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映画感想 ジョゼと虎と魚たち(アニメ版)

 いよいよ配信になったので、見ましたよ。『ジョゼと虎と魚たち』。
 原作は1984年の田辺聖子による小説。2003年に実写映画化され、2020年には韓国でリメイク映画化、本作で映像化されるのは3度目となる。韓国版リメイクが2020年12月10日公開で、アニメ版は2020年12月25日クリスマス公開(韓国リメイク版の日本公開は2021年10月29日……さすがに同時期に同じタイトルの映画はまずいと判断されたか……)。
 アニメファン的に「おや?」と感じるのは、本作の制作が「ボンズ」ということ。ボンズといえば、アニメファン的には「アクションのボンズ」というくらいアクションが得意な制作会社。『鋼の錬金術師』『エウレカセブン』『血界戦線』『モブサイコ』『僕のヒーローアカデミア』……と作品履歴を見ると、アクション、アクション、またアクションというくらいずっとアクションを中心に制作してきた会社だ。しかも監督のタムラコータローは『ノラガミ』(ボンズ制作)が代表作。アクションを得意とするボンズが恋愛映画を描く、しかもいま流行りのライトノベル原作ではなく、1984年の小説を映像化。
 いったいどんな作品になるのだろう。という以前に、無骨なアクションものばかり制作していたボンズが、果たして男女の機微を描けるのだろうか。作品履歴をざーっと見ていると、『エウレカセブン』と『僕のヒーローアカデミア』に挟まれて本作『ジョゼと虎と魚たち』がある光景がなんだか不思議にすら思えてくる。

 そんな本作の評価は非常に高い。松竹による試写会アンケートでは満足度99%。第44回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞受賞。第25回釜山国際映画祭クロージング上映作品。釜山の映画祭でクロージングに選出されたのは庵野秀明監督『エヴァンゲリオン新劇場版:序』以来。そのまま韓国では336館で上映された。日本より大規模公開である。
 世界公開は台湾でスタートし、台湾では同日公開作品のなか首位獲得。その後、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ロシア……と吹き替えは10バージョンも制作された。いずれの国でも本作は高評価を受ける。
 本作は間違いなく世界で評価を得たアニメである。さてどんな内容なのか――。

 では本作冒頭のあらすじを見ていこう。


 大学で海洋生物学を専攻する恒夫はバイトに忙しい日々を送っていた。そんなある夜、坂道を猛スピードで落ちてくる車椅子に遭遇する。恒夫はとっさに身を挺して、車椅子を止める。
 車椅子に乗っていたのは若い女性だった。あとから老婆が駆け寄ってきた。老婆は孫娘を助けてもらったお礼に、その日の夕食を振る舞う。それから、「お金に困っているなら」と仕事を依頼する。それは、孫娘のジョゼの面倒を見るということだった……。


 ここまでが冒頭10分程度のあらすじ。
 非常に早い展開で、恒夫がジョゼの面倒を見る……という経緯までが語られる。
 私は原作版も実写版も見ていないのだが、アニメ版は冒頭の展開を除けばほとんど違うストーリーのようだ。原作版も実写版も見たという人でも、アニメ版は新鮮な体験になることだろう。
 これ以降のストーリー内容についてだが……以降は実際のアニメ中の画を見ながら説明していこう。
 ここからはネタバレありだ。

 主人公、鈴川恒夫が務めている「クラリオンエンゼル」。画面を見て「うわぁ」となる情報量。よくここまで書き込んだな……。店の中だけではなく、外のロケーションもしっかりしていて、これはモデルになっている場所があるんじゃないか……と思わせるくらいの説得力のある画になっている。
 鈴川恒夫はダイビングが趣味で、メキシコ留学を目標に日々バイトしてお金を貯めている。勉学のために働く、今時ないような殊勝な若者である。
 画面構成はシネスコープ。最近はよくシネスコープのアニメに行き当たる。ほんの数年前まで、アニメ映画のほとんどはビスタサイズだったのだけど……。シネスコープになると劇場で観た時、より画面が広く感じられる。本作の映像は、シネスコープで見た時を想定して、空間をがっつり描いている。それでいて、パッとキャラの顔にクローズアップしてアニメ調のカット割りに移ったりする。こういう軽やかさがアニメならではの見せ方だ。

