見出し画像

読書感想文 日本史の謎は地政学で解ける/兵藤二十八

神武天皇による東進の理由

 天上の世界から、南九州の火山帯高原に降り立った神がいた。その子孫を「神武天皇」といった。その神武天皇は日向の地からやがて東へと進行を始めるが――『日本書紀』や『古事記』に描かれるこの物語は空想であろうか?
 おそらくは「米作農業知識人」を中核とし、その適地であった九州北部から支配地を主張したはずの弥生人が、瀬戸内を中心に広がっていた「やまと国」を長い年月をかけて吸収合併し、いまの奈良県に「大和王朝」と称した政府を立ち上げるまでの歴史を、「一人の指導者による短期間による進撃」に圧縮したものだろう。
 神話によれば、神武天皇は瀬戸内海を通っていまの大阪湾への上陸を試みるも、先住部族の抵抗激しく、いったんは退いた。
 その後、あらためて紀伊半島の沿岸を南下。その東側の熊野灘を回り込んで上陸作戦を成功させ、ついには奈良県を撃破し、占領したという。
 今日の大阪市は縄文時代には巨大な沼だった。水産物を楽に得られるから、「上町台地」を中心に原住部族が異様に多く、かつ湿地帯が広かったので、神武天皇の軍勢はイニシアティヴを取れずに撤退するしかなかった。
 ではどうして最初から四国の南側に沿って、紀伊半島南部を目指さなかったのだろうか?
 実は九州南部の日向灘から今の静岡県が面する遠州灘にかけての、日本列島の南岸は、いちど難破したら生還不能のすこぶる恐ろしい海域だったのだ。船がひとたび陸から離れてしまうと、沖合には強い海流(黒潮)があって、どんどん伊豆方面へと運ばれてしまう。当時の櫓櫂(ろかい)こぎではその波に逆らうなんて、とうてい無理だった。
 それゆえに大阪湾に住んでいた先住民達も、天皇の軍勢が熊野灘から背後に回り込むことを予期せず、裏をかかれたのだった。
 後の神功皇后が近畿から九州北部を再平定するときも、また三韓征伐の時も、太平洋航路は使われていない。この時代から現代まで瀬戸内海が利用されてきたのは、遭難の危険の少ない「交通大動脈」であり、「物流ハイウェイ」であったからだ。

日本の首都が頻繁に変わった理由

 奈良県からスタートした日本の統一政権は、奈良→京都→近畿→鎌倉と移り、最後には江戸に落ち着いている。どうしてこんなふうに日本の中心地は移動していったのか。それは地政学的な理由がある。
 大和政権はしばしば九州からはじまる叛乱を鎮圧しなければならなかった。九州の叛乱勢力は多くは朝鮮半島にある第三勢力からの応援や工作、あるいはそそのかしを受けて始まっている。今日の言葉に置き換えるなら、「間接侵略」だ。
 大和政権も同様の工作をしばしば行っていた。例えば5世紀末以降の日本が、朝鮮半島北部に位置する高句麗を援助し、半島南部の新羅(新羅は九州によく工作を行っていた)に対抗していた。
 この工作合戦には大陸の晋魏六朝も絡んできた。大陸も半島を制圧したかったから新羅を支援し、高句麗を攻撃していた。
 大和政権から見れば、もしも半島が新羅に統一されたら、大陸勢力と一体となって九州上陸は目に見えていた。
 だから日本の統一政権の首都は、近隣外国に対する工作に不便がないこと、外国から幇助された九州に対処しやすいこと、みちのくの蝦夷が大陸勢力を通じ合わないようにできるだけ近くから見張っている必要があった。
 そうした諸々の都合を解決できる場所がどこにあるのか?
 それが瀬戸内海を前にした場所だった。瀬戸内海が交通路や高速通信手段に使えるために、大和政権による九州叛乱の鎮定は、常に低コストで可能だった。大陸が隋(ずい)によって統一されたときには新羅が高句麗を滅ぼせぬよう日本側から牽制しつづけ、隋に高句麗遠征をさそって、その軍費の超過で隋を自滅させた。
 しかし次の唐は海軍力によって半島干渉を有利に進め、高句麗を弱め、新羅と合同で百済を滅亡させてしまう。大和政権は防衛のために琵琶湖南西岸の大津まで後退した。
 鎌倉時代に入ると東国は温暖化によって農業が盛んになり、東に移った方が経済的に有利ということもあって、そこへ首都を移した。
 足利幕府の時代になると寒冷期に入って東国の農業が弱体化し、また西国が反政府勢力と結託するのを監視するために、首都を京都に移す必要があった。
 徳川幕府の時代に入ると、清を監視しやすい江戸=東京が都合良かった。
 とこのように、首都が移り続けたのはその時代と関連した理由があったわけだ。

