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映画感想 ジョーカー

ジョーカー 予告編

!!ネタバレ注意!!

 あの『バットマン』に登場するジョーカーのオリジンとして制作され、2019年に劇場公開されて以降は世界中で大ヒット大絶賛され、コミック原作映画でありながらアカデミー賞主演男優賞をもぎとった作品だ。
 私としてもずっと気になっていた作品だが、実際見てみると紛うことなき傑作。語り残されていくべき名作であると確信した。これはジョーカー誕生秘話という以上に、アメコミ映画という枠以上に、アメリカの内面的病を映した作品だ。だからこその評価だ、と理解できた。

 映画の始まり方。ワーナー・ブラザーズのロゴが出てくるのだが、これが古い! いったいいつのバージョンだろうか。続いて出てくるフォントがまた古い。70~80年代頃の古い映画で見かけるスタイルだが、わざわざ古くて質素なスタイルを持ってくる。あれは単なる“雰囲気作り”だけではなく、それだけ過去のお話……という示唆のためだろう。実際に物語が1981年ということもあり、“現在の物語”ではない、と理解を促すための一工夫だ。

 オープニングシーン。未来のジョーカーこと、アーサー・フレックは売れないコメディアンだった。場末の大道芸事務所の楽屋で、ピエロのメイクをしているアーサー。その後ろにはニュース番組の声が聞こえてくる。ゴミ問題が深刻化、ストライキが起きている、普通の住宅街ですらスラムのようになっている……。後に、裏通りに大量のゴミが積み上げられている場面が出てくる。“ネズミ問題”の話も出てくる。ゴミとネズミは物語のメインテーマではないものの、ゴッサムの地盤が腐敗し、崩壊しようとしていくことへの通低音のように機能している。
 ピエロメイクをしながら笑おうとするジョーカー。しかし笑えない。口に指を突っ込んで笑っている顔を作ろうとするが、目浮かぶのは涙。
 アーサーは精神の病を抱えていて、少しでもストレスを感じると自分の意思とは無関係に笑ってしまう。ストレスを感じたり、ネガティブな境遇に晒されると笑ってしまうのだが、しかし笑いたいときには笑えない。心から笑うことができない。自分で笑うことをコントロールできない。
 オープニングシーンの笑おうとして出てしまう涙……が印象的だ。作った笑いの裏側に隠された鬱屈と悲しみを、うまく表現している。
 このアーサーの無意識に出てしまう笑いだが、私には前意識で抑えようとしているアーサーの本性のように感じた。笑っているのはアーサーの内面深くに隠れているジョーカーであって、それがストレスを感じたときにちらちらと顔を出してしまう……面倒な野郎だ。ぶっ殺してやろうか……それを抑えようとして出てしまったのがあの病的な笑い、という気がした。

 映像は多くのシーンはブルーとイエローの色彩で表現されている。時々レッドが差し色で使われる。映画の多くがこのトーンのみで作られている。映像のほとんどに光が入り込むことはなく、しかし暗くはあるが真っ黒に塗りつぶしている部分もない。微妙なバランスで描かれている。
 この色彩感覚が単純に美しいなぁ……と感じるが、次第にアーサーの深層を現した色だということがわかってくる。
 映画が始まって30分ほど。電車の中でガラの悪い、スーツ姿の男達の姿を見かける。3人の男は酔っ払って女の子に絡もうとする。その様子を見て、例の笑いの発作を起こしてしまうアーサー。男達がピエロの格好をして笑っている奇妙な男に絡み始める。

 はじめは背景に流れる電車の音もごく静かに聞こえる。だがアーサーが声を上げて笑い始めてしまったところで対向車が来て、音が次第に強くなってくる。その瞬間、照明が明滅するのもいい。アーサーに狙いを定めた男達が、側にやってきたところで、「ズーン」と音楽が鳴り始める。
 男達が「なに持ってるって?」とアーサーにつかみかかったところでチェロのメロディが始まる。
 次の瞬間、男の一人が撃たれる。カメラ位置はかなり低い。あれはアーサーの視点からだ。照明がパチパチと明滅して、次の男が撃たれる。照明が明滅する瞬間に、アーサーの視点と映画の視点が入れ替わっていく。
 残るもう一人がパニックになって逃げ出す。酔った勢いでやんちゃしていたが、実体はヘタレなのだ。一流企業の社員になっていい気になっているが、だからといって別に喧嘩慣れしているワルとかそういうのではない。勉強しかできないヘタレが勘違いして強気になっているだけに過ぎないのだ。
 アーサーはその一人に、起き上がろうとした姿勢で脚を撃つ。この射撃がうまい。あの無理のある姿勢で、狙いにくい脚にバシッと当てている。というか、アーサーは一発も外していない。犯罪王になる片鱗がこんなところにも見えてくる。

