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3月19日 未来の社会では、人間は自尊心を維持できるか?

 私は去年末から今年初めまでの2ヶ月間、創作の活動資金が枯渇してしまったために、工場で働いていた。この工場は世界的にもよく知られていた企業なので、かなりお給料がよく、短期間のバイトだが、そこそこお金を稼げることができた。本当はもっと資金が必要で、もともとのプランではあと何ヶ月か工場バイトを務める予定だったのだが……わずか2ヶ月で気持ちが折れてしまった。
 というのも、仕事内容があまりにも単調作業すぎるから。務めている7時間、えんえん単純作業。私はこうした単純作業の繰り返しに耐性があるほうだ……と自分では思っていたのだが、勤めて1週間もしないうちに「無理だ」「やめたい」と思うようになっていた。
 仕事内容は、人間的な生理が一切ない世界。ただひたすらに、所定の場所に製品をセットし、機械を動かし、成果物を次の人に受け渡すだけ。誰でもできる、簡単なお仕事。しかし……これって、人間がやる必要ってあるのだろうか? ロボットでもよくない? まるで自分が機械部品にでもなったかのよう。続けていると、だんだんに「私ってなんなんだろうか」「私は今でも人間なのだろうか」……とか妙なことを考え始めてしまう。そのうちにも、私が培ってきた知識や能力が抜け落ちていくんじゃないか……そんな不安にも陥ってしまう。

 まるで私という存在すらも否定されているかのような不安感。その不安感に耐えきれず、契約期限切れと同時に、更新せずに仕事をやめてしまった。
 それが2ヶ月前……という話だが、今でも気持ちの立て直しができず、何かをやろう、という意欲が湧き上がらず、どうにかこうにか、頑張って自分の体を起こして文章を書いている。あの時の疲れはとっくに回復したが、精神的な回復がいまだにできずにいる。

 一応、補足しておくが、職場も仕事内容もいたってホワイトな内容だった。綺麗な職場だったし、正社員もおおむね気質の穏やかな人ばかり。楽で簡単なお仕事。必要なのはそこそこの忍耐だけ。
 ただ問題なのは、ひたすらに単純作業。それが毎日7時間だから、続けているとアイデンティティすらもぶっ壊されそうな気がするというだけ。

 こんな話を聞いて「楽でいいなら、それでいいじゃないか」と思うだろう。話で聞くだけなら。しかしやってみると、ひたすらに忍耐力が試される。太陽の光も射し込まない工場の中、時間感覚もぶっ壊れた状態で、単純作業が7時間……実際やってみるとそこそこ「拷問では?」という気すらしてしまう(時間感覚のない中での単純作業は、信じられないくらい時間が長く感じられる。本当に作業が7時間なのか、もっと長いんじゃないかと疑ってしまう)。ただ忍耐というだけではなく、次第に「私ってなんだろうか?」「これ、続けていていいのだろうか」という異様な不安感と焦燥感に駆られていく。

 さて、本題はここから。人類にとってめでたい報告かも知れないが、私たちの未来は、“こういう仕事”ばかりになっていく。こういう仕事というのは、誰でもできて、楽で単調で、同じことの繰り返しの作業だけの仕事。能力の高さなんて求められることもない。誰でも楽に暮らしていける社会。そんな誰でもできる簡単なお仕事をちょこっとこなすだけで、誰でも食べるものに困らない世界。
 しかしそういう社会になったとき、人としての自尊心は維持できるのだろうか? それは本当に幸福な未来と呼べるのだろうか?

