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#973 詩の本体は、没却哲理にして没却実感である

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

夫れ作者の哲學上所見のあらはるべからざるは詩の本性なり。作者の實感のあらはるべからざるもまた詩の本性なり。詩は初より沒却哲理なるべきものなり。詩は又初より沒却實感なるべきものなり。逍遙子がシエクスピイヤの戲曲を評せし言葉の天下の耳目を驚かしゝは抑[ソモ]何故ぞや。答へていはく。シエクスピイヤの曲を沒理想なりといひければなり。シエクスピイヤの曲を沒理想なりといひしを、世の人も我も、プラトオ以來哲學上に多少の定義ある理想を無しとせるなりとおもひければなり。逍遙子が其黨人と共に沒主觀の名を却[シリゾ]けて我評を難ぜしはいと面白けれど、その面白き樣なるは抑何故ぞや。答へて云く。わがシエクスピイヤの曲に能觀の相勝ちたるとシルレルの曲に能感の情勝ちたるとを説きしを難じて、苟くも大家の作には主觀あるべからずといひければなり。わが所謂能感の情、主觀の感は審美感にして、古今の審美學者が認めて正當なる叙情詩の部分となしたるものなるを、實感なるべく見ゆるやうに言ひ做しければなり。獨り奈何せむ、逍遙子が所謂理想は作者の哲學上所見にして、その所謂主觀は作者の實感なることを。詩中にはおのづからにして作者の哲學上所見をあらはすことなし。逍遙子がその埋沒を發明するを待たず。詩中にはおのづからにして作者の實感をあらはすことなし。逍遙子が其黨人と共にその埋沒を宣言するを待たず。詩の沒却哲理にして又沒却實感なるは詩の本體の當に然らしむべきところなれば、此間には誰も逍遙子と其黨人との特殊の面目を見出すことなからむ。
逍遙子の後沒理想論をなすや、肚裏[トリ]に沒却哲理詩の義を藏して、筆頭には舊に依りて沒理想の字を寫し出せり。その言にいはく。わが用ゐる如き意に理想といふ語を用ゐむこと、勿論幾多審美學者が古來用ゐ來りたる先例に違背すべしといふ。逍遙子何人なればか、敢て古今の審美學者の一たびも理想といはざりしものを名づけて理想とはいはむとすらむ。その實感を主觀といへるに至りては、亞米利加の人某が言に基づけりとはいふものから、そのことさらに古今審美學者の用語例を蔑[ナイガシロ]にして、故もなく新字面を作れるはおなじかるべし。
沒理想の由來といふ文には、又逍遙子がシエクスピイヤを究めむとする方鍼を示されたり。逍遙子はこの段にて更にシエクスピイヤが曲を論じて、ハルトマンが所謂曲中人物の主觀(個想)に活差別相といふ名を附したること、作者が能く癖Idiosyncrasieを避けて無私Nicht interessirt seinなるに至りしを所謂理想(實は作者の哲學上所見)の見えずなりたる由縁なりと認めて、これに活平等相といふ名を附したることをことわり、この兩相をシエクスピイヤが客觀を評したる言葉なりとし、これにて評し到らざる所謂シエクスピイヤが主觀といふものを、おのが十餘年を期して究めまく思ふ神祕なりといへり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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