 3人目を撃ち殺してアーサーは困惑し、そこから駆け出し、トイレに飛び込む。照明はブルーとイエローのみ。かなり暗くて陰気だ。そこでアーサーは急に踊り出す。“笑い”と同じく、踊り出すアーサーもまた内面が動こうとする瞬間の表現だ。
 踊り出すシーンはその少し前。自宅で拳銃を扱う練習をしているシーンでも、踊り出す。弾丸を込めて、スッと水平に銃を身構える練習をしているのだが、その銃を向けている先、というのが普段母親が座っているソファ。実は母親に対する殺意がアーサーの内面深いところにある……そのことを予告する場面だ。そして母親を殺す妄想をどこかに抱きながら、つい愉快な気持ちになって踊り出してしまう。これも心の奥にある“ジョーカー”が現れようとする表現だ。
 この事件の後、アーサーはコメディアン事務所をクビになる。アーサーは荷物を整理して事務所を後にするのだが、不思議なくらい、映像が明るくなる(この映画はアーサーが落ちれば落ちるほど、画面が明るくなる)。いっそ、この30分ほどの間で一番明るい瞬間が来る。窓から朝日の光が差し込んでいるからだ。暗いブルーとイエローのトーンから、明るい朝日のカラーへ。こういうところで、映像のカラーやトーンが、ずっとアーサーの内面描写だった、ということに気付かさせてくれる。
 さらに最後になっていくと、明るい日差しの中、アーサーが外に出て行くのだが、着ている衣装がくっきりとした赤と黄色の衣装。背景に預けていた色のトーンがアーサー自身が吸収したような色の服となる。これでアーサーはずっと内面の淀んだ世界を漂っていたが、そこから抜けだしたのだ、ということがわかる。

 ゴッサムにはどうにもならない“格差社会”がある。格差社会の実態は、もはや私たちの問題だから、それがどういうものなのか、語る必要もなかろう。昔は貧しくてもチャンスがある……と言われていた。チャンスがある、だから挑戦せよ! 努力は必ず報われる! ……クソ喰らえだ。
 おっと、私の本音が出てしまった。映画の話をしよう。
 一度何かにつまずいたものはもう二度と這い上がることができない。底辺はずっと底辺のまま。現代では“上級国民”が何か一度でも失敗を犯したらこれみよがしな引きずり落としあいをするし、底辺は底辺で底辺同士で足の引っ張り合いをえんえん続けて、そこから一歩でも抜け出ようとするやつがいたら全員でボコボコにする相互監視、同調圧力の社会ができあがっている。底辺社会は鬱屈が極まると、もう上昇しようという志向が失われ、地獄の餓鬼のごとく誰かの不幸を貪り喰らうようになる。『ジョーカー』の舞台は1981年ということだが、人々が抱えている鬱屈ははっきり今現在の社会をそのまま映している。
 どん底にいるのは、なにもアーサーだけではない。ゴッサムの労働者階級がまるごと底辺層へ転落していた。アーサーはその社会の中でたまたまヒーローとして祭り上げられたが、でもそれはある種の偶然……誰かが行動を起こしていたかも知れない。みんな鬱屈していて、そんな中で行動を移したたった一人がいて、それを周りが勝手に祭り上げて、旗印に仕立て上げたに過ぎない。口実がほしかっただけ。ジョーカー予備軍のような連中があの町には元々大量にいたのだ。
 ゴッサムは今にも何かが吹き出そうとしていた。そういう危ない予兆に漲っていた街だった。