 先月、『コンテナ物語』の読書感想文を発表した。

マルコム・マクリーン 「コンテナの父」

 1950年代、マルコム・マクリーンがコンテナ輸送方式を発明し、これによって物流の世界は劇的に変わった。
 日本にも関係の深い話は1965年。ベトナム戦争が始まったとき、アメリカはベトナムにどうやって物資を運ぼうか悩んでいた。そこにやってきたのがマルコム・マクリーンで、コンテナを使えば輸送の問題はたちどころに回復する……と政府を説得し、説明したとおりの成果を上げた。その帰り道、コンテナを空っぽにしてアメリカまで戻るのはガソリン代の無駄になる。そこでマルコム・マクリーンが目を付けたのが日本だった。これで行きはベトナムへの物資が運ばれ、帰りは日本製家電満載にしてアメリカに戻る……というルートができあがった。
 日本の工業製品が世界的にも優れている……と知られるようになったのは、実はこれが切っ掛けだった。その以前は、日本は(一部の文化研究家を除いては)よくわからない国という扱いだった。それが「日本の家電は凄いぞ」と言われるようになった切っ掛けは、実はこれ。1965年代にベトナム戦争があって、その近くにちょうどいい工業国家・日本があったから、日本の家電は欧米社会に広まっていった。
 “日本製品が優れていたから自動的に世界に知れ渡った”……というようなイメージを持っている人が多かろうと思うが、実際にはそうではなかった。マルコム・マクリーンが横浜まで来て、営業を掛けた結果だった。その以前の日本はほとんど輸出もしていなかった。
 これはある意味で地理的な幸運があったから……といえる。ちょうどいい位置に日本があったから、「棚からぼた餅」的に日本製品が世界に広まった。もしも戦争が違う国で、その国の近いところにちょうどいい工業国家があったら? 世界に名だたる「メイドイン○○」は違う国になっていただろう。こんな話を聞いて、少し疑ってしまうのは、当時の日本製品は本当に優れていたのだろうか。たまたま地理的な幸運があったから、世界に広まったのではないか。実は他にも、もっと優れた製品を作っている国があったけど、この時メイドインジャパンが世界に広まったから、駆逐されてしまったのではないか……。というのも、今となってはわからない話だが。ただ、こう考えると、これを知ってしまったとき、日本人は「自分たちは優れた製品を作れる特別な国だ」という自尊心を維持できるのだろうか。

 そんな実際はどうだったかわからない「if」の話はさておき、その後、現実に起きたお話しを記していこう。

 メイドインジャパンがアメリカ社会に席巻していく過程で、起きたのがアメリカの工場と雇用の破綻だった。日本の製品が欧米社会に広まる、すると欧米製の家電は売れなくなっていき、工場が破綻し、失業者が出る……。日本は家電によって欧米の雇用にダメージを与えていた。
 そこで欧米が日本に対し、政治的に外圧を与えてくるのは当然の流れ。アメリカが政府主導で日本の家電や車に対し、ネガティブキャンペーンを展開し、国民に対し不買を促し、政治的にも圧力を加えた。家電や車をこれまでのように売りつけるつもりなら、こっちの農産物を買え……みたいな取引を仕掛けてくる。なんでそうするのかというと、あちらはあちらで、国民の雇用と生活を守らなければならない……という使命があったからだ。

 メイドインジャパンが世界を席巻して、50年……。物流の世界はどんどん進化していき、日本の大企業はより安い賃金を求めて後進国に工場を移していった。すると日本国内で雇用が失われていく。かつて日本は、圧倒的品質のメイドインジャパンによってアメリカの雇用にダメージを与えていたが、日本は別の国に工場を移すことで、自分で自分にダメージを与えることとなった。

