それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。
鷗外は、「哲学者」と「詩人」の言葉の扱い、そして「主観」と「戯曲」の定義を行なったあと、「詩人」の「主観」を分類します。
「主観」や「直現情感」は、「詩人」の「実感」であり、「主観の影」や「再現情感」は、「詩人」の「審美感」である、と……
これに関しては、逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」の言及を受けてのものです。
そして、鷗外はこんなことを言います。
「詩」とは、「哲理」や「実感」を没却したものである、と……
逍遥は、なんら新しいことを見いだしてはいない、逍遥が言っていることは、詩の本体の当に然らしむべきところである、と……まぁ、これに関しては、逍遥本人が一番わかっていることだと思いますけどねw
で、このあと、プラトンと鷗外の「理想」は近いのではと言ったことに対して「違う」と言ったり、模倣を「高級」と「低級」に分けたことに対して、模倣には「低級」しかないと言ったり、「アンリアル」を「虚」と訳したことに対して、「アンリアル」は「非実」であると言ったり、チャチャを入れるわけですがw……
そして、「後没理想」まで発展した論争にふさわしい、まるで「東洋の詩人」と「西洋帰りの哲学者」のような対立が浮き彫りになります。
この「誤解」に関して、鷗外は言及するわけですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!