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読書感想 実力も運のうち 能力主義は正義か?/マイケル・サンデル

 「正論」であれば「差別」は許されるのか?

 ハーバード大学のマイケル・サンデル先生といえば、NHKで放送された「トロッコ問題」の授業で知られている。現代人が当たり前だと思っている道徳意識にはどんな“欠陥”があるのか……それを一方的に語るのではなく、生徒との話し合いであぶり出していく。そういうスタイルの授業を実践する教師として一定の地位を得ている。今回も「道徳」の話である。それも、現代の格差社会にまつわる話だ。

 この本はこんなお話しから始まる。2020年、新型コロナウィルスが世界規模でパンデミックを起こし、アメリカも例外なく外出が禁止された。そんな最中、有色人種のコロナウィルス感染者の多さが問題になっていた。ラテンアメリカ系は白人より22%感染死亡率が高く、黒人の感染死亡率を見ると40%も高かった。
 このデータを見て、「有色人種は白人のように感染対策をしなかったから“自己責任”だろ」と思うだろうか? 事実はそうではなく、有色人種達はリモートなどに切り替えることができない仕事に従事していることが多かった。その多くは白人達に押しつけられた仕事――有色人種達にはそもそも白人ほど“職業選択の自由”がない、という問題が前景にあった。

 次はこんなお話し。
 2019年、アメリカ連邦検事が33人の“裕福な人々”を起訴した。罪状は「裏金入学」。イェール大学、スタンフォード大学、ジョージタウン大学、南カリフォルニア大学……こういった名門大学に我が子を入学させるために、これだけの親が裏口入学させていたのだ。
 アメリカではこの「裏金入学問題」が大スキャンダルになって連日報道を賑わせたのだが、さて、問題は次だ。「裏金入学」がダメなのは間違いないが、では「“表”金入学」はいいのか?
 何の話かというと、「大学への寄付」である。富裕層は大学へ寄付金を送り、大学はその寄付金で設備を新設したり、補修したりしている。そしてその寄付金を送ってくれた親の子供を入学しやすいように優遇している。例えばドナルド・トランプの子供であるドナルド・ジュニアとイヴァンカは、いまいちな成績であるのにもかかわらず、ペンシルヴァニア大学に入学できている。なぜ入学できたのか、それはトランプが150万ドルの寄付金を送ったからだった。
 他にもいまアメリカの大学には「レガシーアドミッション枠」というのもある。卒業生の子供を優先的に入学させるシステムだ。なぜ富裕層を優遇するのかというと、富裕層は大学に多くの学費を払ってくれる(滞納しない保証がある)し、それ以外にも寄付金も出してくれる可能性が高いからだ。しかし、これらは実力以上に富裕層を優遇する仕組みではないのか?
 裏金や寄付金の話が問題ありなのは、当たり前だ。しかしこういう話を例外にしても、いまアメリカは有名大学ほど金がかかる……という仕組みになっている。
 いまアメリカの親は子供に個人向け入試カウンセラーを雇い、学力だけではなく、ダンス、音楽のレッスン、フェンシング、スカッシュ、ゴルフ、テニス、ボート、ラクロス、ヨットといったトレーニングをさせ、そうしたスポーツの経験がありますよ……というアピールを証拠写真付きで説明せねばならない。それがないと試験官に「この子はエリートの素質あり」と認めてもらえない。もはや試験官がそういう基準で生徒を選ぶようになっている。すべての親はそれができないから、裏金入学斡旋業者に金を払い、合成写真を作ってニセのスポーツ来歴を作ったりする。
 その結果、どうなったか? アイビーリーグでは学生の3分の2が所得規模で上位20%の富裕層で埋め尽くされた。プリンストン大学、イェール大学までくると、国全体上位1%所得者が大半。
 裏であれ、表であれ、大学がこうした「レガシー枠」や「寄付金」を受け入れているのはなぜかというと、大学の運営にはお金がかかり、「金を持っている親の子」を重宝しているという事実があるからだ。

