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#929 鷗外が見落として誤解していること

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

さぁいよいよ、没理想論争の、あの難問について再び言及しますよ!

衆理想を皆非といひ、同時にまた皆是といふは、論理の許さヾるところなり。さらば、同一の事物を是とも非とも見るべきは、果たしていかなる境界なるかと、われひそかに考へ見たるに、是も無く非もなき境界には、さしもいひ得ることあるなり、即ち絶対の境界なり。夫れ絶対には、是非も、彼我も無し、されど、そは能く空間を脱し、時間を離れたる上のことなり。汝逍遥、此の顕象世界の中に立ちながら、能く相対を脱し、彼我後先を離れ、是非善悪を度外視することを得るや。汝は如何にして罪囚を裁判せんとするぞ。盗も不盗も、ひとしなみに見做さんとするか。汝は如何にして文学上の批評を行はんとするぞ。論理を守れるも、守らざるをも、ひとしなみに見做さんとするか。
味方の軍勢かくときいて、諸聲[モロゴエ]に答ふるやう、「たがへり/\、痛くたがへり。将軍ははじめより逍遥が立脚の位置の、二つあることを見脱[ミオト]したり、これわが論の模糊たるに原因せずして、偏に将軍が速計にも、わが論の一端のみを見て、解を下されしに、原因す、即ち、将軍が誤解なり。将軍が所謂敵智といふものより見ば、斯く二位を混同して、論を立てられたるは、誤解として咎むべき限にあらずして、寧ろ将軍が應變の神算とやたゝへまし。そはともあれ、かくもあれ、わが所謂二つの位置とは、何ぞと云ふに絶対に対する位置と、相対(現世)に対する位置と是なり、専ら當世に處する政治家、教育家、裁判官、さては新聞紙社會の文客などの上にこそ、或は此の二境界具足せざるべけれ、純粋なる学者文人等は、宇と宙とを離れて、其の手段こそ異なるべけれ、共に事物の絶対を研究すべき天職を有するが故に、他の尋常の人と同じく、當世に対する義務と本分と(例へば國民たる義務、父子たり、師弟たる義務等)をもてると同時に、別に絶対に対して、絶対的に立つべき権利あるや疑ひなし。

「絶対」と「相対」というふたつの立脚点を鷗外が見落とし、「絶対」のみを批評したところに問題があると……

げにや、時と事情とによりては、相対に対する義務の為に、絶対に対する位置を棄つることはこれあらん、時としては皇室のおほんために、あるはまた國のために、純粋の学者も剣を提げて起ち、専門の文人も、砲を肩にして、難に殉することもあらん。ジョン、ミルトンが當世の為に、破邪顕正の政論を作り、バイロンが希臘人の為に、義兵の将となり、ラマルターン、キヨル子ル等が、武器を按して世を慨けるたぐひ是れなり。しかはあれど、これらは皆学者文人が境遇の、變にして権なる者か、常の位置とはいふ可からず。

ジョン・ミルトンに関しては#902でちょっとだけ紹介しています。

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)は、1823年、ギリシャ暫定政府代表の訪問を受け、2年前の1821年から始まったギリシャ独立戦争に参加します。1824年1月、ギリシャのメソロンギに上陸し、レパントの要塞を攻撃する計画を立てたが、熱病にかかり、3ヶ月後の4月、同地で死亡します。

「ラマルターン」は、フランスの詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)のことかと思われます。ラマルティーヌは、1820年に『瞑想詩集』を出版し一躍注目されますが、1830年、7月革命を機に政治活動を開始します。1833年には代議士に当選し、1848年、2月革命の臨時政府で外務大臣を務めます。

「キヨル子ル」は、ドイツの作家テオドール・ケルナー(1791-1813)のことかと思われます。1812年に書かれた戯曲『トーニ』は、1889年に「読売新聞」紙上で森鷗外と三木竹二(1867-1908)の共作で翻訳されますが、未完に終わります。ケルナーは、1813年から解放戦争におけるプロイセン軍の義勇部隊である「リュッツォウ義勇部隊」に参加し、メクレンブルクのガーデブッシュの戦闘で戦死します。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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