 『ジョーカー』には2人の父親が出てくる。一人は人気番組の司会者マレー・フランクリン。アーサーはずっとマレーに憧れていて、妄想の中で「君が息子なら今すぐ全部捨てる」と言わせている。「マレーが父親だったらどんなにいいのに」……という願望をアーサーは抱いていた。
 もう一人の父親はゴッサムを代表する名士ことトーマス・ウェイン。アーサーは母がウェインに宛てた手紙の中で、アーサーを「あなたの息子」と表現しているのを発見する。ウェインが父親かも知れない!? すると後のバットマンことブルース・ウェインとも異母兄弟??
 しかしどちらも上級国民様だ。アーサーはテレビを通してでしか2人の姿を見ることができない。そんな父親を見上げるアーサーの表情、マレーを見るときの表情とトーマスを見るときの表情が同じ顔をしている。アーサーは触れることのできない父親の姿を見ながら、自分を見捨てた父親に対する怒りを浮かべる。

 上級国民様、というのはいつの時代もクズだと決まっている。しかし問題なのは、クズである、という自覚が本人達にないこと。上級国民様がクズだと知っているのは誰か――それはジョーカーのように転落しる人間だけである。
 電車で遭遇する3人はいずれもウェイン社に勤めている。一流企業への就職を射止めた成功者たちだ。3人は自分が優れた成功者であるから、ちょっとくらい悪さしても許されると考えている。実際、アーサーは悪ガキに襲われて路地裏で蹴られても誰もかまってくれない。それどころか、悪ガキに破壊された看板を弁償しろ、と理不尽にも追及を受けてしまう。誰も同情せず、助けてくれない。これが底辺社会だ。しかもたがかこの程度のことで転落する切っ掛けとなってしまう。

 だが上流階級のクソどもは許されてしまう。3人の死はテレビで報道され、経営者から同情の言葉を与えてもらえる。
 上級国民の人格がクソになりやすい理由は、現実感の喪失だ。最近見た映画に『モータル・エンジン』があるが、あの映画に出てくるロンドンの住人達は、底辺層で起きている現象を“娯楽”だと思い込んで消費している。底辺層がどんな苦労をして上流階級を支えているのか、想像もしなければ同情もしない。蛇口をひねると水が出る、それが当たり前。それがなぜなのか、考えることすらしなくなる。
 それに上級国民は自身の立場を徹頭徹尾自分の優れた能力のおかげだと思い込む習性がある。自分の能力が特別優れていたから、上級国民になれた。それは自分が努力し続けたからだ……という思い込む。上級国民はだから下層民に対して「あいつらは努力しなかったからだ」といくらでも自由にマウントかけても許される……と思い込む。いや違う……上級国民達は自分たちがマウントをかけているという自覚すらない。
 はっきりいえば、ただの“幸運”に過ぎない。上級国民は自分が今まで幸運に支えられていたに過ぎない、という自覚を持てないから、何かしら失敗――例えば犠牲者を出すような事故を起こ――しても何かしらの言い訳ばかりを探して、「自分が悪い」という反省は決して抱かない。反省を抱くということは自己否定になるからだ。

 ……おっと映画の話をしよう。
 ウェインは政界進出を目指している。言葉ではゴッサムのため、人々のため……と言う。しかしその底辺層であるアーサーと接したとき、ウェインはこれみよがしに冷淡に扱い、突き放そうとする。アーサーを殴るときでも、躊躇いがまったくない。ウェインは言葉では綺麗事を並べるが、本音では底辺層のことなどどうでもいいのだ。自分がかつて解雇したアーサーの母親が貧困に転落したという話を聞いても、何も保障しようともしない。ここでウェインの本音が見えてくる。ウェインは別に街の貧困を救おうとは考えていないのだ。テレビでは出てこないウェインの本性が、アーサー母子と接した瞬間にこそ現れる。電車で遭遇するあの3人組と重なるところがある。
 アーサーは劇場に忍び込み、上級国民様が見ている映画を一緒に鑑賞する。こともあろうか、そこで上映されていたのはチャップリンの『モダン・タイムス』だ。上級国民様にとっては、下層労働民の暮らしなんてものは、『モダン・タイムス』のように戯画化された面白おかしなものでしかないのだ。労働者階級を笑い飛ばす、というマウントをかけている。その程度の認識しかなく、言葉では「労働者問題が~」というこれはそれ自体がエゴでしかない。
 もう一人の上級国民であるマレーも、アーサーをこれみよがしに見下している。マレーはとあるバーで滑りまくったアーサーの姿を面白おかしくテレビで弄り倒す。アーサーはマレーの番組で自分が取り上げられているのを見て、一瞬は歓喜する。だがその取り上げられ方を見て、次第に表情は重く、ウェインを見ているときと同じ顔をし始める。
 憧れのマレーも所詮は上級国民。下層民である自分を見下し、いくらでもマウントをかけていいと思っている。マレーと同じ立場の人たちはアーサーの動画を見て上から目線で笑える。だが最下層にいる人間からしてみると違った視点で見えてくる。「あいつらクズだ」……と。