 『コンテナ物語』を読んで得たことはこの知見で、こういうイメージはそれまでよくわからないものだった。現在の日本は、仕事を得るまでが異常なほど大変になっている。特に1990年代以降、大学生の多くは就活に苦しむことになった。それはデフレ不況だから……と説明されるが、それにしても不思議だった。不思議に思えたのは、そもそも「働く場そのものが減ったから」……という答えが見えなくなっていたからだった。
(団塊世代が働くようになった1965年あたりはその逆。仕事なんていくらでもあって、希望すればどこでも働けるという状態だった。転職もし放題だった。だから団塊世代は、その後の若者世代の苦悩がとうとう理解できなかったわけだが)
 一番肝心な「ごく普通の人が働ける場が海外に出て行ってしまっていた」ということ。以前は、さほど能力のない人でも仕事に困るようなことはなかった。事実として、私の親世代は、大学を出ている人はごく少数だし、普段も仕事もいい加減。この人はどうやって世の中を渡って来たのだろうか……と不思議に思うくらいだが、かつてはそういう人でも簡単に仕事を得ることができた。そういう社会の変化があったから……ということが『コンテナ物語』が出てくるまでよくわからなかった。よくわからないから、「自己責任だ」ということにされていた。
 しかしそうではなく、物流革命が起きると、そういう社会になる……が答えだった。一部の「最高の商品」を作れるメーカーだけが生き残り、それ以外は死滅する。その商品を作る工場が特定の国に移転すると、その国は潤うが、それ以外の国では雇用問題に悩む。雇用問題に悩むというだけではなく、働ける人と物を購入できる人も減ると、製品を生み出す力も減退していく。かつて世界に名だたるメイドインジャパンはその地位を失い、中国や韓国に持って行かれてしまうのも、ぜんぶ自業自得だった。

 今年、熊本に台湾企業TSMCによる半導体工場が設置される……ということが大きなニュースになっている。たった1つの工場ができるだけで、ここを中心にものすごい人が雇用される。工場単体の話だけではなく、周辺の商店も賑わっている。たった一つの工場で、これだけの経済効果があったのだ。
 このニュースに接して、初めて一つの工場ができるだけで、街どころかその県自体が潤う……というイメージができた、という人も多かろう。

 Netflixに『アメリカン・ファクトリー』という、なかなか優れたドキュメンタリーがある。アメリカでの話だが、一つの巨大工場が閉鎖した……これによって一つの街がどん底に落ちる、という様子が描かれている。失業者が数千人という規模だ。そこに中国人がやってきて、閉鎖した巨大工場を買収し、中国主導の工場が作られるのだが……。その結果、失業者たちは救われることはなく、さらにエグい状況に陥っていく。
 こちらも、言ってしまえば、「たかが工場一つ」である。工場一つで街が転落し、あるいは浮かび上がっていく……という様子が描かれていく。『アメリカン・ファクトリー』の場合は、工場によって浮かび上がるのではなく、最終的に「土地そのものが中国人に乗っ取られる」姿だが。

 本当を言うと、熊本の工場も、無邪気に喜んでいる場合ではない。水の問題、電力の問題、環境の問題……そもそも日本独自の技術ではなく、表向きには「台湾企業」だが、実体は中国企業。報道はTSMCの問題を一言も語らないし、誘致した政治家もなんとなく胡散臭い……。
 まあ、この辺りの詳しい話がわかってくるのは、事業が始まって数年後。まずネットのほうで大騒ぎになって、それからテレビがぽつぽつと取り上げる……というパターンになるだろう。今やテレビが後追いのメディアになったからね。“答え合わせ”はその時だ。

 たぶん、大多数の日本人は、「たかが工場一つだろ」と思っているだろう。それが雇用にどんな影響を与えるか……なんて自分には関係ない、と思っているだろう。若い人は自分たちが抱えている雇用問題と、工場の問題はイコールで結ばれているイメージもないだろう。
 大企業の偉い人たちも理解できていないだろう。自分たちが工場を外国に移したことによって、自国で大量の失業者を作ってしまった……「いや、自分たちは関係ない」と言うことだろう。エリートほど、自分たちのやったことが末端にどのような影響を与えるか、など考えない。
 だが、すべて関係している。世界は繋がっているのだ。工場一つで人々の生活に与えるインパクトは、ものすごく大きいのだ。

