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その22『共感』〜孤独を感じる人へ〜



人生を生きていると他人に対して

その状況でヤバいと感じないのヤバくない?

と、感じることはないでしょうか?
僕は子育て、新人教育などの場面で感じます。
少年野球のコーチをしていると感じるのは、レギュラー達と補欠達では試合に対する理解度が全く違うということです。
例えば大ピンチの場面でレギュラーが焦っていても補欠はどこか他人事だったりします。
そして、負けた時、涙を流すレギュラー達の横で平気で笑う補欠達。
『何笑ってんねん!!』と声を荒げるレギュラーに、キョトンとする補欠達。
こな光景は一体、僕らに何を教えようとしているんでしょうか。

共感と成長の関係

今週明けに職場で気付いたことです。
上司から「今、ヤバい状況だ」という事を伝えられて、ヤバい状況にあることは理解できたとしても、上司が何故、『ヤバい』と感じているのか、そのプロセスが理解できなければ、その状況を打破するための行動を上司と同じレベルで起こせないと思ったんですよね。(長ぇ文だな)

上司同士は共感し合ってるのに、部下がついていけない場面って結構あると思うんですよ。
前述の少年野球でもそうです。レギュラー陣に共感できないベンチ陣。共感できるほど試合を理解できていないんです。

だから僕は『共感無くして成長なし』『成長無くして共感なし』を実感しています。
同じシチュエーションで同じ感情をもっと共有できれば、可能性はもっと拡がるのに。
もっと成長できれば、自分より高次元の人達と、もっと共感し合う事ができるのに。

共感力がもたらすもの

でも、僕は知っています。
共感力の強い人間にとって、この世は地獄だと。
先程の「ヤバい」という感情は、『焦燥感』です。
それ単体だと、マイナスな感情です。共感するのはプラスな感情だけではないのです。
古くからの『人の不幸を喜ぶ』風潮か、ニュースは事件や事故、災害、戦争の話題でひしめき合っていますよね。
みんな愚痴や悪口、大好きじゃないですか。
ポジティブな話題って本当に少ないんですよ。
そんな暗い話題に触れていく内に、彼らはどんどん疲れていってしまう。
成長すればするほど、見えてくる世界があります。それが自身が思い描いていたバラ色の世界とは限らないのです。

共感の反対語

共感力の高い人の不幸はまだ続きます。
彼らは自身の持つ高い共感力と同等の共感を他人に求めてしまう傾向があるようです。
けど殆どの場合、満足のいく共感は得られない。
そして、共感が得られないとフィードバックされる感情―、それが『孤独感』です。
共感力が強ければ強いほど、跳ね返ってくる孤独感は増します。
よく、スピ界隈で魂のレベルが高い人ほど孤独になっていくと言いますが、これがそのカラクリだと考えています。

孤独とは『一人であること』ではない

不登校や引きこもりの人達は共感性が異常に高いと言います。彼らは生まれ育った環境や生い立ちから、生きるため後天的に、そうならざるを得なかったと思うのです。そして集団を抜け出し、社会を抜け出し、一人であることを選んだ人達だと。しかし、それで孤独かと言うとそれは疑問だなと思うんですね。
前述の通り、『孤独』とは共感が得られない時のフィードバックです。
彼らがその人並み以上の共感力のせいで、人並み以上に『孤独』を感じてきたからこそ、『孤独』のない世界に引きこもっているんじゃないかと僕は推察するんですよ。

『なんでこっちばっかり、こんなに気を遣わなアカンのや!!やってられるか!!アホ!』

なんて彼らは言えない。言われた相手の気持ちに共感してしまうから言えないんです。
だけど、それは『優しさ』なんでしょうか?
『自分への甘さ』なんじゃないかって気付く度に僕は勇気を振り絞るんです。

汝、隣人を

さっき(これを書いてる、さっき)妻と長男と3人で話していたのですが、そこでの妻の言葉。
『◯(長男)だけやわ、最近話が通じるのは』
『下の二人は、会話にならん』
その話を嬉しいのか困り顔で聞く長男。この長男は誰に似たのか昔から共感性が異常に高いんですよね。
僕はずっと、僕が家を空けている時、妻は子ども3人に囲まれて和気藹々と楽しくやっていると思っていたんですよ。
だけど、日に日に妻の機嫌は悪くなる一方で、それも育児疲れかなと思っていたんです。
それは、とんでもない勘違いでした。

家族の誰一人も妻に共感していなかったのです。
僕でさえも。
妻は僕の前では弱みを一切見せませんでした。
僕は気付けていなかったんです。
妻の孤独に。
今回のこの共感の気付きがなければ。

僕の対策『課題の分離』

しかし、過共感は危険です。
共感し過ぎると、こっちが潰れてしまう。
そんな僕が非常に助けられている考え方が、アドラー心理学の『課題の分離』です。
人間関係のトラブルは自分の課題と相手の課題が入り交ざった状態で起こるとして、自分の課題と相手の課題を分けて、『自分の課題に他人を介入させない』『他人の課題に自分が介入しない』ことでトラブルやストレスを回避する考え方です。
例えば、僕が妻の所有物を壊して妻が怒っているとします。しかし、妻は怒ることと怒らないことを選択できます。この選択が妻の課題になるわけです。だから僕は謝りはするけれど、妻の怒りに介入しようとはしません。少し無責任と思われても仕方のない方法ですが、これにはかなり助けられました。共感性の高い人間はちょっと無責任に振る舞うくらいが丁度いいのかも知れませんね。
人間にとっての最高の幸福は『他者への貢献』からもたらされるとアドラー心理学は考えていますので、共感性の高い人ほどその内容を深く読み込めるのかも知れません。
ベストセラーもベストセラーで今更感はあるのですが、気になる方は『嫌われる勇気』おすすめです。

さいごに

『孤独』と『孤独感』は似て非なるものだと僕は考えています。
『孤独感』は感情の一つだから、手放すこともできるし、赦すこともできる。孤独感をどうするかの選択はその人の課題なんだと思うんです。
僕は以前、どこかの投稿で、『人の2倍不幸を感じてしまうなら幸福も2倍だ』と書きました。孤独感も同じで、その人なりの方法で孤独感を手放せば、残るのは共感だけの天国になると思うんですね。なかなか難しいですよ。僕もそこまでは行けていない。その世界を突き詰めると、恐らく、人の内側と外側の境界がなくなる…気がする。

次の投稿の予定にしている題材が、この『孤独感』と深く結びついている題材です。
何でもかんでも偉そうに語る僕が、『これは克服できてないなぁ…』と思うものです。
書けるのかな…とりあえず書き出したら降りてくるでしょう。

この孤独感を克服した人にたまに出会います。
そんな人に僕もなりたい。
そんな人は孤独に見えて孤独じゃない。
そう、僕の心にあるのは―

エピデンドラム
花言葉は『孤高への憧れ』

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