それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。
鷗外は、言います。
ここは、逍遥が「雅俗折衷之助が軍配」で述べた、次の文章を受けてのものです。
逍遥は、そもそも「絶対」に対するときと、「相対」に対するときで、ふたつは依って立つ「位置」が違うのだといいます。ただし……
こういう態度が、鷗外は気にくわないんでしょうね!w
「没」の一字の義は、「埋没」でも「没却」でも「無」でも良いというし、「絶対」と「相対」に対する立場は、没理想の変化でもって変わるかもしれないというし……
これに関しては、のちに、「詩人」と「哲学者」の言葉に関する使い方ではっきりといいます。
で、鷗外は、「絶対」と「相対」における生涯の二境に関して、こんなことをいいます。
「絶対」はおのずからにして「無限」で、「相対」はおのずからにして「有限」であり、べつに逍遥の特殊な面目ではなく、自然の境界なのである、と!
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!