 いわゆる下層階級と呼ばれる人たちは、“笑われる人たち”である。アーサーは人を笑わせたい……という意識が本当にあったのか、というと少し怪しいものがある。下層民でしかない自分は笑われる対象でしかない――という自覚が原型じゃないか、という気がしている。
 自ら笑われにいく……芸人が自ら汚い格好をして、不細工なルックスを強調して、そのうえで自ら間抜けな失敗に飛び込んでいく。なぜ芸人達はそうするかというと、“みんなよりもさらに下の存在ですよ”というへりくだりを自ら演じるためだ。ただし、彼らはプロであるから、プライドを持って笑われに行く、ということを自覚的にやっている。なぜそうするのか、というと笑われる人間になるためには、みんなよりも下の存在にならなくてはならないからだ。人はなぜ他人を見て笑うのか、どういう時に笑うのか、というと相手を見下す瞬間にこそ笑うのだ。
 自分より上の存在を笑うことはできない。それは失礼というものだ。自分より上の地位にいる人を笑いにいく瞬間というのは、その相手を見下したい理由をあらかじめ持っているときだ。下級階層民が上級国民を相手に笑うとき、とはどんな時かというと“攻撃”する瞬間である。

 『ジョーカー』は下層階級達のどうしようもない足の引っ張り合いを描いた作品である。アーサーは仕事仲間である芸人達からも見下されているし、街の不良達からも見下されて、看板を盗まれて袋叩きにあったりする(芸人仲間で唯一アーサーを見下さなかった小人俳優がいるが、彼だけ殺されずに済んだ)。
 どうして下層階級の人たちがああやってお互いに攻撃しうのか、というと孤独からである。金もない、コネもない、知恵もない、体力もない……そういう人間はどこの社会から相手にされない。
 私は今それを経験しているからよくわかる。私は友人は一人もいないし、私を気にかけている人は誰もいない。なぜなら、あらゆる能力が一般平均よりもはるかに下で、私が書いたものから関心を惹くものが何ひとつないからだ。そういう人間は、本当に誰からも相手にされない、ひたすら孤独に陥る。
 そんな人間が誰かの関心を得るためには、誰かを攻撃して、見下す相手を見付けなければならない。なにかと暴力に訴える不良少年みたいなものだ。見下す相手を見付け出したときにこそ、下層階級民たちはやっと団結の切っ掛けを見付け出す。
 下層階民のやるマウント合戦ほど不毛なものはない。某ネット掲示板なんて、まさにそれを具体化したものだ。

 よく政治がらみの問題で下層階級達が団結するのは、大部分はこういう理由だ(本気で政治に興味のある人もいるが、そういうのはごく一部)。ああいったところに集まる連中というのは、基本的には誰からも相手にされない、社会の底辺たちだ。誰からも相手にされないからこそ、攻撃する誰かを見付けたとき、ワッと集まって声を合わせるようになる。そこに上級国民様を攻撃する(笑いものにする)、という旗印を見付けてしまったから、団結するのだ。本当言うと大半は、お題目にしている政治問題について、本気で問題だとは思ってないのだ。口実がほしいだけだ。
 でもそれは(大きな大義名分を掲げたおかげで目的が立派に見えるだけで)アーサーの看板を盗み出した街の不良少年達とたいして変わらない。単に誰からも相手にされない鬱屈を晴らすために、標的を見付けて袋叩きにしたい……というだけの話だ。