 ここでちょっとお金の問題を横に置いておこう。
 大学という場所は、お金持ちを優遇する場所ではなく、能力の高い人々が行くべきである。――という話をすると、多くの人が同意する。能力に基づいて大学入学を勝ち取ったのだから、それによる恩恵に授かるに“値する”と考える。これには異議がないように感じられる。
 が、本当だろうか? これがマイケル・サンデル先生の問いかけである。

 アメリカ人は「アメリカン・ドリーム」という言葉が好きだ。無一文の一般労働者が、才能と努力によって歴史に残る成功者にのし上がっていく。このストーリーは、歴史が浅いのにもかかわらず一流国にのし上がれたアメリカの神話のようなものである。統計を見てみると、懸命に働きさえすれば成功できると信じているアメリカ国民は77%にもなる。
 現実を見てみよう。現実的に最底辺の階層から最上クラスまでいける確率というのは4~7%だ。時代的な要因を見てみよう。1940年生まれの子供が親世代より収入が多かった割合は90%にもなっている。ところが1980年代以降の子供が親世代の収入を超えたのは半数に過ぎなかった。
 確かにものすごい努力をすれば最底辺から富裕層に駆け上がれるかも知れないが、それは4~7%程度の可能性でしかなく、しかもそれは現代ほど難しくなっている。
 なぜそうなっているのか、は大学の実情がそれを物語っている。すでに話したように、ハーバード大学やスタンフォード大学の学生のうち3分の2が所得上位20%の富裕層出身者ということになっている。逆に、下位20%の貧困層出身者が一流大学に入学できたのは、わずか4%だ。そうなっている理由もお話したように、一流大学に入るためには莫大な学費が必要で、それを払えるのがもはや富裕層だけ……という現実があるからだ。
 すでに本人の努力とは無関係に、貧富の格差ですべてが決定されている……という現実がそこにある。そうなっているのにも関わらず、アメリカ国民の77%は「努力さえすれば富裕層になれる」と今でも信じている。
 ちなみにフランスと日本では大半の人々が懸命に働いても成功は保証されないと信じ、ドイツではせいぜい半数、フランスでは25%くらいでしかない。

 有色人種でありながら、初めてアメリカの大統領となったバラク・オバマの妻は、労働者階級の出身であった。そこから努力だけで有名大学に入り、大統領夫人という名誉ある座席を手にすることができた。そのことを引き合いに、オバマはこう語る。
「どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字がなんであろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力すれば、自ら責任を引き受ければ、成功できるのです。前に進めるのです」
 一見するとオバマの言葉は、夢と希望に満ちあふれているように見える。だが現実を見ると、どんなに努力したところで、成功する確率は4~7%程度でしかなく、「運要素」が大きい。果たしてすべて実力によるものだろうか。もしも充分な努力をしたのにも関わらず、「運」という要素に恵まれず脱落していった人は、どのように感じるだろうか? そこにあるのは、屈辱と劣等感ではないか。「お前は努力が足りなかったから、その程度でしかないんだ」と。それもすべて自己責任に過ぎないのか?

 とある研究によれば、1970年から2008年にかけて、本や新聞に使われる「値する」という言葉は3倍以上に増えた……とされる。
「成功者が恩恵に“値する”のは当たり前である!」
 というように、「値する」というキーワードはアメリカンドリームを象徴する言葉として大衆文化のなかに浸透していった。それが1970年代以降の傾向だった。
 この「値する」という言葉を好んで使った人がいる。ヒラリー・クリントンである。2016年大統領選挙の最中、ヒラリー・クリントンはこう語った。
「ここアメリカではどんな見た目であろうと、誰であろうと、誰を愛していようと、努力と夢の許す限り前進できる機会を誰もが持つべきだという信念です」そして自分が大統領に当選したら「みなさんが享受するに“値する”機会を必ず手に入るようにします」