 ところで先日、岡田斗司夫さんが『コンテナ物語』を取り上げていたのだが、ここで興味深いエピソードを話していた。
 昔、どこの街に行っても、その街にしかないパン屋というものがあった。そのパン屋の商品は、ぜんぶそのパン屋の内製。販売している人がパン作りもやっていた。
 ところがそういうパン屋のパンって、実はあまり美味くなかったらしい。それでたまに都会のほうに行ってパンを買うと、「やっぱり都会のパンは違うな!」という感じだったそうだ。パン屋に限らず、食べ物を売っている店というのはだいたいどこも自分で作っていた。そういう店が日本中ではなく、世界中にあった。
 それが物流革命によって全て崩壊した。一部の「良質な商品」を製造しているところが全てを飲み込み、他は死滅する。家電の話でも、日本製が広まったことによって一時的に欧米の家電メーカーは死にかけた……という話と同じで、食べ物のお店も物流革命が起きたことによって死滅してしまった。もちろん、すべての個人経営のパン屋が死滅したわけではない。特別な「美味しいパン」を作る能力さえあれば生き残ることは可能だった。その以前の、2流や3流のパン屋だけが死滅した。かつては2流や3流のパン屋でも生き残ることができた。しかし物流革命によって、日本中どこでも同じ品質の商品が輸送できるようになった。誰もがそこそこの品質のものを安く手に入る。すると2流や3流は生存することができなくなっていく。これが物流革命が生み出す、もう一つのインパクトだ。

 物流革命が起きる以前というのは、2流や3流の仕事をしている人でも生き残ることができた。3流でもパン屋はパン屋だった。平凡な能力の持ち主でも、仕事に自尊心を持つことができた。しかし物流革命以降、2流以下しか能力を持ち得ない人々はプライドを持つことができなくなった。
 確かに超一流であれば生き残ることができる。パン屋でもピザ屋でも、うどん屋、カレー屋、寿司屋……なんでも、超一流であれば巨大企業に対し、個人の力で戦っていける。しかし超一流になれなければ、プライドを持つことができない……それが今の社会だ。
 2流以下の能力しか持ち得ない人は、工場で働く……ということになる。そういう工場では、「工場の味」があり、それはどこの誰でも再現できるもの……でなければならない。そこで働くとなると、機械のように働かねばならなくなる。そんな場所で自尊心を維持できるだろうか?
(私はコンビニ工場でも働いていたことがあるのだが、毎日機械に指定された調味料を入れて混ぜるだけ……という仕事をやっていた。その結果がどんな味になるか知らない。ただ言われたとおりの分量を入れて混ぜる……をひたすらにやっていた)
 その引き換えとして、大多数の人々はいつでも安く美味しいパンを食べられる。コンビニ飯は今どれを食べてもそこそこ以上に美味い。昔は「チェーン店の飲食店っていまいちだよね」って言われていたけど、最近のチェーン店はだいたいどこも美味い! ハンバーガーとなると世界展開しているので、世界中のどこへ行っても、同じ品質のハンバーガーを安く食べることができる。大多数である私たちはそこそこ以上に品質のいい商品を、いつでも安く手に入れることができるようになった。
 消費者としての私たちにとって幸福な社会だが、しかし働くほうとしては自尊心を持つことができない。言われたとおりの作業を、機械のようにこなさなければならなくなる。毎日数時間に及ぶ単調作業。
 そういう仕事は、実際やってみると楽だ。知能も集中力も必要ではない。誰でも簡単にできるよう仕組みが作られている。必要なのはただ一つだけ、忍耐力だけだ。
 楽に稼げる……しかしやっていると「私ってなんなんだろうか?」という悩みを抱えていくことになる。能力を必要とされないことに、次第に自分という存在も軽んじられていくように感じていく。その葛藤に耐えられる人だけが、こういう単純作業の仕事を続けることができる。
 それは、もともと自分は何かしらの能力を持っていた……そういうプライドを持ってしまった者は、働くことはひたすらに自尊心を痛めつけられる社会だ。もしも仕事を持ちたかったら、中途半端な2流や3流ではダメ。絶対に超一流にならねばならない世界だ。そうでなければ、自尊心なんてものははじめから持たなければいい。

 幸福なように見える地獄だ。

 もしかすると、かつてのように、製品のクオリティが低く、2流や3流の人でも仕事にプライドを持てた世界のほうが良かったのかも……。
 しかしいつでも一流の商品をそこそこ安い値段で買える……という《消費者にとっての天国》を一度経験してしまった私たちは、かつての時代には帰れない。私だってAmazonでそこそこ品質の高い商品をいつでも手に入る現在を手放したくない。一度経験すると引き返し不能の社会だ。