 そういった社会情勢を『ジョーカー』はきちんと描いている。普段誰からも相手にされていない失業者達。友達もいない、恋人もいない。一日で話す言葉がコンビニで「袋ご利用になりますか」に対して「いいえ」と返すこの一言だけ(私がそうである)。話し相手すらいない社会の落伍者。ピエロのお面を被って集まってきているが、お互いに同じ話題で話し合ったりするわけでもなく(電車のシーン、みんなピエロの格好をしているが、お互い顔を合わせて喋ったりもしていない)。しかしそこに警察という共通の悪を見付けた瞬間、ワッと団結して攻撃する。共通のテーマを持っているようで、団結が一切なく、一人一人が隔絶したままあの場の空気のみに共鳴している。そういう時代の孤独な空気が描かれている。
 『ジョーカー』は1980年代という装いを持って描かれているが、実際には2020年代の心情を、これ以上ないくらい的確に表している。
 そうした最中にあって、ジョーカーは覚醒してしまう。孤独な落伍者たちから崇められる存在として。カリスマになってしまう。もっとも下にいる人間が、下層民達のシンボルになる――トランプにおけるJOKERのごとく――この不思議を描いている。

 アーサーは母親を大事にしていたし、薬を飲んで発作を抑えようとしていた。でもおそらくそれがアーサー自身を苦しめ、押さえ込むものとなっていた。アーサーは“アーサーという仮面”をずっと被っていたのだ。
 母親を殺し、薬をやめた後のアーサーは初めて解放感を得る。あの奇妙な笑い声も出なくなる。アーサーは“ジョーカー”として朝日の中、小躍りしながら階段を下りていく。
 階段のシーンは超有名で、あの場所がこの映画の聖地になっているくらいだ。色んな人が解説しているが、階段を重い足取りで登っている時は、まだ“アーサーでいよう”と無理している時のメタファーだ。まだあのクソみたいな底辺社会にいて、その中を我慢して生きよう……と。階段を上りきったとき、カメラが反転して街の様子が浮かび上がる。建物が層になって浮かび上がってくる様子が美しいし、あの街をアーサーが背負わされているように見える。抜群のロケーションだ。

 それが解放を得た途端、小躍りしながら階段を下りていく。階段を下りていくのは“転落”を意味しているが、アーサーはその転落を、いとも楽しげに踊りながら下りていく。
 正気でいようと苦しみ、その背後で本性が暴れ回っている、という構図はどこか『ファイトクラブ』を彷彿とさせるものがある。『ジョーカー』もアーサーとジョーカーのせめぎ合いの物語だ。正気でいい子のアーサーと、何もかも破壊し尽くしたい衝動そのもののジョーカー。秩序と混沌。しかし背景となる社会、ゴッサムが荒廃しきって破綻寸前。正気のアーサーを押しとどめるものはもうなかった。堕ちるしかなかったのだ。
 しかしこの場面でのアーサーはまだジョーカーとして完成していない。ジョーカーとして完成した人格になるのは、父親を殺さねばならない。父と母の存在は、その人間をその社会を構成する社会的人間である、ということを意味づけする存在である。完全なる解放を得るためには、アーサーは父親も殺さねばならない。
 アーサーが殺す対象に選んだのはマレーのほうだった。トーマスを殺すのは『バットマン』の“史実”によるとジョーカーではなかったはずだから、すると殺すのはどうしてももう一人の父親であるマレーのほうになってしまう。マレーを殺すという選択を採ると、アーサーがこれまで抱いていた憧れや、将来の夢そのものを一度に始末することもできる。アーサーがマレーを撃ったのは、コメディアンになりたかった自分自身の想いそのものを破壊するためだった。