 ところが出世を鼓舞する「値する」のキーワードは2016年代に入ると人々には響かないものになっていた。一方ドナルド・トランプは「値する」とは一言も語らず、代わりに繰り返し言ったのは「アメリカを再び偉大にする」だった。今や労働者が求めているのは、社会的地位の約束よりも、国家の主権、アイデンティティ、威信の再主張。つまり一人一人が自信を取り戻すことであって、それは出世に基づくものだ……とは誰も信じていなかった。

 成功をつかみ取るために必要なのは、「努力」であるか「運」であるか? こう問いかけると、今でも多くの人々が「努力だ」と答えるだろう。成功をつかみ取った人はより多く努力をした。だからこそ、成功したのだ。
 しかしこの理屈を通してしまうと、ある“逆”の作用をもたらすことになる。成功しなかった奴らは努力が足りなかったからだ。そしてそういう連中を“見下してもよい”という考え方だ
 人類の歴史を通じて、様々な差別が存在していた。人種や国籍、見た目の差別。現代はそれらの差別は“認識される”ものとなっている。認識されているものだから、少なくとも公共の場ではそういう態度や発言は慎むべきだ……という考え方が共有されている。そんななか、おそらく現代人のほとんどがまだ“認識していない差別”が、挑戦し、努力し、なのに失敗や脱落した人を「見下す」という差別だ。
 例えば成功した人々は、「賢明(スマート)」だった。逆に失敗した人は「愚か」だった……という。愚かな人々であるから、いくらでも見下してもよい。そういう見下しをするのは、成功者にとっての特権であり、「正論」である。正論であるから公共の場でも言っても良い。成功し、エリート階級に上がれた人々ほど、この種の差別を容認している。
 例えばオバマが大統領だった頃を見ていたとある著述家は、こう語る。
「オバマは自身が第二次世界大戦後のアメリカの大いなる能力主義の申し子だったせいで、自分が登ってきた社会的地位のはしごの上から世界を見る癖がどうしても抜けなかった」
 オバマは繰り返し語る。「挑戦し、努力すれば成功する」と。しかしこの言葉の裏にはこういう意味も隠されている。「挑戦し、努力しても成功できなかった者は愚か者だ」と。オバマはこういう人々を見下す癖が最後まで抜けなかった。

 イギリス、オランダ、ベルギーで行われた調査で、社会心理学者たちはとある発見をした。大学教育を受けた回答者は、教育水準の低い人々に対する偏見が、その他の不利な立場にある集団への偏見よりも大きい……ということだ。
 他民族、他宗教、貧しい、太っている、目が不自由、低学歴……高学歴がもっとも差別的な態度をとりがちなのは低学歴の人々だった、という。アメリカでも同様のテストを行ったが、やはり高学歴エリートほど、低学歴の人に対し差別的な態度をとりがち……ということがわかった。
 高学歴エリート達はこうした低学歴の人々に対する差別的態度が悪いとはまったく思っていない。「学歴が低いのは自己責任の結果であるから、非難されて当然だ」――高学歴エリート達のこの考え方は恥ではなく、むしろ「正論だ」とすら思っている。「正論だから、何がいけないの?」という感じだ。

本の感想


 マイケル・サンデル先生の道徳の授業である。「能力主義」は正しいように感じられる。より能力の高い人がより良い恩恵を受けるべきである。そういう恩恵を受けるに“値する”。……この考え方は正しいように感じられる。しかしこの考えが逆に、かつての時代になかった新しい「差別」の形を生み出している。能力主義は「努力」に基づくものなので、その努力した者は報われる。ならば努力しなかったものは見下され、差別されて当たり前だ。能力のないものが差別されるのは“正論”である。
「だって、チャンスは与えてやっただろ? 平等に。なのに実力を発揮できなかったのは、お前達の能力が劣っているからだ。あるいは怠け者だったからだ。そんな連中を差別して何が悪いんだ?」
 高学歴エリートほどこの考え方にはまりがちだ。それは各国で実施された心理学調査で明らかになっている。高学歴エリートたち自身にアンケートしても、「自分はそんな差別意識なんて持ってない」と言うことだろう。しかし実際の行動、普段の言動を振り返ってみよう。高学歴エリートほど、低学歴出身者を差別し、その差別を「正義だ」と思い込んでいる。SNSなどを見ると、そういう実例がそこらじゅうで見ることができる。現代、多くの人が努力の末に目標を達成できなかった人を「自己責任だ」と叩いても良いと思い込んでいる。達成できなかった人々は愚かで間抜けな人々だから、と。