 そんな恒夫君の顔。可愛い♥ もはやヒロイン。
 なんで男をこんなに可愛く描くのか、というとこれは女性映画だから。いやいや、「女性向け映画」ではなく、「女性視点の映画」。といっても、監督は男性なので、「女性視点を“意識して”作られている」。そういうわけで、主人公の恒夫こそが実はヒロイン……この辺りは後ほど掘り下げよう。
 主人公男性を可愛く描いたのは、本作が女性観客に向けられた映画……ということも無関係ではないでしょう。いわゆるなアニメファン向けの映画ではなく、「恋愛映画だから見る」……つまりデートムービーとして選ばれる作品ということも意識されている。

 冒頭のシーンの一つ。何でもない1ショットだけど、取り上げておこう。主人公恒夫は、いつもの帰り道を行こうとしていたが、しかし工事中で塞がっていた。それで、いつもは使わない道に入っていく。“普段行かないところ”で非日常的な体験をする……というのが冒頭の展開になっている。

 ヒロイン、いや主人公ジョゼ登場シーン。このシーン、面白いことに髪やスカートはなびいているが一瞬空中に静止し、その状態でカメラが回転している。ブレットタイム的な見せ方だ。
 ここまで画面構成は止め絵が中心だったが、ここでカメラが大きく動く。カメラの動きで物語が始まったことを見せている。

 ジョゼとの出会いのシーン。やたらと暗い。街灯がスポットライトになっている。しかも手前が神社。男女の出会いのシーンとしては、とてつもなく暗い。はっきりいえば楽しいシーンではない。
 これも恒夫が“非日常体験”をしていることを示唆したシーン。ある種、日常から切り離されたような場所・時間で、ジョゼという非日常的な人物と遭遇するという瞬間が描かれている。

 ジョゼと一緒に道を進む。ここも異様に暗い。道も妙に人工的というか、自然を感じさせるものがない。やたらと殺風景な空間作りになっている。こうも暗いのは、これから行く場所の、非日常的な空間を演出するための前振り。

 ジョゼの家、山村家へ到着する。ここでもカメラが動く。最近のアニメでは、立たせたいシーンになるとカメラが動く。
 セルアニメは本来平面の絵の上に平面のセル画を置いて作るものなので、カメラが動くとしても上下左右くらいにしか動かない。こういうった3Dの動きになるとCGの手を借りなければならない。そのぶん手間がかかる。だからこそ、「ここを見せたい」というシーンは3Dで動く。本作の場合、3Dで動くシーンはどこも「ここを見せたい」という瞬間なので、そこを注目してもいいだろう。
 さて、真っ暗闇の道を歩いていたら、その先にひっそりと明かりを灯した空間が現れる。これは要するに、ジョゼは日常的な女とちょっと違う、少し変わった、少し不思議な世界の住人ということを示唆している。
 だいたい、あんなふわふわな髪で、自分のことを「アタイ」とかいう女が、真っ当な世界の女であるわけがない。これはある意味、現実世界の男性が、アニメ世界のヒロインに会いに行く……そういう場面だけど、そういう場面をギリギリ非日常になりすぎず、日常の中のちょっとした不思議くらいの感覚として描いている。この非日常の見せ方がかなりうまい。