 話はここで終わらない。
 現代はまだロボット化がそこまで進んでないが、「誰でもできる」「能力を必要とされない仕事」は次第にロボットに置き換わっていく。すると、現代はまだそんな場所でも働く場があることがその人の自尊心たり得るが、その自尊心も崩壊していくことになる。
 大きな企業ほど、コストパフォーマンスを求めてロボット化を推し進めていくことだろう。すると予想されるのは、巨大工場がその街に作られても、雇用問題が解消されない……という地獄だ。巨大工場が一つできると、街一つが救われる……というのが現代だが、それすら起きなくなる。大企業のエリート様は、そういう末端に起きる社会変化なんかイメージできないから、目先のコストパフォーマンスだけを求めてそういう改革をやっちゃうかも知れない。製造コストは下がるが、その商品を買う人がいない……シミュレーションでしか現実がわからないエリート様は、このイメージができないだろう。

「2位じゃダメなんですか?」……2009年、スーパーコンピューター事業が世界1位でなければならない理由がわからない蓮舫議員が放った言葉。ダメです。もしも産業の話だったら絶対にダメ。なぜなら輸送技術が優れているので、1位の商品が安く、お手軽に手に入るから。2位の商品は消える運命となる。それがわからない人による発言。

 私は常々、未来の社会ではベーシックインカムって必要じゃないか……という話をしてきた。もしもロボット化が進み、人手が本当にいらなくなったとき、ベーシックインカムがないと誰も生活できなくなるんじゃない……と。
 ただ、この話には一つだけ引っかかっている疑問があって、それが“自尊心”の問題。
 ベーシックインカムが導入され、働かなくても、無理さえしなければ、そこそこ品質の良い安いものだけで暮らすことができる。……しかし実際にそういう生活をして、自尊心が満たされるのか? 生活する金はあるけど、社会的には一切コミットしていない。ただ消費するだけ。生産するものといえばウンコだけ。だんだん「俺ってなんなんだろうか?」という気分にならないだろうか。
 生活はできているけど、社会から切り離された存在になる。そういう状態は、精神的に耐えられるだろうか。アイデンティティの維持はできるのだろうか。そういうところで精神的に壊れていく人々が出てくるのではないか。
 この場合、ベーシックインカム自体が悪いわけではない。おそらくはベーシックインカム自体を悪玉にする人が出てくるだろう。本質を見誤ってはいけない。仕事をするということは、社会とコミットする手段であるが、その手段が失われ、孤独に陥ることが問題なのだ。この問題はベーシックインカムでは解消されない。

 実はこの問題について、前から気付いていた。しかし懸念として書かなかったのは、主張が弱くなってしまうからだった。
(日本の政府がやるべきことは、ベーシックインカムの前に「減税」あるいは「消費税廃止」だが)

 ではそういう社会がもしも来たとき、人はどうやって自尊心を維持していくのか。
 すでに見られる潮流として、「趣味」である。
 私の父親は、無趣味な人間である。私の父親は団塊世代だったから、「趣味なんて持つものじゃない」という考え方だった。
 団塊世代だからすでに引退生活に入っているのだが、引退すれば気楽な生活が送れる……と思ったら今ある地獄を経験している。“暇”である。私の父は筋金入りの無趣味で、趣味を持つという発想を持ち得ないタイプの人間で、唯一の娯楽がテレビ。父は生涯で本を一冊も(漫画を含め)読んだことがなく、音楽も聴かない、スポーツもやらない。映画を見ようにも2時間集中できないし、2時間の長い物語を理解できない。唯一の娯楽がテレビ、教養の中心がテレビ、情報を得る手段がテレビだけ。かといって、そこまで「テレビ大好き!」というわけでもない。
 そんな人間が、引退後の空白時間を全てテレビで埋められるか……そんなわけにはいかなかった。父は今、毎日テレビの前に何時間も座り、チャンネルを変えながら「暇だ、暇だ」と言い続ける日々である。
 これもある種の地獄だな……と後ろから見て思うのだった。