 マイケル・サンデルはこう語る。それは道徳に反するのではないか? 人々が「正論」だと思っているそれは、道徳的であるのか?

 自分はそんな発言や行動なんてしていない。ほとんどの人はそう言うだろう。しかし自分の最近の行動を振り返ってみよう。自分のSNSの過去発言を見てみよう。正論さえ振りかざせば、いくらでも相手を叩いても良い……そういう考えに基づく行動を取ってはいないか? 正論を振りかざすあなたは道徳的な人間か?

 能力主義は同時に「才能格差」という残酷な要素をあぶり出してしまう。
 例えば今、野球界に大谷翔平という凄い選手がいるが、では努力さえすれば、みんな大谷翔平選手のようになれるか? 大谷翔平と同じ生活習慣をして、まったく同じトレーニングをすれば大谷翔平くらいの選手になれるか?
 絶対に無理だ。あのようになるのは、数億分の1というくらいの「才能」に恵まれなければならない。
 私は元・絵描きだったから、この世界も「才能」という残酷な要素ですべてが決まってしまうことをよく知っている。
 どんな人でも死ぬほど努力すれば、一流の絵描きになれるのか? なれない、が私の答えである。これが決定的な「才能格差」だ。死ぬほど努力しても、ぜんぜん画力が向上しない人もいれば、ほんのちょっとのアドバイスだけでメキメキと実力を上げていく人たちもいる。だいたい、努力だけすれば一流になれるんだったら、野球の世界は大谷翔平やイチローみたいな選手だらけになっていなければおかしい。みんな死ぬほど練習しているわけだから。しかし実際には1軍にも上がれない選手ばかり……これが現実を物語っている。スポーツの世界でも芸能の世界でも、一流になればなるほど、「自分は特別な努力をしたから一流になれたんだ。お前らとは違うんだ」という自意識を持ちがちであるが……そういう言いがちな人に問いたい。本当に運要素はなかったと言い切れるか? こういう才能格差は、もはやそれを手に持って生まれてくるかどうかという運の差なので、後からどうすることもできない。またたいして絵がうまくないのに関わらず、仕事が舞い込み続ける人もいる。こういう人は才能とか努力ではなく、ただの「運」である。
 が、しかし「能力主義」を信じる人々ほど、「才能格差」を無視しがちである。多くのスポーツ選手、絵描きといった人たちは、「才能格差」という要素を無視して、自分が一流になれたのは「努力のみである」と考えがちになる。その上で、一流になった人々は、こう言いがちである。
「一流になれなかったやつらは、努力しなかった怠け者だ。そういう奴らを馬鹿にして何がいけないんだ? だって死ぬほど努力すれば、誰だって一流になれるんだぜ? 俺自身がその証拠だ。どうしてやらなかったの? 言い訳を並べているだけだろ」
 ――と。
 一流の人間ほど、才能と運、才能を育むために必要なお金と、そのお金を得られたという運があったことを無視する。
 こういう能力主義を信じる人々は、道徳の面からどうであろうか?

