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#984 それは自然の境界なのである!

それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。

鷗外は、言います。

後沒理想の論にいへらく。さきに欲無限の我を立てゝ、衆理想皆是皆非なりといひしは、造化に對し、絶對に對する個人の逍遙なり。早稻田文學の時文評論記者として現世に對する逍遙はやはり欲有限の我を立てゝ義務を盡せり。かなたは常にして、こなたは變なり。わが生涯は是の如く二境に分れたりといへり。(#969参照)

ここは、逍遥が「雅俗折衷之助が軍配」で述べた、次の文章を受けてのものです。

将軍ははじめより逍遥が立脚の位置の、二つあることを見脱[ミオト]したり、これわが論の模糊たるに原因せずして、偏に将軍が速計にも、わが論の一端のみを見て、解を下されしに、原因す、即ち、将軍が誤解なり。将軍が所謂敵智といふものより見ば、斯く二位を混同して、論を立てられたるは、誤解として咎むべき限にあらずして、寧ろ将軍が應變の神算とやたゝへまし。そはともあれ、かくもあれ、わが所謂二つの位置とは、何ぞと云ふに絶対に対する位置と、相対(現世)に対する位置と是なり、専ら當世に處する政治家、教育家、裁判官、さては新聞紙社會の文客などの上にこそ、或は此の二境界具足せざるべけれ、純粋なる学者文人等は、宇と宙とを離れて、其の手段こそ異なるべけれ、共に事物の絶対を研究すべき天職を有するが故に、他の尋常の人と同じく、當世に対する義務と本分と(例へば國民たる義務、父子たり、師弟たる義務等)をもてると同時に、別に絶対に対して、絶対的に立つべき権利あるや疑ひなし。(#929参照)

逍遥は、そもそも「絶対」に対するときと、「相対」に対するときで、ふたつは依って立つ「位置」が違うのだといいます。ただし……

あらかじめ我が生涯を二境に分ち、絶対に対するときの我が覚悟と、現世(相対)に対するときの我が本領と、截然区別せんと試みたり。蓋し、わが此くの如く、我が生涯を二分するは、恐らくはわが所謂没理想が未だ、本體と得ならずして、方便の境界にあればなるべし。されば没理想の一變して、有理想となるか、しからざれば方便の没理想が大進化して、本體の没理想とならん時来たらば、我れ竟に二生涯を打成統合して、一生涯となし、絶対に対する覚悟をもて、相対に対すること、或はこれあらん。(#930参照)

こういう態度が、鷗外は気にくわないんでしょうね!w
「没」の一字の義は、「埋没」でも「没却」でも「無」でも良いというし、「絶対」と「相対」に対する立場は、没理想の変化でもって変わるかもしれないというし……

これに関しては、のちに、「詩人」と「哲学者」の言葉に関する使い方ではっきりといいます。

で、鷗外は、「絶対」と「相対」における生涯の二境に関して、こんなことをいいます。

逍遙子はこの言を作して、おのれが生涯を、造化の絶對に對する生涯と人間の相對に對する生涯とに分ちたるは洵にさることなるべけれど、評者たる我は此後沒理想論の毫も前度の沒却理想論とおなじからざるを見る。夫れ衆理想とは何ぞや。所謂理想の何物なるかは姑く問はず。その衆人の懷抱するところなるより見れば、衆理想は言ふまでもなき世間の理想なり、相對の理想なり。……是れ早稻田文學の沒却理想なりき。今や逍遙子はその欲無限の我を以て、絶對を研究する天職を竭[ツク]さむといひ、その欲有限の我を以て相對に對する料理をなすといふ。されど絶對はおのづからにして無限なり。逍遙子が欲無限の我を立つるを待たず。相對はおのづからにして有限なり。逍遙子が欲有限の我を立つるを待たず。絶對に對しては限あらせじと欲し、相對に對しては限あらせむと欲すといふは、唯是れ絶對と相對との別より出でたる自然の境界にて、此間には誰も逍遙子が特殊の面目を見出すことなからむ。是れ今の早稻田文學の後沒理想なり。(#969参照)

「絶対」はおのずからにして「無限」で、「相対」はおのずからにして「有限」であり、べつに逍遥の特殊な面目ではなく、自然の境界なのである、と!

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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