 最終的にゴッサムは暴徒が荒れ狂う危険な街へと変貌してしまう。悪として覚醒したのはアーサーだけではない。ゴッサムという街が一緒に目覚めたのだ。アーサーが目覚め、働きかけたから、街は“あのゴッサム”へとアップデートされたのだ。いや、ゴッサムの本性があの瞬間現れたのだ。『ジョーカー』はジョーカー誕生秘話であると同時に、“あのゴッサム”誕生秘話にもなっている。
 ジョーカーはアメコミヴィランの中でも特異な存在だ。というのも弱い、最弱のヴィランだといっていいくらいに弱い。ヴィラン特有のスーパーパワーはなく、フィジカルも並の人間よりも少し強い程度。正面からバットマンと向き合っても戦いにならない。しかしアメコミヴィランの中で一番怖い存在がジョーカーだ。なぜならジョーカーはその人間が内面的に持っている“闇”に静かに語りかけ、転落させるからだ。人間の精神に直接働きかけてくる怖さを持っている。『ダークナイト』でもゴッサムの希望の象徴と呼ばれた検事のハービー・デントを悪の側に転落させてしまった。ジョーカーにかかるとどんな希望の兆候も、悪の側に堕ちてしまうのだ。
 『ジョーカー』ではゴッサムという街自体を転落させてしまった。映画『ジョーカー』は一見するとあのコミック映画のようには見えないかも知れないが、しかしきちんとジョーカーは自身の役割を果たしている。上級国民のクズを撃つ……というのは誰かがやったかも知れない。電車での事件は偶然であったが、最終的には“必然”に変わっていた。ジョーカーだったからこそ、ゴッサムの街の象徴たり得たのだ。
 その覚醒の瞬間、アーサーは車で思いっきり追突される。おなじみの“死と覚醒”のモチーフだ。あの瞬間、アーサーは死亡し、ジョーカーとして生まれ変わったのだ。

 この映画にはいくつかの疑問点がある。
 アーサーは母親の若い頃の写真を見付けるが、そこには「TW」のサインが書かれている。TWのサインはトーマス・ウェインのことではないか。トーマスが父親……というのは全部母親の妄想というのは本当だろうか。
 もしもバットマンとジョーカーが異母兄弟だったとしたら、それはそれで『バットマン』という作品を語る上で、重要な重しになってしまう。やっぱりバットマンはジョーカーとそう変わらない、同じ傾向の人間だった、ということになる。
 もう一つの疑問点は、年代の違い。アーサーがジョーカーとして覚醒した頃、ブルース・ウェインはまだ幼少。バットマンとして活動をし始めるのはもっと後だ。バットマンが現れる頃になるとジョーカーもそこそこ年寄り……ということになってしまう。

ジョーカー 歴代ジョーカー

 そこで私が常々考えていることだが、ジョーカーは複数人いるのではないか。
 映画の『バットマン』にはこれまで、ジャック・ニコルソン=ジョーカーと、ヒース・レジャー=ジョーカーとジャレッド・レト=ジョーカーと本作のホアキン・フェニックス=ジョーカーの4人がいる。映画のジョーカーと言えばこの4人だが、私にはこの4人が同一人物だとは思えない。
 いや、見た目が違う……という話だけではなく、バックボーンが違う。4人ともジョーカーになった理由がそれぞれ違う。一方のバットマンはこれまで色んな俳優が代替わりで演じてきたが、こちらには同一性がある。バットマンになった由来がみんな一緒、だから顔は違えど同一人物であると言える。しかしジョーカーは4人とも由来が違っている。ホアキン・フェニックス=ジョーカーに至ってはバットマン登場前だ。年代が違う。
 推測すると、そもそもジョーカーはすべて別人だったのではないか……という考えに行き着いてしまう。私が抱いている想像では、みんなある時点では正気の人間だったが、ひたすら転落に転落を重ねて、吹っ切れて狂気の側に傾いた瞬間、ジョーカーという扮装に行き着く……というものだ。狂気の側に吹っ切れた人間が、不思議なことにみんなジョーカーの格好をして、ジョーカーと名乗り始めてしまう。ジョーカーのイメージは、狂気に触れた人間が共通して抱くイメージ、集合無意識のようなものなのではないか。
 私のこの想像が正しいかどうかはわからない。