 実は私の子供時代、まだ「趣味」は低く見られがちの指向だった。「趣味なんて子供のうちだけだよ」「早く卒業しなよ」と言われていた。たぶん私の同世代あたりまでは、勉強と仕事以外になにか自発的に自分の思うままに何かをする……という発想を持っている人が少ない。私の同世代に創造的な思考を持つ人が少ないのは、そういうことだろう。
 ちなみに、子供にやたらと変な名前を付け始めたのも、私の同世代だ。普段から創造的な発想を持ち得ないから、突然創造的になろうとするから、ダサい名前しか思いつかない。
 なんでも「経験」は大事。準備運動なしでいきなり本番はやるな。創造的な行為もそれは同じだ。子供に変な名前を付けるブームは、これまで創造的なことを一切やらなかった人間が無理をした……という実例だった。

 そういう時代と比較すると、最近の人たちはだいたいみんな趣味を持っている。何かを収集していたり、造形をやっていたり、旅行をやっていたり……みんななにかと忙しい。
 と同時に気になっているのが、「仕事で自己実現を見いだす」ということをやっている感じがない。その潮流の一つが、飲み会に参加しない人だ。
 飲み会の意義について、現代の人はあまり語らないが、飲み会とは仕事場の人たちと交流を深める一つの手段であった。仕事場とは一つ違う段階で交流を深めよう……そういう意義があったはずなのだが、そういう場を好まない人々が増えた。かつては仕事こそが自己実現を達成させるための手段だった。仕事を通して「これが自分であるのだ」そしてその成果を誇りにする。そのためには、まず仕事場の仲間として連帯感を作ることこそ大事。飲み会はそのためのプロセスであった。
 だったのだが、ある時期から、最初から仕事場でそういう関係を持つことを拒む、という人が出てきた。仕事はあくまでもお金を得るだけ。そこで自己実現を達成したいとは思わない。「それと、これと別」という考え方だ。
 仕事で自尊心を維持したいとか思わない。ではこういう人たちはどこで自尊心を発揮させるのだろうか? たぶん……趣味だろう。仕事とは別の分野で、「私はこういう人間だ」という在り方を確立する。

 ではなぜある時からそういう人たちが増えたのか。それは仕事と自分がマッチングしなくなったからだろう。別に積極的にその仕事を選んだわけではない。本当にしたい仕事があったけど、そこからはお声がかからなかった。
 今ではあまり語られなくなった話だが、団塊世代は転職しまくっていた。就職率100%の時代だったから、仕事が気に入らなければすぐに転職する。自分に合った仕事を見つけるまで、ひたすら転職……そういう人たちがあまりに多かったので、終身雇用制度が生まれたわけだ。
 今は100社受けてやっと1社受かる……という時代だ。とにかくも仕事を得なければ、賃金を得る手段を得なければ、そのためには仕事は選べない……という時代感覚になった。すると仕事と自分の意識傾向が不一致でも、受け入れなければならない。そんな仕事で自己実現を達成したいとは思わない。
 というか、どうせ指示されたことをひたすらこなすだけだ。その仕事をいくら頑張ったところで、自分の名前が残るわけではない。“誇り”にならない仕事。自分である必要がない……。楽かも知れないが、そんな仕事で全力を出したい気持ちになるか?

 だからこそ、仕事の外にこそ、自己実現を達成したいと思うものをもつ。アニメやゲーム、アイドルの追っかけ。最近は「推しを支援する」という発想も生まれているが、こういうところも、もはや自分自身に自己実現を達成させられるものがないから……だろう。