太宰府が首都にならなかった理由

 九州の「太宰府」が一度も日本の首都にならなかった理由はなんだろうか?
 もしも日本列島とその周辺に、東から西へと向かう穏やかな風しか吹くことがなく、かつ日本列島を洗う潮流も、大きく東の太平洋から西の大陸へ向かってゆっくりと衝突しつづけるだけであったと仮定しよう。
 その場合、間違いなく太宰府は大陸の全沿岸を海軍力と海上通商力によって支配する「日本のロンドン」となっていたはずだ。いっそ「日本の首都」どころか「アジアの首都」にすらなっていたかも知れない。
 だが、現実はそうはならなかった。理由は日本周辺の海流と季節風である。
 日本列島の北方にはユーラシア大陸が大きく張り出している。この北東ユーラシア大陸の陸地が、海より早く冷えやすい。さらに偏西風があるせいで、日本周囲の海域には厄介な北西風が吹きがちになってくる。
 対馬海峡には南シナ海から常に暖流が日本海に向けて流れ込んでくる。その上を北西風が吹くとどうなるだろうか。海流と海上風の向きが一致しないから、海面はおそろしく波が立ち、船は安全に航海できない。
 日本と朝鮮半島の関係が「英国とフランス」のようにならなかった理由がここにある。ドーバー海峡は小舟でもこぎわたることが可能だったが、日本から半島経経由で大陸に行くのは、命がけの覚悟であった。
 やがて長距離公開に耐えうる大型船が建造されると、瀬戸内ルートを利用すれば関門海峡から難波津まで航海を延長することはさほど苦ではなかった。
 もし太宰府を日本の首都にした場合、大陸や半島の敵勢力は、今の兵庫辺りに間接侵略工作を進め、太宰府政府を半島と北陸から挟撃しただろう。あるいは大規模な遠征軍をいきなり山陰海岸へ送り込んでくるかも知れない。
 そういった陰謀を阻止するために、九州北部は「中間補給港」としておいて、首都は近畿に置いたほうがよかったわけだ。太宰府が首都にならなかったのは、防衛のためである。

淀川が繁栄した理由

 まず海外の話から見ていこう。
 韓国の漢江は、19世紀の喫水の深い西洋式航洋型帆船であっても遡ることが可能だった。だからここに李氏王朝は王都を置こうとした。
 ニューヨークが大西洋の一大商都となったのは、ハドソン川を大型帆船がウェストポイント要塞近くまで一直線に遡行できたこと、さらに上流も小型帆船を駆使すればカナダ国境まで進むことができた、という地理条件があった。
 米国独立前の最大都市であったフィラデルフィアの人口も、デラウェア川の運輸が支えていた。
 大陸を見ても、ヨーロッパ大陸のライン川やドナウ川など、運河の周辺で海運が活発となり、栄えていった事例はいくらでも探せるだろう。
 一つには大坂の淀川。淀川は喫水の浅い物資運搬船なら苦労しないで入っていけて、流速もゆっくりなので移動も楽だった。
 これほど恵まれた自然河川は、我が国にはあまり多くない。日本の河川はなべて最上流部分ばかりか中流域でも標高差が大きいため、平均勾配がきつく、急流でしかも浅い。ただし、降雨量に恵まれているので、枯れることはない。
 ただ、淀川だけだと大陸の運河と比較するといささか短く、賑わうのに充分な規模とは言えない。そこで瀬戸内海だ。瀬戸内海全体を「一本の運河」と見なせば、規模は大陸の運河と遜色はなく、淀川を巨大な運河のターミナル船着場と見なすことができる。
 我が国の歴史の始まった最初期、淀川周辺が繁栄し、そこに首都が置かれていた理由がこれである。

なぜ日本の中央政権は淀川水系ではなく、大和川水系だったのか?