 山村家に招待される恒夫。狭い和室なのだけど、とにかく戸が開いている。台所と繋ぐ戸も開いているし、庭に繋がる戸も開いている。映像を見るとだいたい8畳くらいの狭い部屋なのだけど、戸が開いていることでやたらと空間が広く感じられる。映像的にはそれだけでも賑やかな空間になるが、描くのはとても大変……。
 山村家の居間の風景はやたらと古風。アイドルのポスターが飾られているが、明らかに一世代以上古い。市松人形、レトロな家具、レトロな扇風機……。古い家で、そこに住んでいた人の履歴が見えてくる風景だが、しかしこの中にジョゼの存在感がまったくない。ジョゼを示す私物が全くない(読書灯のみがジョゼの私物)。つまり、この居間の中に、ジョゼのプライベートがほとんどない。
 ジョゼは山村チヅの過剰ともいえる過保護の状況を受け入れている。ジョゼはそれに反発したい気持ちはあるけれども、どこかお婆ちゃんに遠慮して、言うがままになっている(お婆ちゃんに対しては内弁慶は発揮されない)。ジョゼは超内弁慶で、外の世界に不安感を感じていて、過保護状況を受け入れ、どこにも行かないし、なにもしない状況に陥っている。
 この関係性は別のある“見立て”でもあるんだ。その話はいったん保留にして……。

 こちらがジョゼの部屋。
 これは「ジョゼの部屋」を通り越して、「ジョゼの精神世界」みたいになっている。山村家の風景に、ジョゼの存在を示すものは全くないのだけど、その一方で、過剰なくらいこの部屋にジョゼの精神が敷き詰められている。

玄関から上がって正面に見えるのがジョゼの部屋。入り口から、すでに異質な雰囲気を漂わせている。

 この風景を見て漠然と感じられるのが、ジョゼの無垢な少女性。
 ジョゼは超内弁慶な性格だが、内面的には無垢なものを、誰からも汚されないように大事に大事にしまい込んでいる。それこそ、山村家の人たちにも触れられないように。実は外の世界が怖い……という内弁慶だが、一方で内面的には無垢……。内面の無垢な部分を守ろうとして、攻撃的な内弁慶になってしまっている。純粋な人にありがちな性格だ。純粋な人ほど攻撃的だし、臆病な人ほどマッチョぶるし、バカな奴ほど頭がよく見られたがる(宮崎駿とか……)。
 ジョゼは見た目が幼いが、実は恒夫君よりも2歳年上。そこそこ大人の女性だ。しかし真っ当な少女時代を通ってこれなかったから、真っ当な大人にもなれない。

 ジョゼについて、私はヒロインではなく主人公、と書いたのはそういうところ。お話は恒夫視点で進んでいるように見えて、ずっとジョゼの内面を描き続けている。ただし恒夫の視点で描かれているから、ジョゼの内面が容易に見えてこない……という構造だ。
 そのジョゼの内面描写だけど、たぶん女性が見ると「あ、わかるわ……」という人と「ちょっと気まずい……」と感じる人とがいるんじゃないかな。というのも、内面の深いところに少女漫画的な「無垢」をしまい込んでいる女性なんて世の中一杯いる。少女時代をきちんと終わらせられないまま大人になってしまった女性なんて世の中に一杯いる。ジョゼってキャラクターは、極端な少女性と内弁慶を同居させているけれど、ジョゼのような性質を薄めた女性なら世の中にいくらでもいる。
 この映画は、まずジョゼが困難にぶち当たる物語である。そこで、ことあるごとに助けてくれる都合のいい男性が現れる……。だから私は、“恒夫君はヒロイン”と書いた。ジョゼは見た目がアニメヒロイン的な容貌をしているが、それは見た目だけで、本当にアニメヒロイン的なの恒夫君のほう。

 ここでさっき話した“見立て”のお話。
 この物語には『人魚姫』のお話が少し引用されている。要するに、ジョゼはお姫様……ということ。お婆ちゃんがどうしてジョゼを家から出さないくらいの過保護状態に置いているのか……というと、お婆ちゃんはお姫様を守る執事だから。お姫様を守っているから、やや過剰になる。
 そもそも山村家ことジョゼの家は、ちょっと非日常的な空間として演出されている。これはジョゼとお婆ちゃんが現実世界の住人ですらないよ……という。ただし、異世界のお話ではない。そういうギリギリのラインで映像を作っている。