 このブログでよく書いているように、私は底辺層だ。私は人生のあるとき、しょーもない失敗をして、以来這い上がることができなくなってしまった。収入はほとんどない。貯金もない。友人はゼロ。書いた小説や漫画は全く売れない。というか才能がまったくなかった。私を気にかける者も助ける者もいない。路地裏で倒れていても、腐敗して悪臭を放つまで誰も気付いてもらえない。たぶん、一生底辺の暮らしからは抜けられないだろう。私にはもう人生のチャンス、というものはない。
 私は「透明な人間」だ。誰も存在に気付かない。“誰か”ですらない。ネット掲示板では“誰か”の書き込みがいつも大量にあるが、誰なのかわからないし、書き込んだ人が何者であるか、なんて誰も気にしない。私はブログという場所を作ってはいるが、読んでいる人からすれば実体は同じだ。誰か一人でも「とらつぐみという人が書いた映画感想」と思って読んでいるか、というとそんなのいるわけがない。
 私のような孤独な人間が誰かに存在を気付いてもらうにはどうしたらいいか? 傑作を書く? いいやそんな才能はない。事件を起こすしかない。私の行く先にあるのは、もうそれしかない状態に来ている。

 そんな私が『ジョーカー』を観ると、これはもう「私の映画だ」という気分になってしまう。「アーサーは私だ」と思って観ることができてしまう。私の人生をこうやって美しく、象徴的に描いてくれた……という気がしてしまうから『ジョーカー』という映画が好きという以上に大切な一本になってしまった。
 だから気付くことがある。私の人生は悲劇ではなく喜劇だ。きっと上流階級様から観れば、私の人生はどこまでも滑稽で、笑わずにはいられないものになっているんだろう。
 やはり私の今後は、もうジョーカーになることしかないのだろうか。とりあえずジョーカー笑いの練習はしておこう。

 きっと世の中には私のように「これは私のために作られた映画だ」と共感を持って映画に接した人たちは一杯いただろう。上級国民の側にいる人々はこの映画を理解しなかったようだが。だが上級国民は『モダン・タイムス』を観て笑っている場合ではない。もはや日本そのものがどこかでゴッサムに転落するかもしれない……そういう事態を手前にしている(誰も気付かないだろうけど。最初の砲声が轟くまでは……いやその後も気付かないかも知れない)。『ジョーカー』はそうした社会の危うさをものの見事に描き出した、「現代の映画」として作られている。これは単にコミック原作映画ではない。現代社会について語り、描写した映画だ。
 そこで思うのだが、アメコミはやはりアメリカ文化の象徴なんだな……ということ。アメコミという題材を使いながら、こんな見事な映画が制作できてしまう。日本でも最近は漫画原作の実写映画でもそこそこ頑張っているが、できあがるのはまだ子供だまし。中学生高校生を夢中にさせる程度の、安っぽい商業映画しか作れていない。コミックや映画を通して現代社会をまざまざと描いてみせる……しかも『ジョーカー』には上品な映像感覚を最初から最後まできちんとキープされている。そういう作品は日本からは出てきていない。日本からこういう作品が出てこないのは、映画が日本文化の中心ではないからだ。では何が日本文化の中心といえば漫画とアニメ。漫画とアニメで堂々と勝負すればいいのに……どうしてこういう話をするとみんな後ろ向きになるのか、がよくわからない。

 おっと、脱線してしまった。今回は脱線が多い。脱線が多いのは、どうにもこの作品が私の人生に寄り添っているという気がしてしまうからだ。そういう錯覚を抱かせてくれる作品、というのは名作になりやすい。名作とは何かと聞かれたら、その時代の人々や社会が思い抱いている不満や鬱屈、内面的に思っている深層を物語という形で暴き出し、描写した作品のことだ。みんなが共有して思っていることを“代弁してくれる作品”のことだ。
 『ジョーカー』はその要件を完璧に備えている。みんな『ジョーカー』を「俺の映画だ」と思って観てしまう。誰もが心の奥底にジョーカーを飼い始めている。そしてその解放として崩壊していく街の姿を描いてみせた。怖いシーンなのに、あのシーンがなんともいえない解放と恍惚に満ちている。それがどうしてなのかというと、みんなが抱いていた「何もかもぶっ壊れてしまえ」という願望そのものを具現化したからだ。
 『ジョーカー』は間違いなく時代のシンボルとなる作品だ。10年後20年後、「2020年代の人がどう思っていたか知りたい」という人がいたら、『ジョーカー』をお勧めしよう。この作品ほど、2020年代という空気を表現した作品はないだろうから。


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