 交通の便に恵まれた土地は栄える。しかし、なぜ日本の中央政権は淀川水系ではなく、大和川水系の中流域である大和盆地(奈良県)だったのか?
 それは大和盆地が軍事的に防御や出撃がしやすかったからではない。農業地政学(このような用語はないが)の問題だった。
 大和盆地の広大な湿地は、最初期には陸稲作(りくとうさく)、ついで水稲作(すいとうさく)にうってつけの農地だった。そこから巨大人口を養わせるだけの収穫物が採れたし、それがもたらす兵站力で遠隔地まで睨みを利かせることができた。
 天皇家の定住地は、低山の西麓の緩傾斜地にあった。すぐ下には、縄文当時の大沼の名残の湿地が広がっていた。
 その湿地が、当地域の長期的気象現象に連動してゆっくりと干上がって後退していき、そこに東南アジア系の根腐れに強い「陸稲」に最適な湿地が、ついで鉄器の蓄積が進んで、「長江系水稲種」が導入された後は、生産性抜群の原始的水田が作られていった。
 一方の淀川水系は「暴れ川」であった。当時はまだ堤防を作るだけの技術はなく、水田を開いても、川の氾濫が起きてあっという間に湖沼に戻ってしまう。
 淀川はあくまでも物流拠点であった。農産物は「瀬戸内物流ハイウェイのターミナル港」こと淀川を出発し、瀬戸内広域経済圏を潤し、また海産物と交換された。これが大和盆地の有力氏族をより強くさせ、さらに富ませたのであろう。

畿内と東国の間に関所が作られた理由

 奈良盆地を舞台に、水稲作経済で繁栄していた大和政権だったが、この経済モデルを適用できそうな開発適地が鈴鹿山脈を東に越えた濃尾平野に広がっていることに気付いていた。
 ぼやぼやしていると稲作経済は、東国に移って独立・普及させて、それが大和政権の手強い軍事勢力に変貌する可能性がある。
 しかし東方勢力を征伐するには、陸上を進軍するしかない。遠征に付きものの悩みは、携行できる食料だ。軍が遠征できる距離は、携行できる食料と関係している。
 だから大和政権は「瀬戸内物流ハイウェイ」の恩恵を確保できると同時に、できるだけ東国に遠征しやすい場所に、行政司令基地をかまえて置く必要があった。
 地球規模の寒冷化が始まっていて、東国では「粗放畑作(そほうはたさく)」の収穫が減り、弱体化しているところだった。今のうちに東国を軍事的に屈服させておく必要があった。
 東国征服は濃尾平野と伊勢湾にそって、まず順調に進展した。大和から鈴鹿山地を越える伊勢湾に到達する峠道ルートは、古代の大和政権にとって最重要の軍道だった。そこには鈴鹿関ができる。
 琵琶湖の南東岸から伊吹山地を越え、美濃に出る峠道ルートが、重要度ではそれに次いだ。今日の関ヶ原に、その交通を監視する「不破関(ふわのせき)」が置かれた。

源頼朝が鎌倉を拠点にした理由

 源頼朝は1180年、秋の収穫のシーズンに合わせて挙兵した。
 その頃、世界の中緯度地域で温暖化がピークに達し、関東平野を中心に東国では豊作になっていた。兵糧米の備蓄が充分にたまり、また人口増加もあり、人々の間にそろそろ大戦争を開始しても良かろう……という空気があった。この空気を引き受けたのが、源頼朝だった。
 一方の近畿では、温暖化による干害(かんがい)、洪水による収穫量減少に悩まされていた。
 しかし源頼朝は初戦である石橋山の合戦で敗北し、伊豆半島のすぐ東の真鶴海岸から、房総半島南端の安房(あわ)へ小舟で逃れ、そこからいまの東京湾から反時計回りに一周して鎌倉に入った。
 そのまま鎌倉を拠点にする源頼朝であったが、なぜこんな場所を「新都」として構えようとしたのか?
 一つには鎌倉谷(やつ)の一帯は、妻の実家である北条氏の先祖の縁地であった。
 もう一つが鎌倉の地政学的条件である。
 当時の江戸湾は利根川が横断していたし、しかも温暖化で海面が上昇していた。江戸湾は大量の泥土で構成されていて、都市を造るどころか港を作ったところで船が入っていけない。
 三浦半島にも適地があったが、そこは三浦氏の本拠であって、その勢力圏内に足を踏み入れるわけにはいかない。
 頼朝の気がかりは、奥州藤原氏だった。奥州は砂金を産出していたうえに、気候の温暖化によって農業経済が絶好調だった。当時の奥州は、人口が京都に次ぐほどだったそうだ。もしもこの奥州が西国の武士団と結託すれば、源頼朝が率いる関東武士団を挟撃できる。
 つまりは奥羽からは適切な距離を置きたかった。かつ奥羽から防御がしやすく、また奥羽へ出撃しやすい場所が鎌倉だったわけだ。

