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#972 美人の絵に対する情は審美感、活きたる美人に対する情は実感

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

逍遙子は別に論を立てゝ主觀といふ語を却[シリゾ]けつ。その亞米利加[アメリカ]の人エワレツトが言を引きての辨にいへらく。吾黨とエワレツトとの所謂主觀は私情なり。直現情感なり。平生の談話、愁歎、誹謗、罵詈、辨難等の如き狹隘なる利害なり。叙情詩人はたとひ情感を歌ふといへども、そは公情なり。再現情感なり。主觀の影なり。主觀の映畫なり。傑作中の哀悼、戀愛、慨世、憂國等の如く小利害を脱したるものなりといへり。
わが見るところを以てすればエワレツトと早稻田黨との所謂主觀は審美感にあらずして實感なり。美人の畫に對する人の情は審美感なり。活きたる美人に對する人の情は實感なり。劇を觀て泣くは審美感なり。民をおもひて泣くは實感なり。こはひとり感納性の上のみにはあらず。轉じて製作性の上より説くときは平生の談話、愁歎、誹謗、罵詈、辨難等をありのまゝに言葉にあらはすは實感なり。哀悼、戀愛、慨世、憂國等の詩人の傑作中にあらはるゝは審美感なり。エワレツトと早稻田黨との彼と此とを分てるはまことにさることながら、そのかなたを私情なりとし、こなたを公情なりとするは頗[スコブル]妥[オダヤカ]ならず。その私情なりとする罵詈、辨難にも國家をおもひて奸民を罵詈し、學術を唱へて迂儒を辨難するが如く公なるものあるが如く、その公情なりとする哀悼、戀愛にも個人に對して動くときは到底私を免れざるものあるべし。又エワレツトと早稻田黨とが實感を直現なりといひ、審美感を再現なりといへるは、かなたの實に逢ひて直に起ると殊にて、審美感のハルトマンが所謂約束ある前納conditionale Anticipationとして起るを見て立てたる區別なるべし。(審美學下卷四二面)原來審美感は思議して起すものにあらずして、意識なくして起すものにはあれど、美人の畫に對して起す審美感は活きたる美人に逢ひたらむをりに起すべき實感の約束の前納と看做さるゝことを得べし。かつて戀せしことある人はその既往の戀の實歴を喚びおこして、此の如き前納感をなすべく、まだ戀知らぬ少年はおのれが本能[インスチンクト]を役して戀といふものはかくあるべしと思ひ遣りて、此の如き前納感をなすべきは覩易[ミヤス]き理ならむ。
さればエワレツトと早稻田黨との主觀といひ、私情といひ、直現情感といへるものは詩人の實感なり。彼等の主觀の影といひ、主觀の映畫といひ、再現情感といへるものは詩人の審美感なり。
わが詩を論ずるや、常に詩人の實感をば度外視したりき。故いかにといふに詩人も固より人なれば、飢うれば食はむことを思ひ、倦めば眠らむことを思ふが如き實感なきこと能はずといへども、その實感の直ちに歌ひ出すべきものにあらざるは言ふまでもなければなり。詩人の詩を作るときの主觀は審美感ならざること能はざるは言ふまでもなければなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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