 ジョゼの家に勝手に住み着いている野良猫。後に「諭吉」と命名される。
 映画が始まって、しばらくしてジョゼは顔すら見せなくなってしまう。しかし、その時の恒夫の側には、野良猫が寄り添っている。
 これはなんなのかとうと、ジョゼの使い魔。ジョゼは最初しばらく本音を言わないのだけど、その代わりに野良猫がジョゼがどういう気持ちでいるか代弁している。ジョゼは外の世界が怖いし、その外の世界からやってきた恒夫を激しく警戒している。その様子が野良猫を通じて見えてくる。
 野良猫が次第に懐いてくるようになると、ジョゼも恒夫に気持ちを許すようになっている。

 公園へ四つ葉のクローバーを探しに行くシーンにも野良猫はついてくる。なんでついてくるのか……というと使い魔を通じて見張ってますよ……という場面だから。ジョゼがいないように見えて、実はいる……ということになっている。
 あと、出会っていきなり噛みついてくるのも、ジョゼが「猫」だからだね。
 ジョゼはいつも毛を逆立てて、周りにいる人を威嚇している野良猫だ。……と野良猫を使ってジョゼのキャラクターを解説している。
 といっても、この作品はファンタジーではないので、設定として猫が「使い魔」というわけではない。あくまでも“見立て”のお話。
 ジョゼは所詮は猫に過ぎない。だから外の社会や外にいる人達が猛獣に見えて怖い……というお話にも繋がっている。

 内の世界、外の世界の対比。ジョゼの家がある周辺の風景だけど、だいたいいつもこんなふうに描かれる。前景、中景が木で茂っていて、もはや現代の街とは思えない緑豊かな風景。遠景……この絵の場合は橋の向こう側を見てほしいのだけど、遠景に入ると極端に絵がうっすらとしている。このカットだけではなく、他のカットもだいたいそう。橋が起点になっていて、橋の向こうが映り込むことがあっても、極端にピントをぼかして描いている。橋の向こうにピントが合うことはほとんどない。

 一方、外の世界はどんなふうに描かれているのか? 見ての通り、奥の奥までディテールがくっきり描かれている。「内の世界」「外の世界」がまるっきり違うものとして描かれている。
 これも、山村家ことジョゼのいる家周辺を、ある種の虚構世界として描こうとしているから。日常世界から断絶された世界。それを表現するために、すこし不思議な描き方をしている。

 ジョゼが外の世界に飛び出そうとしているある場面。やたらと細い道があって、遮断機で行く手を塞がれている……という場面。
 なんでこんな細い道……と思うかも知れないが、この細い道の手前側はまだ“ジョゼの世界観”だから。遮断機を挟んだ向こう側が日常世界。リアルな風景だけど、一方で観念的な風景も示している。

 海にいく過程のワンショット。内弁慶のジョゼだが、実は非常に繊細。繊細であるがゆえに内弁慶。ジョゼには外の社会や人がみんな猛獣に見えている。
 原作では「虎」はジョゼに性的に迫ってくるセクハラ男……というのがいたらしくて(読んでないので知らん)、そこに仮託されていたのだけど、アニメ版では外の世界すべてが猛獣に見えている……という解釈に変わっている。

 ついに海岸へやってくるジョゼと恒夫君。注目なのは空の描き方。これまではかなりリアルなディテールの詰め方で描いてきたのだけど、このシーンの空の描き方がパステル調のタッチで描かれている。他のシーンに較べて、妙にフワフワしている。
 ジョゼの部屋を思い出してほしいのだけど、ジョゼの部屋にもパステルが置かれてあった。このシーンはジョゼの目線で描かれているから、ジョゼが描きそうな雲……として描かれてる。「ジョゼには風景がこう見えている……」という描き方だ。ジョゼの心情が映された風景にもなっている。

 ここまでが前半25分のストーリー。
 ここまではストーリーの順序通り紹介してきたが、ここからもうちょっと違う方面から作品を見ていこう。

 いわゆる「同ポジ」カット(「同じポジション」の略)。比較して見ると、前半のシーンは明るく、これから起きる希望的な心情を表す描写になっている。後半のシーンはその逆。寒々としているし、鉄柵の錆が強調されている。