 2016年のアメリカ大統領選挙はこの実体をあぶり出す社会実験場となっていた。この時、多くのマスメディア、多くの有識者は「ヒラリー・クリントンが圧勝する」と思い込んでいた。ハリウッドではヒラリー・クリントンが大統領になると見込んでいて、女性が出世するサクセスストーリーものの映画を何本も用意していた。
 ところが実際に勝ったのはポピュリストのドナルド・トランプだった。なぜだったのか?
 原因は「上から目線」だった。ヒラリー・クリントンをはじめとするその周辺の人々が見ていたのは、富裕層ばかりだった。マスメディアも知らず知らずのうちに富裕層の意見ばかりを聞いて、富裕層相手にアンケートを採って「ヒラリー・クリントンが勝利する」というデータを作ってしまっていた。その下に広がる、「大多数の国民」の姿が見えていなかった。自分たちのような高学歴エリート達のサークルがすべてを動かしているのだと思い込んでいたのだった。
 そこでヒラリー・クリントンはトランプ支持者に対し、こう言った――「みすぼらしい人たち!」。一方、トランプは自分の支持者である労働者達にこう言った「私は君たちが好きだ」。より多くの国民がどちらを支持するか、この一件だけで明らかだろう。(私だって、「みすぼらしい人たち」と言ってくるような政治家を支持したくない)
 富裕層は自分たちが学歴や所得を持ち得なかった人々を見下しているという自覚がない。そんな富裕層に対し、見下された人々は怒っている。そこで分断が起きている。しかしその分断が今になっても認識されていない、見えていない、場合によっては「自己責任だから正論だ」と強者は見下すことを悪いとは思っていない。
 今やアメリカの政治の世界は高学歴エリートで占められている。かつてはそうではなかった。大学を出ていない者でも、政治家になれるチャンスはあった。実例として、1960年代の国会を見ると、4分の1は大学の学位を持っていなかった。ところが2000年代以降、95%が大卒者で占められるようになった。学歴を持つ者が、学歴を持たない者を支配している――そういう構図ができあがっている。
 この傾向はアメリカだけではなく、どこの国でも同じ傾向にある。1960~70年代の国会を見ると、政治家の半数は大学の学位を持っていなかった。それが2000年以降はどこの国でも政治家は大卒者で占められるようになった。学位を持っていることが、出世の必要条件にすらなっている。そういう人たちでサークルを作るから、より多くの国民の姿が見えなくなってくる。ヒラリー・クリントンの敗因は、上位数パーセントという富裕層の人々しか人間として相手にしていなかったことだ。

 最近の実例を示そう。2024年1月16日。『情報ライブ ミヤネ屋』という番組の中で、泉房穂、石原伸晃の2人が討論した。
 泉房穂は
「お金がないのは政治家じゃない、お金がないのは国民。政治家がしっかりして苦しい国民の生活を救うのが政治なのに、国民救うことをせずに国民のお金、負担率5割ですよ?半分国民負担で政治家に任せているのに、ある意味ポケットにお金が入るようなことに、国民は不信感を持っているし、さすがに今回は見直してくださいっていうのが国民の気持ち」
 と語った。
 これに対し、石原伸晃は失笑し「共産主義的だ」と言うだけだった。
 ここで石原伸晃ははっきりと「国民のほうを向いていない」ということがわかる。「国民がいかに苦労しているか」という話をしているはずなのに、石原伸晃は自分たち周辺のエリート達のサークルを見て、それを擁護しているだけ。つまり、これを読んでいるあなたを石原伸晃は“国民”だと思っていない。しかも自分がそういう発言をしていることに認識がない。正論だと思い込んでいる。残念ながら、これが現代のエリート達が作る、ありきたりな“政治観”となっている。その実体が見えた瞬間であった。