 ゲームの界隈には、昔から「難易度の高いゲームをクリアできる俺すごい!」という人々がいる。こういう人たちは、難易度の低いゲームが許せない。難易度が低いというだけでそのゲームを叩く。難易度が満足いかなかったら、「もっと難しくしてくれ!」と主張する。最近ではSNSで「あのゲームは難易度が低いからダメ!」みたいに発信し、同調する人々を集めている。
 こういう人たちは「ゲームが上手い自分」しか自尊心を持ち得ない人々だ。自尊心がそこにしかないから、すべてのゲームがそうであれ……という価値観になっていく。
 実は私も、それなりに「ゲームが上手い自分」に自尊心を持っていたタイプだった。今でも頑張れば、だいたいのゲームで上位ランクに入ろうと思ったらできる。しかし、ネットの時代になって、そういう自尊心は完全に崩壊した。なぜなら自分より上手い人が世界に何千人もいる……とわかってしまったからだ。それに、頑張って上位ランクまで上がったところで、しんどいだけで全く面白くない……と気付いたからだ(多少の達成感はあるが、そのために何十時間という時間を消費し、しかも疲れ果ててしまう。なんのために? となる。若いゲーマーは、何百時間も消費しても、「達成感」という“報償”さえあれば満足でき、それを自尊心に変換することができる。しかし年を取ると粘りもなくなるし、仕事もあってゲームに時間を費やすこともできなくなる。そういうことを、ゲームを作っている人も考えているかどうか……)。ゲームは一日の疲れを癒やすためにリラックスしてやる……が一番だ。気分転換とリラックスを求める遊びなのに、どうして仕事以上にしんどい思いをしなくちゃいけないんだ……そう思うようになってからは、ゲームで張り合わない、無理しない、楽しよう……という考え方になった。「楽しむ」ためにはそれが一番だ、というのが結論だった。
 ゲームが上手い自分しか自尊心を持ち得ない人々は、この境地にはなかなか辿り着かないだろう。

 犬や猫を飼いたがる人が増えている……というのも同じだ。犬や猫は可愛い。それだけではなく、犬や猫は無条件で自分を信頼し、頼ってくれる。自分がいなければ生存できない対象。決して自分を軽んじることのない対象。犬や猫は、飼い主の自尊心を決して裏切ることがない。そういう存在を欲しくなるのは、自尊心を得る切っ掛けのない現代人にとって自然な流れだろう。

 現代、すでに自己実現を確立する方法は変わってきている。以前は絶対に「仕事」だった。仕事で出世して、さらに家族を養って、自己実現を達成する。しかし今はそもそも自分に合った仕事が得られるわけではない、低賃金で共働きでやっと家族を持てる、さらにいくら仕事を頑張っても、自分の成果が名前として残るわけではない……という時代に入ってしまった。超一流であれば名前は残るが、2流や3流は自尊心を維持できない社会だ。
 かつて物流が未成熟な頃は、3流のパン屋でもパン屋であるプライドを持ち得ることができた。それで一生分稼ぐことができた。家族を養うことができた。
 しかし物流革命が起きて、どの地域でもクオリティの高い同じ品質のパンを買えるようになった。そうなると2流3流のパン屋は生存できなくなる。一流以外は全員廃業。現代人は物心ついた時からそういう社会の中に生きているから、最初から「2流でもいいから家業のパン屋を継ごう」ではなく、大企業によるパン製造工場に就職しよう……という考え方になった。そこは言われたとおりのものを、人間が機械のようになって作り続ける……という世界だ。自分考案のオリジナルの商品は一個もない。最初からそんなのは求められていない。
 もしもある程度自尊心を持った人ならば、そんな仕事、耐えられない。むしろ逆に、自尊心のまったく持ち得ない人しか働けない。個性のない、自己主張するものがない……そういう人間だけが求められている時代に――すでになっている。
 私も二ヶ月前まで務めていた工場で、働いている最中、突発的に「なにやってんだ……」と思う瞬間があった。毎日7時間ひたすら単純作業。楽で簡単なお仕事。しかしやっていると、どんどん自分の存在がすり減って、自分が自分でなくなるような、嫌な感じがあった。それがなによりもしんどかった。
 ずいぶん前に、監禁された人の脳がどうなるか……という話を雑誌で読んだことがある。監禁されると次第に脳の機能が衰え、複雑な思考を考えたり、理解できなくなっていく。情緒だけの存在になっていく。毎日ひたすら単純作業をし続けたら、そうなるんじゃないか……ということが怖くなった。
 ああ、すぐにでもやめて漫画を描こう! こんな仕事やっていたら、漫画も小説も書けなくなるかも知れない! 仕事を続けたほうが、活動資金得られるけど、貧乏でも漫画を描いていたほうがいい……と思って、今こうしている。