 ジョゼが絵本の読み聞かせをする前半のシーン。

 同ポジカットではないが、ほぼ同じ場所にカメラを据えて撮影していることを想定して描かれたカット。
 比較して見ると、前半シーンのほうがやや暗く、色彩も抑え気味。後半カットや窓の外が明るく、色彩豊かに描かれている。

 前半の読み聞かせシーン。顔にかかる影がやたらと深い。うまく読めず、ふと顔を上げると、子供たちがいなくなっていることに気付く瞬間の絵。

 後半の読み聞かせシーン。逆光なので相変わらず影は濃いのだけど、ハイライト部分が強め。光の当たっているところの線が省略されて、光が強調されている。

 さらにお話が乗ってきたぜ~……という瞬間の絵。首や背中に当たる光がより強くなっている。

 ヒロインの恒夫きゅんが泣いちゃったあたりで、背景の木々がざわざわと揺れ動き始める。恒夫の心情を、背景で表現されている。風までコントロールして描写できるアニメならではの表現。実写ではできない。

 山村家ことジョゼ家周辺の風景。ジョゼと恒夫が出会って、ウキウキした気持ちで外出している。夏の光景ということもあって、風景が明るい。

 お婆ちゃんが死去して間もない頃の風景。珍しく周辺の風景が見えるように描かれているシーン。しかし橋の向こうはやたらとピントがぼやかせて描かれている。
 主人公ジョゼが、ヒロイン恒夫を巡って、二ノ宮舞との対立が表面化する場面。明るいシーンだけど、全体の色彩が抑え気味に、影も深くなっている。

 ジョゼの家へカチコミに来る二ノ宮舞。ここでもカメラが動く。二ノ宮舞の感情が激しく動いている様子を表現している。

 この場面、やや影が暗めに描かれているのだが……。

 啖呵を切るジョゼ。

 ここはちょっと不思議なシーンで、1ワードごとにカットが切り替わる。なにを意図していたのか……。最初のカットと終わりのカットを較べるとわかるが、1カットごとに徐々に画面が明るくなっている。最初と最後を比較すると、最後のカットははっきり明るい。喋りながらジョゼの気持ちが解放されていく様子が表現されている。

 ジョゼの家から離れる二ノ宮舞。画面手前は影が深く、暗い風景に見えるが、画面中央にスッと入射光が差し込んでいる。この光で、ここから物語が動き出しますよ……と表現している。

 この作品にはいくつもの境界が描かれる。

 前出、ジョゼの家の前の橋。

 前半シーン。踏切。

 帰宅場面。帰宅する時でも、やはり境界(橋)をわたる。

 海の前の道路。これも境界。

 やたらと橋や踏切といった境界が出てくるのは、ジョゼがそういった場所をくぐることを躊躇い続けているから。ジョゼのいる場所は橋の向こう、孤独に引きこもった世界で、そこで純粋な少女的な世界観を大切に守っている。外の世界というのは、そういう橋をわたった先にある。そういう橋をくぐることが、ジョゼには心情的にも身体的にも困難ということ。

 お話の中盤。ジョゼは恒夫と出かけていることを隠さなくなっていく。この一つ前のシーンでは虎を対峙する場面があって、「精神が猫」だったジョゼは「猛獣のいる外の世界」を恐れなくなっていく。
 これを見届けたうえで、お婆ちゃんはこの世を去って行く。過保護状態はお婆ちゃんが作り上げているとはいえ、懸案事項でもあった。しかしジョゼの心の成長を見届けられて、お婆ちゃんは安心したのかも知れない。

 お婆ちゃんが死去した後のジョゼ。髪を切るのは「少女時代」を終わらせたため。やっと年相応の女性の振る舞いになる。が、生活や心構えまでそれに対応できているわけではなく、ジョゼはここからまた困難に遭遇する。髪を切ったのは、無理矢理に少女時代を終わらせたことを示唆している。