 アメリカには「国民皆保険」がない。なぜなら、「病気にかかるような人は、病気に罹るような生活をしているから自己責任だ。そんな人間のために健康な人々がお金を払うのは間違えている。これは罰金のようなものだ」――という考え方があったからだ。
 アメリカのオーガニック食品を扱うスーパーマーケット、ホールフーズの創業者ジョン・マッキーはウォール・ストリート・ジャーナル紙にてこう語った。
「われわれの医療問題の多くは自ら招いたものだ。アメリカ人の3分の2はいまや太りすぎで、3分の1は肥満体だ。医療費全体の約70%を占める死を招く病――心臓病、ガン、脳卒中、糖尿病、肥満――は、適切な食事、運動、禁煙、最小限のアルコール消費、その他の健康的ライフスタイルを通じて、ほとんど防げるのである」
 病気になった人は自業自得。そういう生活をしていたからだろ。事故が起きるような仕事に就いている? それはそういう仕事を選んだお前の自己責任だろ。なんでそういう身勝手な人たちのために、病気にもなっていない、怪我もしていない我々が負担せねばならんのだ? ……これが「健康」という特権を得ている人々の意見である。
(同じ文脈で、アメリカでは定期的に大規模なハリケーンが発生し、その被害に遭う人々がいる。富裕層たちはこういう被害に遭う人に対しても「そもそもそういう災害が起きる可能性のある地域に住んでいるんだから自己責任だ」という非難もしている。これを日本に当てはめた場合、「そもそも大地震が起きる可能性の地域に住んでいるんだから自己責任だ」となる。……もしも次なる関東大震災が起きたとき、日本の富裕層の大半は関東住まいだが、これを言うつもりだろうか?)
 実際、こういうレトリックの下、1996年クリントンは「福祉制度改革法案」に署名し、法律として成立させた。従来の仕組みであれば福祉の受給者が経済的な困難な状況である場合、給付を受けることができたが、この法案によって制限がかかるようになった。また福祉を受けるためには、一定の労働要件を満たす必要があり、その受給にも制限がかかるようになった。つまり、金のない者が病気になっても、福祉・医療サービスは得られない、医療サービスを受けたければ大金を払え……という内容だ。より「自己責任」に基づいた仕組みになった。
 石原伸晃のようなエリートが目指している社会は、どうやらこういう社会のようだ。

 話をアメリカに戻し、アメリカの大学は今どういう状況になっているのか……というとこれは最初に示したように、そもそも大学へ行くためには莫大な学費が必要で、その学費を支払うことができるのが富裕層のみ……という状況になっている。その結果、一流大学の学生の大半が、所得上位20%の人々で占められるようになった。
 アメリカの一流大学ではテストに「SAT」というものを採用している。SATとは、学歴とは無関係の、その人間の適性や生来の知能を診断するためのテストである。ハーバード大学のそもそもの理念は、それまでの学歴を問うのではなく、より潜在能力をもった人がより能力を高めるために大学があるべきだ、という考え方だった。それは経済的に恵まれない者であっても、それまでの学歴が優秀でなかった者でも、「潜在能力」を直接見て等しく扱い、入学すべきだ、というものだった。
 ところがSATのスコアが大学入学に必須なものとわかると、「SAT攻略法」が編み出され、そのSAT攻略法の授業を受けられるのは富裕層のみ……という状況ができあがる。そもそもの「経済的に恵まれない者でも」「それまでの学歴が優秀でなかった者でも」「潜在能力を高い者をあぶり出す」ためのテスト……という理念は形骸化してしまった。
 結局は、大学に有利なのは富裕層ということになっていく。

 でも、優秀な一族の人々が、よい教育を受けるのは正しいのではないか? そう思うだろう。
 ところが最近になって一流大学の学力は落ちている。というのも、一流大学に通う学生の4分の1は鬱。若者の自殺率は36%と異常な数値になっている。

