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#943 直現の情感は主観がただちに現れるが、再現の情感は主観の影が現れる

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

さてまた将軍が示教せられし没主観といふ新名目は、打聞いたるところ、いと妙なるが如しと雖も、わが黨が未だ甘心する能はざる、そも/\故あり。夫れ作家の感情を主観としそが観相を客観とする由は、吾黨もほヾ心得たり、さりながら作家の感情即ち主観と、作家が造化人間に関する極致の観念、即ちわが謂ふ理想との間には、吾黨初めより区別を設けつ。吾黨は常に思へらく、上乗の詩は叙情、抒事、ドラマの区別を問はず、おしなべてそが私の情を没せざるべからずと。此のこと叙情詩に対していはんには、いとも奇怪なるが如く聞かるゝならんが、吾黨がかく論ずるは、吾黨が獨造の説たるにとヾまらず、前人も已に唱へたる所なり。案ずるに、自家の私情を没する能はざるものは、正しく私の愛憎恩怨を語るものにして、私情の為に吐ける言葉は、よしや私利を目的とするにあらざるまでも、大抵は自家の為に、同情、同感を呼ばんとするものたる、争ふ可からず、然るに、彼の詩歌の上乗にあらはるゝ情感は、たとひ抒情といふたぐひといふとも、かゝる狭隘なる利害をば解脱せる者なり。即ち前者は、直現の情感にして、後者は再現の情感なり、此の故に、平生の談話、愁歎、誹謗、罵詈、辨難、等の間には、吾人が主観たヾちに現はるれど、哀悼、戀愛、慨世、憂國、等の詩歌の傑作には、吾人が主観の影[イメージ](映畫)あらはる。彼方は直接にして、此方は間接なり。前者に遭ふときは、吾人毎に當の人と同感して、其の怒れるを理[コトワリ]と想ひやり、其の怨めるをげにこそと推察し、語の卑しきを聞きては、其の人を卑しみ、論の高きを聴きては、其の人を敬慕崇重す、未だ其の人を解脱して、詞花言葉の美を味ふに至らず。随うて、其の人を離れて、搆思着想の巧妙に恍惚たるべき理なし。詩歌の隹什に遇ふや、吾人の感、かくの如くならず。吾人はもはらその詩歌に動かされ、その想の高雅なるに感ず、作家を思ふに遑無し。誰れか"In Memoriam"を読みて、テニスンといふ個人がそが友を失ひぬる實感に同感せんや、専らかれが傑作の妙をのみこそたゝふるならめ。

#925でちょっとだけ紹介しましたが、テニスンとはヴィクトリア朝のイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(1809-1892)です。1832年、テニスンは親友の詩人アーサー・ヘンリー・ハラム[Arthur Henry Hallam](1811-1833)と大陸旅行に出掛けますが、その翌年に急死してしまいます。テニスンはハラムを弔う詩を書き始めます。残された者の喪失感は、長い制作期間とともに、神と人間に対する大きな愛へと変化していきます。完成したのは17年後の1850年。それが『In Memoriam A. H. H.』です。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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