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#969 今や我、この文に題して「後没理想」といへり

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

わが沒理想を評せし後、逍遙子はその沒却理想の主義を示しき。逍遙子はこの主義を示したる後も舊に依りて沒理想といふ語を用ゐたりしに、われはこれを評するに當りて、沒却理想といひて、前の評に混ぜざらしめき。逍遙子のいはく。沒は沒却なり、埋沒なり。されど無を絶無、本來無とだにせずば、無なりと解せられても差支なしといへり。われは絶無ならざる無を以て無に非ずとし、多少その有を認めたるものとす。われは本來無ならざる無を以て無にあらずとし、早晩その有を認めたるものとす。かるが故にわが評者たる地位にありては、此間におごそかなる限界を設けて、沒理想より沒却理想に入りたる始終を明にせむとしたること、當然の理なるべし。
今やわれ此文に題して後沒理想といへり。こは逍遙子がこのごろ説くところの前に説きし沒理想にもあらず、中ごろ説いたる沒却理想にもあらざること分明なればなり。われはこゝに沒却理想と後沒理想との最著き差別を擧げて、わが命名の根據を定めむ。
逍遙子は沒却理想を立てゝ、衆理想皆是皆非なりといひき。われこれを評していはく。逍遙子若しみづから絶對の地位に居り、聖教量を以て言を立てば、かくいひても好かるべし。惜むらくは逍遙子一切世間の法に説き及ばずといひき。此評出でゝ後、逍遙子は後沒理想論を作りて、今までの出世間法に世間法を加へたり。
後沒理想の論にいへらく。さきに欲無限の我を立てゝ、衆理想皆是皆非なりといひしは、造化に對し、絶對に對する個人の逍遙なり。早稻田文學の時文評論記者として現世に對する逍遙はやはり欲有限の我を立てゝ義務を盡せり。かなたは常にして、こなたは變なり。わが生涯は是の如く二境に分れたりといへり。
逍遙子はこの言を作して、おのれが生涯を、造化の絶對に對する生涯と人間の相對に對する生涯とに分ちたるは洵にさることなるべけれど、評者たる我は此後沒理想論の毫も前度の沒却理想論とおなじからざるを見る。夫れ衆理想とは何ぞや。所謂理想の何物なるかは姑く問はず。その衆人の懷抱するところなるより見れば、衆理想は言ふまでもなき世間の理想なり、相對の理想なり。この世間の理想に對し、相對の理想に對して、欲無限の我を立てむとしつればこそ、逍遙子は星川子がためには萬理想を踏み付けて儼立[ゲンリツ]したるさま、天台一萬八千尺、碧林瑤草[ヘキリンヨウソウ]、瓊樓玉闕[ケイロウギョクケツ]、烟霧[エンム]の裏[ウチ]にほの見ゆる如しと稱[タタ]へられ、我がためにはいとも畏[カシコ]き聖教量によりて言を立つと評せられ玉ひしなれ。是れ早稻田文學の沒却理想なりき。今や逍遙子はその欲無限の我を以て、絶對を研究する天職を竭[ツク]さむといひ、その欲有限の我を以て相對に對する料理をなすといふ。されど絶對はおのづからにして無限なり。逍遙子が欲無限の我を立つるを待たず。相對はおのづからにして有限なり。逍遙子が欲有限の我を立つるを待たず。絶對に對しては限あらせじと欲し、相對に對しては限あらせむと欲すといふは、唯是れ絶對と相對との別より出でたる自然の境界にて、此間には誰も逍遙子が特殊の面目を見出すことなからむ。是れ今の早稻田文學の後沒理想なり。

「天台一万八千尺」は、「天台四万八千丈」ともいい、李白(701-762)の「夢遊天姥吟留別(夢に天姥に遊ぶの吟 留別の詩)」のなかに、こんな一文があります。

海客談瀛洲 煙濤微茫信難求 越人語天姥 雲霓明滅或可睹 天姥連天向天橫 勢拔五嶽掩赤城 天台四萬八千丈 對此欲倒東南傾 我欲因之夢呉越 一夜飛度鏡湖月 湖月照我影 送我至炎溪

海客、瀛洲[エイシュウ](仙人の住むという東方の三神山[ほかに蓬萊・方丈]の一つ)を談ず 煙濤、微茫にして信に求め難しと 越人、天姥を語る 雲霓、明滅 或は睹[ミ]る可しと 天姥、天に連なり天に向って橫たはる 勢は五嶽を拔き赤城を掩ふ 天台、四萬八千丈 此に對すれば東南に倒れ傾かんと欲す 我、之に因って呉越を夢みんと欲し 一夜飛んで度る鏡湖の月 湖月、我が影を照らし 我を送って炎溪[センケイ]に至らしむ

船乗りたちは仙山として名高い瀛洲について語る、もやの彼方に浮かんでいて行くのは難しい、と。越の人たちは天姥の山について語る、雲霓の明滅する間に或いは見ることができるかもしれぬ、と。天姥は天に連なって聳えている。その勢いは五嶽に勝り、天台山にある赤城の山にもたれかかるほどだ。天台山は四萬八千丈もあるが、天姥山と向き合えばその力に引かれて倒れてしまうに違いない。自分は夢の中で天姥山に登り呉越を望もうとした。そこである夜鏡湖の月を渡って山の上へと飛翔した。湖月に我が影が重なり、ついに溪へとたどり着いた。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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