アメリカでは近年、若者の自殺者が上昇し続けている。

 アメリカでは「ヘリコプター・ペアレンティング(過干渉な子育て)」といって、我が子を一流大学に入学させるために、行動の全てをコントロールし、尋常ではないストレスをかけている。本の中では「サーカスの輪くぐり」と表現しているが、この輪くぐりのようなものを生まれてから思春期の間ずっとやらせ続けている。日本も学歴社会に関する問題はよく論じられがちだが、今のアメリカの学歴競争はもはや「日本はたいしたことはない」と言われるレベルに来ている。
 その結果、めでたく一流大学に入学したところで、多くの若者はすでに勉強の意欲を喪っている。一流大学に入った時点で燃え尽き、学歴優秀な無能ができあがる……というわけだ。
 そして「俺は高学歴エリートだ」というプライドだけが立派な無能が社会に送り出されていく。そういう高学歴エリートが国を支配していく。
 「能力主義は正しい!」……この考え方を押し通せば押し通すほど、(チャンスが得られるのは富裕層だけだから)一流大学は富裕層ばかりになっていき、いろいろあって「学力低下」という問題に陥っていく。それでも能力主義は正しいと言えるだろうか?

 本の中で、ドラマ『ブレイキング・バッド』が引用されているので、私もこの作品の話をしよう。
  『ブレイキング・バッド』の主人公ウォルター・ホワイトは大学生時代、「天才」と呼ばれる化学者で、当時の仲間達とともに研究し、新たな特許を取り、その特許で会社を立ち上げていた。
 ところが(若者にありがちな話だが)些細なことで喧嘩になってしまい、ウォルター・ホワイトは一人そのグループから抜けてしまう。以来、ウォルター・ホワイトはいまいちパッとしない高校教師になるのだが、50歳になったある日、かつての仲間達からパーティに誘われる。
 久しぶりにあの時の仲間と会おう、あの時の対立を精算しよう……とパーティに行くのだが、そこは大豪邸。ウォルター・ホワイトはかつての友人が豪邸住まいになっていることを知って、愕然とする。
 その時、ドラマには台詞としてないのだが、ウォルター・ホワイトはこう思ったのではないだろうか……「あの時、意地になって抜けなかったら、俺もこんな豪邸に住めたんじゃないだろうか」。
 というのも、件の「特許」はウォルター・ホワイトが中心になってできたものだった。ウォルター・ホワイトにはそれだけの能力があった。仲間達はウォルター・ホワイトの成果の上で、こういう豪邸暮らしをやっているわけである。
 ドラマの終盤に向けて、ウォルター・ホワイトは自身のプライドを取り戻すために、「俺は麻薬王になりたいんだ」と言い始める。元々は自身が肺ガンになってしまったために、家族に自分が死んだ後の資金を残すために麻薬製造をはじめた……という切っ掛けだったのに、ドラマ終盤ではなにか間違った方向に進んでしまう……。

 ウォルター・ホワイトが大豪邸に住めなかったのは、自己責任だろうか。愚かだったからだろうか。いや、違う。「運」がなかっただけだ。ほんの一歩、かけ間違いがあっただけで、人生が分かれてしまった。実際、「成功者」と「脱落者」とに分かれるのは、ほんの少しの差でしかない。成功者だから「特別優れた人間か」というとそうではない。所得が大きいからといって「特別な能力に長けている」というわけではない。脱落者と呼ばれるような低所得者のなかにも優秀な人はいくらでもいる。社会的に成功し、莫大な所得を得られたのは、運が良かっただけに過ぎない。たまたまいいところにいて、いいタイミングに恵まれたから、成功という「大アタリ!」が得られただけだ。
 しかし現代の危ういところは、「たまたま運が良かっただけ」というところが見えなくなっていることだ。あたかも成功者が「特別優れた能力」を持っていて、それが人々より優れていたから……と誤解させてしまう。単に親がお金持ちだったからいい大学に行けたんだ……とか、今の一流大学に通う学生は思っていない。例えばウォール街で莫大なお金を得ている人々は、自身の仕事について「私たちは神の仕事をしている」と語る。より大きな所得を生み出しているから偉い。大金を稼いでいるから、自分たちのしていることは正しい。逆に、低所得の製造業の人々はみじめな脱落者でしかないので、見下しても良い……そういうメッセージを社会全体で作ってしまう。それを正論だと思い込んでいる。それが現代の見えざる“道徳の欠如”を生み出しているのではないか。