 それも、今の時代は「まだマシ」なのかも知れない。テクノロジーが進化していくと、どんどん自尊心の維持が難しくなっていく。技術改革が進めば、仕事は今よりも楽になる。危険なこともしなくて良くなる。AIが発達すれば、頭脳労働のほとんどをお任せできるかもしれない。
 現状のAIはさほど賢くないが、AI技術は今後確実に進歩する。すると、平凡な頭脳しか持ち得ない人が、頑張って一流大学に入ったところで、そこで学んだことを活かせる仕事に就けることはない。なぜならAIのほうが優秀になるからだ。超一流の頭脳を持っていたら、その頭脳を活かして生きていけるが、2流や3流の頭脳しか持ち得ない人は、「誰でもできるようなお仕事」しか任されることはない。
 今までなら、平凡な頭脳でも高学歴であれば、それだけでプライドを持ち得ることができた。これからはそれすらなくなる。一流大学を出たところで、平凡な頭脳、平凡な発想力しか持ち得ない人たちは、培った知能を活かせることができず、与えられるのは「誰でもできる簡単なお仕事」だけ。生きていくのに苦労はしないが、ひたすら自尊心はひたすらえぐられていく……そういうお仕事しかない。
 そんなお仕事で自尊心を維持できるのか……というと多分無理。はじめからそういう意識を持っていない“空っぽ人間”でないと務まらない。
(学校の責務は、こういう“空っぽ人間”を育成すること。いや、すでにそれを達成しているか。“空っぽ人間”ばかり作って送り出したから、創造的な能力を持ち得ない大人ばかりになっていく)
 ロボット技術がさらに進化していき、人間が本当に働く必要がなくなると、人は何を持って自尊心を維持するのか? 生活には困らないけど、社会から完全に切り離されてしまう。「俺、なんで生きているんだろうか?」その疑問を持ってしまったが最後、自分という存在の軽さに耐えられなくなる。

 では一流の頭脳の持ち主なら、ハッピーな人生が待っているのか……そうではなく、これまで2流、3流の頭脳の人たちに分散されていた労力が、ごく少数の一流の人に労働が集中することになる。きっと死ぬほど忙しくなることだろう。
 だが超一流の頭脳の持ち主は、2流や3流の頭脳の人たちに、仕事を分担させようとは思わなくなる。まずAIのほうが優秀になるからだ。次におそらく「頭脳格差」のようなものが生まれて、超一流の頭脳の持ち主は、周囲に対する優越感と選民意識と侮蔑感を同時に持つことになる。すると、能力の低い人を寄せ付けないようにするだろう。超一流ほど、誰かに頼る……ということができなくなる。その人に寛容性を持たねば、孤独に陥っていくだろう。
(超一流になってしまった人は、ここに書いているようなことは、自力では思いつかないだろう。こういうことを語る人が、どこを探してもいなくなるからだ)

 今回のお話しは、いま自分がどんな立場にあるか、で印象は変わるだろう。
 もしもあなたが学校でたくさんの友達がいて、素晴らしい青春を送れて、その後問題なく就職もできてしまった……こういう人がこのお話しを読んでも、一つとして共感しないだろう。「それ、私には関係ないよね」「そんな人いるの?」と思うことだろう。
 関係ない、と思えるのはそこそこ幸福な人生を、運良く、とても運良く獲得できたから。
 しかしこれからどんどん、そういう運を獲得できる可能性は低くなっていく。今の時代でもかなり厳しくなっている。これからはどんどん厳しくなる。そういうこれからの時代のことを、考えてみてもいいだろう。
 団塊世代のように、後の時代の人のことなんか知らん……で投げ出して、逃げ切る、というのも一つの生き方なのかも知れないけど。


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