 この後間もなく恒夫の事故があって、「主人公ジョゼ、ヒロイン恒夫」の関係から、「2人の主人公」の物語へと移っていく。

 最終的に2人は青春期を終えて、「真っ当な大人」として向き合う関係となる。そのうえで、もう一回「出会いなおす」のがラストシーン。

 さて、あの「アクションのボンズ」が恋愛ドラマを制作する。果たしてどんな内容なのか? ヒロインが迫り来る悪漢を次々となぎ倒す……みたいなお話になるのか……と思ったら意外なくらいしっかり作られた恋愛ドラマだった。
 ボンズは「アクションのボンズ」というくらいアクションに長けた制作会社だけど、もう一つの側面があった。それは場面構成のうまさ(画面設計を担当したのは川元利浩。『カウボーイビバップ』『ノラガミ』『血界戦線』などのキャラクターデザイン・作画監督で知られる超一級のアニメーター)。アクションをうまく描くには、立体的な空間把握が必須のもので、ボンズのアニメはもともと場面構成がしっかりしていた。そのスキルを活かして、アクションではなく恋愛ドラマを描いたらどうなるのか……。別にそんなシミュレーションを意図して制作した作品ではないだろうが、これが非常にうまくいった。
 『ジョゼと虎と魚たち』における場面構成は、単に登場人物の心情を描く……とか背景をオシャレに描く……というだけではなく、いかに場面全体が登場人物の心情を表しているか。その一点のみに集中されている。そういうわけで、場面構成を理解していなくても、なんとなくでも言外に示されている心情が伝わるように作られている。物語と場面が見事なくらい一致していて、見ていて心地よさすらある。
(というだけに、実際の画面を出しながらじゃないと説明できないシーンが多かった……)
 その物語というのが、恋愛物語というか、ある種の葛藤を抱えた2人の物語……に集約されている。いや、ヒロイン恒夫は前半物語では特に葛藤は抱えてないので、葛藤を抱えているのは主人公ジョゼ。
 主人公ジョゼにとって、「外の世界」は橋の向こう側や踏切の向こう側……という世界観。そういうものを(勇気を出して)くぐって行かなければならない、そういう場所だった。ジョゼにはそれくらいの距離感があった。
 ジョゼは脚に障害があるために、ごく普通の人にとってはなんでもないことが困難だった。身体的に……という以上に、心情的に困難だった。あまりにも困難なので、いろんなものを諦めてしまっていた……というのがジョゼだった。
 後半、ヒロインの立場だった恒夫が事故に遭ってジョゼの立場を体験する。ジョゼが世の中をどんなふうに感じていたのか、どんな絶望を感じて諦めていたのか……を知る。ここで初めて2人は同じ目線に立つ。ヒロイン恒夫は、なんだかんだで健常者だったから、何を言っても「上から目線」になっていた。
 障害者になるとなんでもないことを身体的理由で諦めてしまう……という以前に心理的に気持ちがそこに向かわなくなる。そのうちに、自分は何もできないと思い込んでしまう。
 ここで立場が逆転して、ジョゼは諦めていた絵描きへの道を進み始める。その様子を恒夫に見せつけることで、恒夫の気持ちを覚醒させる。
 と、こんなふうに内容を見てみると「恋愛もの」というより、人間のお話。夢を諦めた人がいかに再挑戦するのか……という。恋愛ものはある意味のオマケ。夢への再挑戦したところに、サブ目標として恋愛があった……という作りになっている。要するに「雰囲気で恋愛もの」を作っていない。心的動機を物語として、ひたすらしっかりと描いている。
 これが原作版や過去の実写映画版と同じテーマになっているかどうかは知らないんだけど、この作品ならではのテーマ、解法として納得できる物語として作られている。アクション娯楽劇の論法を恋愛ドラマに移し替えても、ここまでできてしまう。それを堂々と見せつけた一本だ。

 『ジョゼと虎と魚たち』はアクションのボンズの新境地ともいえる作品。クオリティ、テーマともに申し分なしの娯楽映画。見逃すべきではない一本だ。


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