって、ここで書いている以上に本当に難しいことです。勇気がいることです。
だって、これまでその原動力によって頑張ってきたのに、自分が信じてきたものが地盤から崩れてしまうわけですから。
その先にいる、今の信念からしたら一番しょうもないような、無気力になってしまうんじゃないかと恐れてしまうような、そんな自分になっていく恐怖が伴います。
でも、それくらいのことが起こってしまうんですね。より安心して、より自然体になれた人間はすごいです。そのことを信じられるかどうかです。自分の命だけを信頼してあげられるかどうかです。
自分には本来的にものすごい力が備わっているんだ、と感じられるかどうかです。これが自己受容感なんですね。
自己受容感が高い、自己肯定感が低い、なんて言いますけど、これ、ものすっごく難しいことだと思いませんか?
というか、誰が高い、誰が低い、なんてことではなくて、万人にとってすごく個人的で大切な課題として、いつも内面に備わっているわけです。人生を通して向き合い続けることなわけです。それくらい普遍的なテーマなんじゃないかと僕は思っています。
なのでKくんの場合は、「目標を達成していない自分でも、私の存在は他者から心の底から認められる」という世界に移っていく勇気を持てるようになったら、第三の道が開きます。
これまでの信念とは逆なわけですから、そりゃ想像もしていません、こんなこと。
そこにあるのはすごく硬い壁だなって感じがします。今までと逆の世界に移っていくことは、ものすごく勇気がいることのように他人ながら感じます。
その世界があると信じられるようになったら、何が起こるのでしょうか?
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今日の原稿分が終わりに近付いてきたので、今回はここにして、明日続きを書くことにしますね。
では、また明日。
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