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#986 東洋の詩人と、西洋帰りの哲学者

それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。

鷗外は、「哲学者」と「詩人」の言葉の扱い、そして「主観」と「戯曲」の定義を行なったあと、「詩人」の「主観」を分類します。

早稻田黨との主觀といひ、私情といひ、直現情感といへるものは詩人の實感なり。彼等の主觀の影といひ、主觀の映畫といひ、再現情感といへるものは詩人の審美感なり。
わが詩を論ずるや、常に詩人の實感をば度外視したりき。故いかにといふに詩人も固より人なれば、飢うれば食はむことを思ひ、倦めば眠らむことを思ふが如き實感なきこと能はずといへども、その實感の直ちに歌ひ出すべきものにあらざるは言ふまでもなければなり。詩人の詩を作るときの主觀は審美感ならざること能はざるは言ふまでもなければなり。(#972参照)

「主観」や「直現情感」は、「詩人」の「実感」であり、「主観の影」や「再現情感」は、「詩人」の「審美感」である、と……

これに関しては、逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」の言及を受けてのものです。

自家の私情を没する能はざるものは、正しく私の愛憎恩怨を語るものにして、私情の為に吐ける言葉は、よしや私利を目的とするにあらざるまでも、大抵は自家の為に、同情、同感を呼ばんとするものたる、争ふ可からず、然るに、彼の詩歌の上乗にあらはるゝ情感は、たとひ抒情といふたぐひといふとも、かゝる狭隘なる利害をば解脱せる者なり。即ち前者は、直現の情感にして、後者は再現の情感なり、此の故に、平生の談話、愁歎、誹謗、罵詈、辨難、等の間には、吾人が主観たヾちに現はるれど、哀悼、戀愛、慨世、憂國、等の詩歌の傑作には、吾人が主観の影[イメージ](映畫)あらはる。(#943参照)

そして、鷗外はこんなことを言います。

夫れ作者の哲學上所見のあらはるべからざるは詩の本性なり。作者の實感のあらはるべからざるもまた詩の本性なり。詩は初より沒却哲理なるべきものなり。詩は又初より沒却實感なるべきものなり。(#973参照)

「詩」とは、「哲理」や「実感」を没却したものである、と……

詩中にはおのづからにして作者の哲學上所見をあらはすことなし。逍遙子がその埋沒を發明するを待たず。詩中にはおのづからにして作者の實感をあらはすことなし。逍遙子が其黨人と共にその埋沒を宣言するを待たず。詩の沒却哲理にして又沒却實感なるは詩の本體の當に然らしむべきところなれば、此間には誰も逍遙子と其黨人との特殊の面目を見出すことなからむ。(#973参照)

逍遥は、なんら新しいことを見いだしてはいない、逍遥が言っていることは、詩の本体の当に然らしむべきところである、と……まぁ、これに関しては、逍遥本人が一番わかっていることだと思いますけどねw

で、このあと、プラトンと鷗外の「理想」は近いのではと言ったことに対して「違う」と言ったり、模倣を「高級」と「低級」に分けたことに対して、模倣には「低級」しかないと言ったり、「アンリアル」を「虚」と訳したことに対して、「アンリアル」は「非実」であると言ったり、チャチャを入れるわけですがw……

そして、「後没理想」まで発展した論争にふさわしい、まるで「東洋の詩人」と「西洋帰りの哲学者」のような対立が浮き彫りになります。

鴎外は個人たる逍遙と時文評論記者とを混ぜり。これを第一誤解とす。鴎外は絶對に對する逍遙と一種の對相對主義を奉ずる逍遙とを混ぜり。これを第二誤解とす。鴎外は吾人と名乘り出でたる時文評論記者と絶對に對する逍遙とを混ぜり。これを第三の誤解とす。(#976参照)

この「誤解」に関して、鷗外は言及するわけですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!



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