本の感想文

 兵藤二十八先生の著書を読もうと思った理由は?
 押井守著書を読んでいると、わりと頻繁に「兵藤二十八先生の本を読みなさい」と書いてあったから。
 兵藤二十八先生は1982年から84年まで富良野の陸上自衛隊を務め、その後は著述家となり日本の軍事と防衛に関する著書を多数出版している。どうやら「その筋」の人達からするとかなり知られた人らしい。
 しかし軍事の知識が全くない私に、兵藤二十八先生の本が読めるだろうか……? とAmazonで著作をしばらく眺めていたのだが、その中で私のわかりそうなジャンルはおそらくこれだろう……ということで、本書を購入、読むことにした。

 『日本史の謎は地政学で解ける』は確かに軍事の本だが、軍事という視点を通して、歴史を読みかえた本だ。歴史の話であれば、私みたいな軍事知識ゼロでもギリギリ読めるかも知れない……。たぶん、この本が私でも理解できるギリギリの内容だっただろう。私のような「軍事のこととかよくわからない」という人にもどうにかオススメできる本だ。

 本書の感想だが、読んでみると思いがけず面白かった。確かに日本は何度も首都を変えたが、それがなぜなのかよくわからなかった。どうして「平安時代」がきて「鎌倉時代」がきて「室町時代」が来たのか……。教科書的な経緯というか、誰がどうしたか、といった話は頭にあるのだけど、それとは全く違う理由、地形的な事情であるとか、当時の天候であるとか……。特に外国勢力の工作が関係しているなんて話は、今まで思いもよらなかった。遷都をしなければならない軍事的事情なんて教科書には書いてなかったし、考えもしなかった。教科書的な事情からさらに地形と天候という要件を挟み込んで、さらに内面へと掘り下げていくような本であった。

 かつての中世日本では、文化や商業の中心地は頻繁に変わった。やがて江戸を首都として一大都市が築かれていくが、そもそも江戸なんて土地は広大な湿地帯。徳川家康が江戸をあてがわれたときというのは、ほとんど島流しのようなものだった。それが現在では日本屈指の巨大都市へと変貌してしまった。当時の人々がいかに大変な灌漑工事をしたことか……。
 しかし現在は逆に大きくなりすぎて、中世の頃にあった身軽さが失われてしまった。現在の東京は住むのに適しているか、あるいは仕事に適しているか……みんな薄々感じていることだろうが、さほど良い土地ではない。
 まずいって熱すぎる。現代人は頭脳労働が多いのだが、熱すぎる東京は頭脳労働に適していない。頭脳労働を充分に稼働させようとすると、東京のような街では四六時中冷房を回し続けねばならず、これが環境へのダメージになるし、また都市部をより熱くしてしまう。現代的な職業は東京を拠点とすることに向いていない。
 おまけに東京は3枚のプレートが折り重なる地域。平時から地震が多く、大地震の危険に常にさらされ、巨大都市であるから一発の巨大地震で首都機能どころか国にとしての機能自体麻痺してしまう。
 東京は拠点にするのに相応しくない。過去の時代であれば、とっくに別の地域に拠点を移しているところだ。それは誰もが気付いている話だが、東京が巨大になりすぎて、それを実行できない。  かつての時代では、気候の変化と共に農産物の生産量も変わるから、そこで勢力図も少しずつ変わるという現象が起きていた。ところが現代は巨大すぎて移動できないが故に、気候の変化で不都合が生じているのにかかわらず、ライフスタイルを変えられない問題が生じている。
 ……と、中世の軍事問題を読んでいくと、翻って現代の問題も見えてくる。なるほど、こういう読み方もできるようになるのか……と感心の一冊。よき教養を得られる一冊であった。


この記事が参加している募集

#読書感想文

191,340件

とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。