 このお話はここで終わりだが、本を読んでいる間、私がぼんやり思っていたことを話そう。
 私のブログをある程度読んでいる人々はなんとなく察していると思うが、私は社会の最底辺である。おそらく、これを読んでいるどんな人よりも所得は低い。社会の負け組、落ちこぼれ、無能、役立たず……私に当てはまる言葉を並べると、だいたいこんなところだろう。
 でも私の知能や能力は、そこまで劣っているだろうか? 私は本当に平均以下の能力しか持ち得ない人間で、こういう脱落者の暮らしをしているのは、「所詮その程度の人間でしかないから」なのだろうか?
 だとすると妙な感じがする。私よりはるかに高学歴の人が、あまりにも見識のない意見を言ったりするのをよく見かける。高学歴なのに、薄っぺらい映画レビューを書く人なんか、いくらでも見かける。「プロでもこんなもんか」…そういうのに出くわすことは一度や二度ではない。彼らは私より本当に頭が良いのか? 私より能力が高いのか?
 自分の人生を思い返してみよう。
 私は10代の頃、家族と対立関係にあった。学校とも反発していた。その結果、私は地域でも最下位クラスの高校へ行くことになった。いわゆる「Fランク校」である。Fランク校の情景はみんな想像できるだろうか? 学生というかむしろ“動物的”な若者が大半……私はその中にまったく馴染めず、ひたすら孤独だった。なんでこんなところに行かねばならないのだろうか……。親に反発したせいか? 学校に反抗していたせいか? その罰で私はこんな「動物園の檻」のようなところに行かされているのだろうか?
 遡ると私は友人にまったく恵まれなかった。もともと内向的だった私は、友人がなかなかできず、周囲にいたごく少数の友人達を大切にしようと思っていた。その結果、ひたすらに振り回される結果となった。大人になった今にして思えば……彼らはただのクズだった(大人になって色んな人々と出会ったが、彼らほど酷い人々はいなかった)。“友情”なるものは一度も感じないまま、子供時代を終えた。その出発点から私はつまずいていた。
 結果的に、私は10代の友人は一人もいない。ずっと孤独だった。
 孤独な人間がそれ以降の社会に出ても、孤独はそう簡単に解消されず、ずっと孤独のままだった。誰かとも深い関係が築けない。誰かを頼れない。仕事も見つからない。そんな状態が何年も何年も……気が狂うくらいに続いて……今に至る。
 私は能力がなかったのか? それとも運がなかったのか? どっちだろうか?
 すべては結果でしかない。
 運良く良い親に恵まれ、良い友人に恵まれ、良い教師に恵まれ、良い大学を出て、所得の高い仕事を得られた人は、私みたいな人間を指してこう言うだろう――「自業自得だ」「自己責任だ」と。「人のせいにするな。すべて自分が悪いんだろ」と……実際にそう言われたことは何度もある。
 そう言うあなたは、本当に能力が高いから今の地位を得られたのか? 運要素はゼロだと断言できるか? 本当に全て実力だと言えるか? ならば全ての面で私より能力が上だと証明できるか? 底辺層の私に、「正論」という名の棒を振り下ろせるか?
 振り下ろしてみなさい。振り下ろした瞬間、あなたは人間ではなくなるから。

私は絵が下手というわけではない。それなりに描ける方だ…という自負はある。しかしこの絵を数十社に送ったが、1社も返事は来なかった。絵を描き続けることは負担が大きい……それで絵は諦めることにした。私には実力がなかったのか? 大多数の人はそう言うだろう。いや、違う。「運」がなかったのだ。

 なんで私はこんなみじめな人生を歩まなくちゃいけないんだろうな……。
 この本を読んでいる間、私はずっと自分の人生を考えていたのだった……。


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